今も
いろは「角もーらい。」
湊「わーんやられるー!」
ぱち、ぱち、ぱち。
ろぴが黒から白に変えていくのを眺めている。
盤面は白が7割、黒が3割ほど。
いい勝負と言いたいが
戦況としてはかなり厳しい。
今日は朝食を摂り終えるやいなや
ろぴはどこからかオセロを持ってきて
「やろう」と言い出した。
アプリ以外でオセロに触れた経験は
思えば幼少期以来なく、
手でひっくり返すのにも
数が多くなると一手間かかり、
当時それが楽しみに
繋がっていたなとぼんやり思う。
湊「白多いなぁ。」
いろは「逆転のチャンスが広がったんだよー。」
湊「お!ポジティブぅ。けど現実的に難しいよねぇ。」
いろは「湊ちゃんが現実的とか言うなんて珍しいー。」
湊「そーお?」
ぱち。
2つだけひっくり返す。
湊「こう見えて意外とちゃんとしてるもーん。」
いろは「ふふ、自分で言うんだー。」
湊「でもろぴもそうじゃん。」
いろは「そう?」
湊「ここに来るときさ、いろいろ決めてくれたしとっても助かっちゃった!」
いろは「そっかー。あんまり意識してなかったけどこういう感じかー。」
湊「誰しもギャップってあるもんですな。」
いろは「うんー。」
湊「ろぴって基本のほほんとはしてるけど、ぴしゃんってやるときはやるよね。」
いろは「でも、さっきの話を引っ張るに私が先にあれこれ行き先とか時間とか決めたのっていい悪いで判断できないよねー。」
湊「…?どゆことだい?」
いろは「んー、どう見るかによるって言うか。」
言語化に苦しんでいるようで、
うんうん唸りながら
ぱち、と白が置かれる。
いろは「例えばの話。自分で調べるのは大変だったからありがたいと思う場合もあれば、自由にふらふら歩いて行き当たりばったり観光するのを楽しみにしてた場合もあるわけで。」
湊「うんうん。」
いろは「それって後になってからしかわからないよね。」
湊「後になってもわからないかもよ。」
いろは「えー。」
湊「あ、でもうちは本当に決めてくれて助かったーって思ってるよん。」
いろは「よかったー。」
湊「でも、言いたいことはわかるな。もしうちが集合に遅れて新幹線を逃しちゃったとする。」
いろは「うん。」
湊「でもそこでもしかしたら思いがけない出会いがあって、それこそ将来どんな生活をしているかがまるっきり変わったかも!みたいな。」
いろは「そう、そんな感じー。あの時はこっちの方がいいと思ったけど、思い返してみればあのままでよかった、とか。」
湊「あるある。もしもの話なんて現実にならないのはわかってるし考えるだけ無駄だって思うようにしてるけどねん。」
いろは「そうなんだー。」
湊「結構ああだったらなーとか考える?」
いろは「よく。」
湊「そかそか。」
いろは「どっちにメリットを見るかだよねー。」
湊「メリット?」
いろは「さっきの湊ちゃんのたとえだと、先に新庄に着いてよかったと思うか、劇的な出会いがあったり経験ができたりしてよかったと思うか。」
湊「確かに。逆に言えばどっちにデメリットを見るかって感じかなん。最近SNSでもそういうの多いよね。」
いろは「そうなのー?」
ぱち。
第1回戦はろぴの勝ちだった。
ろぴは大喜びすることもなく
「2回目やりたい」と言う。
自分の駒を片付けて、
また2×2から始まった。
いろは「どういう感じのが多いのー?」
湊「うんとね。例えばアップルパイ作った!美味しいーってツイートするじゃん?」
いろは「うん。」
湊「普通に美味しそうとか上手とか褒めたりもっとこうすれば美味しくなるよーって教えてくれるようなものもあれば、手間かかるのにとか無駄だとかっていうツイートもあるわけ。」
いろは「あー、うんうん。あるねー。」
湊「それでいつの間にか料理の時に出る二酸化炭素の量の話になってたり、りんごを買えるだけの経済力だのあーだの、だんだん変わってちゃうの。」
いろは「現代的ー。」
湊「まあ後半はともかくよ、人の価値観なんて違うのが当たり前だよねってだけ。なんか自分でも何言いたいかわかんなくなってきちゃった。」
いろは「私はわかったよー。」
ぱち。
中央の集合体から
少し離れたところに白色がぽつん。
いろは「信じたいものを信じればいいのにねって言いたいんだよ。」
