独歩
ちら、といつも布団を敷いている
2階の部屋を覗く。
うちがテレビを見ている間、
いつの間にか姿がなくなっており
探している最中だった。
部屋には当然のように彼女がおり、
畳んだ布団を背に足を伸ばして座って
膝の上で本を開いている。
しかし読んでいるそぶりは一切なく
それどころか顔は斜め上を向いている。
考え事でもしているのだろう。
うちに全く気づいていない。
湊「ろぴー!」
覗いていたことがバレないよう
思い切り扉を開く。
ろぴは驚くそぶりもなく
目を、そして顔を動かして
ぼけっとこちらを見た。
いろは「んー?」
湊「夕日めたんこ綺麗だからお散歩行こ!」
いろは「いいねー。行くー。」
気分で開いただけなのだろう本に
しおりを挟むことなく
そのまま閉じて床に置いていた。
外は程よく涼しく、
薄い羽織があって
ちょうどいいくらいの気温だった。
神奈川は今頃もっと暑さが残っているのだろう。
天気予報では少なくとも5℃は
違っていた気がする。
いずれ関東に帰ると思うと
まず初めに暑さに慣れなければいけない。
こうして時折帰ることを考えながら、
それでも逃避行のように
考え事を頭の中から飛ばす。
その隙間に虫の声が入ってきた。
褪せた色のコンクリートに
朱色の日差しが差し込む。
道を中心に両方に広がる田畑が
光を受けたり
風を使って躱したりしているせいで
きらきら輝く星を
くっつけているように見えた。
いろは「気温ちょうどいいねー。」
湊「ね。早歩きしても汗かかないって最高!」
いろは「湊ちゃんてしてるもんね。」
湊「そうですかい?多分やることとやりたいことがたくさんあるからじゃ無いかなん。」
いろは「おー。バイトとか部活とか?」
湊「そーそー!それに帰りにご飯買って、とか。」
いろは「1人暮らしすごいなー。」
湊「その環境になりゃ誰だってなんとかするよぅ。」
いろは「そうかな?」
湊「ろぴもやってみ、1人暮らし。」
いろは「社会人になったらかなー。」
湊「大学は実家からのご予定?」
いろは「んー、まだ何にも考えてないや。」
湊「1年生だもの!そりゃ普通よ。」
いろは「この前受験終わったばかりだもんー。」
湊「おわ…そっか…ずしっときた!」
いろは「あ、2年前だっけ?」
湊「そうなんだよー。おかげで同い年の友達みーんな遊びに誘いづらくなっちゃった。」
いろは「同じ学年の子とはまだ遊べるねー。」
湊「んだね!それで来年は大学生になったみんなに受験の情報教えてもらうために遊ぶんだい!」
いろは「絶対最後のが本音だねー。」
湊「息詰まっちゃうもんね。うち高校受験の時もしょっちゅう外走ってたし。」
いろは「走る?部活?」
湊「いいや、気を紛らわせるっていうか…気分転換?」
いろは「散歩ならなんとかわかるけど走るはわからないなー。」
湊「すっきりするよん!当時田舎で自然多くて、見慣れまくってる景色だけどリフレッシュはできる、みたいな!」
いろは「いいねー。田舎に住みたいなー。」
湊「まあまあ、今回の旅はいい具合に体験版だったんじゃ無いですかい?」
いろは「確かにー。来てすぐは自然の音が大きいのにびっくりしたけど慣れてきたし、帰った時物足りなくなりそうー。」
湊「わかる!なんだかんだで1週間だもんね。」
いろは「そっかー。
湊「7月も半分過ぎたってよ!」
いろは「おー。びっくり。」
湊「たはは、びっくりしてなさそう。」
いろは「してるよ、してる。ほら、目が開いてるー。」
湊「えー?全然開いてないよー。」
いろは「じゃあ湊ちゃんやってよー。」
湊「んぉら、こう!」
いろは「あはは、こわーい。手使っててずるいぞー。」
話さなくてもいいくらい
どうでもいい話をするのが好き。
ろぴとだってそう。
こういう何も無い時間が好きだった。
ぱっと自分の顔から手を離し
横並びで歩く。
けたけたと笑う彼女は
口を閉じても口角を上げたまま
遠くの山々を見つめたまま。
いろは「あっという間だなー。」
湊「ね。もうすぐ夏休みだよ、何しちゃおうか。」
いろは「何もしないかなー。」
湊「どっか遊びに行こうよん、うち行きたいとこたくさんあるからむしろ連れてくね!」
いろは「ありがとー。」
ろぴはこちらが気を抜いたら
すぐに美術室にこもってしまう。
そして絵を辞めたいと思いつつ
そこに居続けてしまうのだから、
連れ出してあげられる時に
外の空気を吸わせなきゃ。
こう思うと案外自分は
世話焼きなんだな、と思う。
また絵の話に戻っていきそうで
開いた口を閉じぐっと堪える。
連日しょんぼりするような、
うちの普段からしてみれば
一見暗い話ばかりしている。
ちょっとでも明るい時間にしたい。
そう思っているとろぴの声がした。
いろは「結局絵、1枚も描いてないやー。」
湊「あのさあのさ!」
いろは「んー?」
湊「ろぴが絵を描くきっかけってなんだったの?」
唐突に思いついた質問がそれだった。
辞める理由はきっと
何を聞いても納得したくないと
思ってしまうに違いない。
なら、せっかくなら反対の、
始まりの話を聞きたいと思ったのだ。
ろぴはきょとんとして、
「そうだなー」と近くの小石を蹴った。
いろは「要所要所で描かなきゃって思ったことはあるんだよねー。」
湊「例えば?」
いろは「んー、例えば、白色の絵の具だけで描かれた絵を見た時…とか。」
湊「…!」
うちがいつだか夢で見たものと同じだ。
大きめの展覧会だったのか
人が何人もいる中で飾られていた
ひとつの大きな絵。
全部白色で、その影だけで制作された絵を
夢の中のろぴはずっと眺めていた。
それから少し、けれど酷く熱中して
机に齧り付いていた映像が浮かぶ。
いろは「あとは…2年前にね、今年みたいな変なことに遭遇…っていうのかな、そういうことがあったのー。」
湊「そうだったの!?」
いろは「うん。その後に何かしなきゃーって思ったことはあった…けど、最初のきっかけってわけじゃないしなー。」
最初、最初、と
ぶつぶつ呟きながら
ふたつ結びの髪を揺らした。
何かを思い出そうとしているのか
口触りがいい言葉だったから