湊「信じたいものかぁ。」
いろは「うん。物事にはさ、昨日湊ちゃんが言ってたみたいに白と黒みたいな、2面からそれ以上の面があると思うんだよ。」
湊「だね。それはよくわかる。」
いろは「どこを見てどう信用してどの判断をするか。自分の信じたものでいいと思うんだ。」
湊「…。」
いろは「片方が悪くったってきっともう片方はよかったり、いつかはよかったって思える面はあるはずだから。」
ろぴは目を伏せそう言う。
それからしばらく会話はなく、
4、5回戦になってようやく
黒色が過半数を超えた。
いろは「湊ちゃんー。」
彼女はぱち、ぱち、と
駒をまた半分にわけ
中央に4つ置いてから口を開いた。
いろは「帰ろっか。明日。」
はら。
彼女の肩から髪の毛が
ふわりと重力に沿って落ちた。
先行がどちらかを決める前に
ろぴは駒を置いた。
湊「…うん。」
返事をする。
黒色をひとつ置いた。
夕飯が終わり、
お風呂も入ったのに
まだ20時前後なんて生活も
今日で一区切りするらしい。
明日からまた
時間に追われて時間を区切って
あくせく動き回る日々が始まる。
布団を敷きながら
ろぴは穏やかに言った。
いろは「明日は現実行きの電車だねー。」
湊「あはは、現実行きねぇ。確かにここ数日間はぷかぷか浮いてる気分だったな。」
いろは「浮いてたねー、私たち。」
湊「えいばあちゃんには本当に感謝だなぁ。」
いろは「帰りの新幹線の時間とかもさっき決めたやつ伝えたよー。」
湊「お!ありがとなす!お礼したいから帰ったらここの住所送って欲しいな。」
いろは「わかったー。えいばあちゃんのことだから気を遣うなとか言いそうだけどー。」
湊「ありがとうって思ってる分何かお返ししたいからさ。」
いろは「そっかー。忘れないように頑張るけど、私忘れっぽいからその時は連絡ちょうだいー。」
湊「おっけよ!あ、そうだ。」
いろは「んー?」
湊「時間とは並走できた?」
いろは「うん。できたよ。」
湊「そりゃ良かった。」
いろは「それでね、並走してわかった。並走してる時、時間の意識がなくなるんだよー。いつの間にか時間が過ぎてたっていう時が並走してる時だったんじゃないかな。」
湊「うんうん。うちもそう思う。追われてるって思うのはいつも辛い時とか苦しいことを思い出した時とか、何かしらしがらみがある時だった気がするもん。」
いろは「明日からはまた追われてあげなきゃ。」
湊「時間さんサイドも寂しがっちゃうってね。」
いろは「いつも構ってもらってるから、時には恩返ししなきゃー。」
湊「あはは、それじゃあ追われることが恩返しになっちゃうよ。」
いろは「時間を意識してる間しか構っていないんだから、追われてる間しか構ってあげてないのと一緒じゃないかなー。」
湊「じゃあ並走してる間は構ってあげらんないね。」
いろは「並走してちゃ恩返しできないんだ。皮肉だねー。」
湊「ちょっと寂しいすれ違いって感じがするよ。」
いろは「清々しくもあるよ。」
布団を敷いたのに
何故か地べたに寝転がる。
ごろん、と寝返りを打って
布団の上へと侵入していった。
湊「この旅の最後だしお土産欲しいな。」
いろは「明日駅で買って行こうー。」
湊「他の人へはそうなんだけど、自分用に欲しいなーって。」
いろは「…?だから明日買えば…」
湊「うち、ろぴの絵が欲しい。」
いろは「懲りないなー。」
ふふ、と彼女が笑う。
仕方ないなぁと言わんばかりに
長く息を吐きながら背伸びをした後、
その場を立って
近くにあった机から
メモ帳と鉛筆を持ってきた。
いろは「なんでもいい?」
湊「点でもいい。」
いろは「わかったー。」
あれほど描くことができない、
嫌だと言っていた彼女が、
どうして今であれば
ペンをとってもいいと思ってくれたのか
うちにはわからなかった。
微か、心が動いたのだろうか。
たった10秒もしない間に
鉛筆の擦れる音は止まった。
そこにはひとつ、
棒人間がぽつんと1人で立っていた。
いろは「完成ー。」
湊「うん、ありがと。なんで棒人間にしたの?」
いろは「誰でも描ける絵だからだよー。」
湊「誰でも…。」
いろは「うん。誰でもできる絵としての表現。最小限とも言えるかもしれないけど、絵をしてる人たちもきっとみんなこの初歩の感情表現方法を通ってきたと思う。」
だからこれは歴史のある誰でも描ける絵。
ろぴはそう言って
筆箱にシャーペンを仕舞った。
彼女はいつも自分に対しては
絵が上手いことを優先していた気がする。
それなのに、他の人に対しては
絵は誰でも描けるものと伝えていた。
まるでうちにもできるよと伝えているよう。
棒人間も他のイラストだってなんだって
上手く描こうとするから
難しくなるんだと言いたかったのだろう。
本来みんな絵は描けるんだ。
そうだ。
ろぴは今となっては凍結してしまった
Twitterのアカウントで呟いていた。
「絵は誰でも描ける」と。
その言葉を何度か目にしたことがあり、
見る度に「何を言ってるんだこの子は」と
密かに思っていた。
けれどこの旅を通して
彼女が本当に言いたかったことが
わかった気がする。
わかってしまった気がする。
湊「…。」
誰でも描けるのだ。
自分じゃなくていいのだ。
ろぴもそう思ってしまった。
これから先未来がある、
その未来の中で変わっていくことなのに、
その人にしか描けない絵があるのに、
絵は誰でも描けることばかり見えてしまった。
2面あるうちの片方が
嫌になるほど目についた。
そしてきっかけが目の前にできてしまった。
人間は何に対しても理由を求める。
納得できるものを探し求めている。
辞めるきっかけ。
それが見つかってしまった。
目の前に降ってきた。
その日から絵をやめた。
絵が欠けた。
湊「もらっていいの?」
いろは「えー?欲しいって言ったのは湊ちゃんでしょ?急に変なこと言い出しちゃって寝ぼけたのー?」
湊「…まあ、そんな感じよーん。白昼夢白昼夢。」
いろは「ふうん、そっかー。」
湊「何よー。」
いろは「私も夢を見てた気分だからさー。」
湊「おそろっちじゃん。」
いろは「ねー。」
肩をすくめて笑う。
夢とはどんなものだったのだろう。
寝ている時に見たものだったのか、
それともこの旅のことか、
はたまた描いていた時間のことか。
真意は定かにならぬまま、
ろぴは布団に潜り
何度見たであろう、
頭まで布団をかぶって
足だけを出していた。
湊「もう寝ちゃう?」
いろは「それでもいいなーって。」
湊「明日帰るのにも体力いるだろうし…しゃーなし、寝たるかぁー!」
いろは「ふふー。」
湊「なんだいなんだい何ですかい!」
いろは「楽しかったなーって。」
湊「あはは、うちも。」
いろは「また遊びに行こうー。」
湊「そうしよ!」
いろは「じゃあおやすみー。」
湊「ん、おやすみなさいまし!」
かち。
電気を落とす。
虫の音、真っ暗な部屋。
唐突ともいえる旅の終わりだけれど、
それでもどこか納得していた。
夏、とてつもなく自由で
何にも囚われない時間だった。
***
随分と白い空間だった。
立っているようで、
影が真下に落ちている。
床はあるらしいが
壁らしきものが見えない。
広く何もない空間だった。
あたりを見回すと、
奥の方で誰かが蹲っているのが見える。
湊「…あ。」
1歩踏み出す。
すると、これまでの夢では
透明な箱のようなもので区切られ
一切出ることができなかったのに、
今回に限ってそれがなく
自由に歩き回れるようになったらしい。
自分の靴音が響く。
蹲るその人に近づくうちに、
どうやらもぞもぞと
動いているらしいことがわかる。
目の前まで行く。
髪の毛をやんちゃに外に跳ねさせ、
それをも気にせず
床に散らばった紙に
ひたすらペンで何かを描いている
小さい女の子がいた。
あたりには
バランスが取れてるとは言い難い
子供の絵らしいそれが
彼女を囲むように散らばっている。
紙を踏まないよう
ところどころ退かしながら、
目の前まで行ってしゃがむ。
すると、その女の子はぱっと顔を上げた。
いまの今まで気づかなかったらしい。
「おねーさんだあれ?」
湊「ん?…うーん、占い師かな!」
「うらないするの?」
湊「そんな感じ。あなたは?」
いろは「さいおんじいろはです。」
湊「自己紹介できてすごいね。」
いろは「でしょ。おかあさんもおとうさんもいってた!」
ちっちゃなろぴは
…ううん、いろはは、
にこっと歯を見せて笑った後
またすぐ紙へと視線を戻した。
鼻歌まで歌って
本当に楽しそうに描いている。
うちがこれまで見てきた夢でも
小学生の頃までは
こうして楽しく口角をやんわり上げて
描いていたように思う。
見ているこっちまで
楽しいが伝播してしまいそうで、
けれどそんなことを
思っちゃいけないような気がして
眉間にしわを寄せたまま
ちょっとだけ笑ってみる。
あまりにぐちゃぐちゃな顔だろうなと
容易に想像できる。
彼女から視線を逸らした。
湊「絵、描くの好き?」
いろは「うん!だいすきー。」
湊「そっかそっか。そりゃいいね。」
いろは「このまえね、おかあさんにようちえんでかいたえをもってってね、そしたらすごいっていってくれたんだよー。」
湊「そっかぁ。絵、上手だもんね。」
いろは「みんなえがおになってくれるのすきー。」
がしがし。
乱暴な手つきだけれど
引かれる線はやがて
誰だろう、人の笑顔のようだった。
こんなに楽しく描いていた時期が
あるのかと思うと同時に
今のろぴの現状と
照らし合わせてしまって
勝手に心臓がぎゅっとなる。
このまま。
どうかこのままであってくれ。
そんな身勝手な願いが
脳内で蓄積されている。
このままで。
もしくは。
ここで。
山のてっぺんだろう今ここで。
今彼女は心底楽しそうに描いている。
しかし、今後彼女は
苦難ばかり襲いかかる。
それを乗り越えられる未来はあるかもしれない。
けれど、そんな保証もない。
そしてたった今、
うちの目の前には幼いいろはがいる。
不意に昨日話したことが
ありありと思い出される。
°°°°°
いろは「そうだ。言われたの。」
湊「言われた…?」
いろは「うん。なんかね…うーんと…あなたはその先も絵を描いていくでしょうー、みたいな。」
湊「何々、占いでも行ったんかーい。」
いろは「いいや、違うよー。そういうのじゃないよ、多分。」
湊「誰に言われたとかは覚えてないの?」
いろは「覚えてないなー。ほんと小さい頃だったからあやふやで。」
湊「あれじゃない?テーマパークで言われた、とか。」
いろは「ありそうー。その人に言われたことがずっと残ってて、最近はそれこそ忘れてたけど…でも、私絵を描いていくんだって信じて疑わなかったんだよね。」
湊「言われる前から絵は描いてはいたんだ?」
いろは「多分…?好きでやってて、けど本格的に上手くなりたいって思ったのはそこから…のはず。」
°°°°°
気づいちゃうよ。
気づいてしまうよ、そりゃあ。
うまく笑えない。
そんなことお構いなしに
彼女はずっと絵ばかり見ている。
困ったことに
ただの夢ではないだろうこともわかっている。
これはある一種チャンスでもあるのだ。
誰かがくれた最悪の分岐点なのだ。
今うちがここにいる時点で
察してしまうほかないことが苦しい。
ラムネの瓶からビー玉を抜いても
炭酸が逃げてしまうだけで
一応は成り立ってしまう。
絵を描くビー玉がろぴだったのだとしたら
絵を描かないビー玉は
一体なんと呼べばいいのだろう。
それでもろぴだろうか。
うちの知るろぴのままだろうか。
それなら。
もし叶うならまっさらにしてあげた方が
ろぴもうちも楽なんじゃなかろうか。
絵をやめたとしても
やめたという事実は付きまとう。
どうしてやめたの、と
うちみたく聞いてくる人はいるだろう。
そうでなくとも、
世の中の絵画やイラストを見ただけでも
顔を顰める日が来るかもしれない。
うちだってそうだ。
絵を描いていたろぴの姿の記憶があるから
辞めることに対してこんなにも苦しい。
絵を描かないろぴになってしまったら
今後どう関わっていくのだろう。
大切な友達なのに
変化した後が怖くて
距離をとってしまうかもしれない。
自分の浅はかさに心底呆れる。
けれど、そのくらい変化は怖かった。
それならいっそ何も知らない、
絵を描いていなかった頃の
彼女に戻せるなら。
いろは「おねーさんもかくー?」
湊「ううん、うちは描かないよ。」
いろは「そうなのー?」
湊「ね、いろはちゃん。ちょっとだけうちの話を聞いてくれないかな。」
いろは「んー?」
優しくない決断が
その人を守ることだってある。
例えば同居人がコロナになったとする。
そしたらどれほど心配でも
近くにいないで隔離することが
その友人のためにもなる。
隔離と聞くとそうされている側が
かわいそうだと捉えられがちだけれど、
実際はその人を守るためにしている。
だからきっと
うちが今これからすることも
それに当てはまると思う。
そう思いたい。
そう思っていないとやりきれない。
何度も唱え続けてきた決心が
脳内の独り言と目の前の景色で
無限に拡散していくようだった。
地べたで絵を描く彼女に
1歩歩み寄ると、
小さいいろはは顔を上げた。
いろは「おねーさんどうしたの?お話はー?」
湊「…うん…ちょっと考え事してて。」
いろは「おとなだー。」
湊「…ふふー…そうかも。」
上手く笑えない。
誤魔化そうとしたけれど、
楽しそうに口角を上げて
ましてや鼻歌まで歌い出しながら
描いているその姿を見ると
誤魔化すこともできなかった。
いろはは気づかずに
また紙に視線を落とす。
周囲には使った後だろう、
散らかされたままのクレヨン、画用紙たち。
そして描き終えた無数の絵の数々。
そのどれもが中学生以降の
ろぴの絵とは異なっていて
ぐちゃぐちゃで、
そして信じられないくらい自由だった。
ろぴの言っていた
「絵に囚われている」、
「湊ちゃんの絵は自由だよ」と
言っていた意味が
嬉しくないことに
理解してしまいそうで怖い。
湊「お姉さんはね、いろはちゃんの絵、好きだよ。」
いろは「ほんとー!」
湊「うん、本当。本当に大好き。」
雨鯨に入る前の絵も、
入った後の絵も全部好き。
調子がいい時の絵も、
スランプの時の絵も好き。
君に傷をのイラスト。
普段男の子も背景も描かなかったのに
頑張って描いてくれたのを覚えてる。
何度もした作業通話で
「難しい」「困難だー」と言いながらも
絶対に「無理」とは言わなかった
ろぴの姿勢に好感を持ってた。
未熟では主にまつりんが
写真を撮ってきて作った
PVだったけれど、
その風景に馴染むような男の子を
描いてくれたのを覚えてる。
あの突き刺すような眼光が
歌詞にもまつりんの意図にもあってて
勝手ながらぐっときてた。
その後にスランプがきて
しばらくTwitterから
姿を消したのを覚えてる。
けれどそんな中でも雨鯨を優先してくれた。
花探りのイラストを、
とてつもなく綺麗なイラストを描いてくれた。
幾重にもパワーアップした絵で、
その時は本当にろぴって
すごいんだって何度も思った。
未熟からたった2、3ヶ月、
しかもスランプと言うのに
彼女は成長し続けていた。
その後「私には才能はなかった」と
積み重ねられた紙束を投稿していた。
何を言っているんだ、と思った。
中学1、2年生であそこまで描けて
おまけに努力だってしている。
それで才能がないのか、と。
けれど、ろぴが欲していたのは
年齢を基準にした絵の評価では
ないことに気づいた。
月来光の心では
フルアニメーションとまでは行かずとも
動くMVを作ってくれた。
1日15時間ほどかけた日があったと聞いた。
楽しかったとは言っていなかったけれど
「流石に描きすぎた」と言っていた気がする。
曲にある思想を忠実に
映像化できる彼女の絵に
心底惹かれていた。
いろは「じゃあこれからも、もっとたくさんえをかけるのかなー。」
そうだね。
そう返せればよかった。
うちはあなたが何十、何百枚も
何千枚も描く未来があることを知っている。
その先何万枚も描くだろう
未来を見届けたい。
けどね。
あなたは言ったよ。
°°°°°
いろは「私の絵を否定してほしい。」
°°°°°
湊「ううん。」
首を振る。
自然と顔が下がる。
目を合わせていられなくなる。
いろは「えー?かけないの?」
悲しそうな声だった。
だから悲しくないよと、
寂しくないよと伝わることを願って
顔を上げて彼女の手を取った。
両手でしっかりと握る。
ものすごく小さな手だった。
湊「学校に入ったら美術の授業があるから少し描く。でもね、いろははこの先もっと広い世界を知っていく。いろんな場所に遊びに行って、いろんな人と関わっていく。」
いろは「んー?えは?」
湊「絵は…描かなくなるの。他にもっと楽しいことがあるって知るの。」
いろは「たとえばー?」
湊「うちから出る例えは趣味より遊びだからなー。あはは。」
いろは「ききたーい。」
湊「…そっか。例えばね、東京に行って可愛い服を見に行ったり、体験型のアトラクションに乗ったり。」
いろは「ゆうえんち?」
湊「そんな感じ。話題のスイーツを食べに行ったり、大きな水族館に行ったり、有名人のライブに参戦したり。あとは海に行ったり夏は流れる大きいプールにも行ったりして。」
いろは「すいぞくかん、サメさんいるー?」
湊「いるよ。ペンギンさんも。それから、近場でカラオケに行ったり、美味しいご飯を食べたり。食べ放題に行ったり!…あはは、ご飯の話題多いか。」
いろは「なにがすきー?」
湊「え?」
いろは「たとえばのなかで、なにがいちばんすきー?」
湊「うーん、そうだなぁ…うちは体を動かすのが好きだからなー…。」
いろは「じゃあすいえい?」
湊「んー…。」
いろは「れいかちゃんもね、すいえいしてるよー。」
湊「お友達?」
いろは「そー。」
いろははいつからかクレヨンを置いて
うちの方に体を向けて
ぺたりと座っていた。
くりっとした目と不意に目が合う。
そして思い出したかのように
「なにがいちばんなのー」と
もう1度聞いてきた。
思えば体を動かすのが好きで
これまで色々なことをしてきたけれど、
何が1番好きかと言われると
とても答えづらい。
なあなあにやっていたつもりはない。
どれも相応に楽しかった。
だからこそ優劣がない。
チアやバレーボール、
遊びだとボウリングやスケートも。
そこまで浮かぶも
はっとして口を開いた。
湊「お散歩。」
いろは「おさんぽー?」
湊「そう。しかも誰かと一緒に歩くの。うち、人と話すことも大好きだからさ。」
友達や家族、人と話しながら
歩いていくのが好き。
その場所に思い出が染み付いて
景色にその人が浮かぶから。
変えることのできない過去を
自分の中に残せたという事実が嬉しかった。
数年前のゆうちゃんとの帰り道を思い出す。
確かに自由はなかった
友達と帰らせてもらえなかった。
けれど、あの時間、
ゆうちゃんといた時間が
不必要かと言われると絶対違う。
断言できる。
あの時間は大切で、
ゆうちゃんの心に触れられるような
繊細で輝かしくて
きっと大切な記憶だから。
今だけは感情が昂っているのだろう。
ゆうちゃんに守られてきたなんて
浅はかにも感じてしまう。
そんな記憶を含めて景色に残る。
だから散歩するのは好きだ。
きっとろぴも守られて生きてきた。
接してわかるおおらかさ、
初めから否定せず受け入れる姿勢。
守られて、大切にされて
育ってきたことがよくわかる。
だからどうか自分で自分をも
大切にしてほしかった。
苦しむために生まれ育つ人がいると
うちはどうしても信じたくなかった。
うちはやっぱりどう頑張っても
過保護で仕方がないのだろう。
環境由来だとか言い訳するつもりはない。
自分を受け入れるしかない。
ぎゅ、と手に力を入れる。
いろはは「ちからつよーい」と
けたけた笑っていた。
うち、ろぴにも守られてきたよ。
心がどうしてもしんどい時、
頼れたのはろぴだった。
あの時はあなたが守ってくれた。
だからうちもろぴを守れるのならそうしたい。
ろぴは言った。
言ったよ。
裏表のあることしかないから
信じたい方を信じるべきだって。
だからこれからうちがすることも
そう言えるはずなんだ。
方や彼女を傷つけて、
けれど方や彼女を守るって言えるはずなんだ。
うちはろぴの絵を否定できない。
けれど。
そもそもろぴに絵のあった人生を
否定することはできる。
だからどうか。
湊「広い世界を見に行ってね。」
いろは「おねーさんは?」
湊「え?」
いろは「おねーさんはこないの?」
湊「…ふ、あははっ。いつかね。いつか合流するよ。」
いろは「まちあわせするの?」
湊「うん。ちゃんと迎えにいくから。」
いろは「いいこだからまってるねー。」
湊「待ってて。」
外側に跳ねたボブの長さの髪の毛先に
そっと人差し指で触れた。
どこからだろう。
光が反射して指に落ちていた。
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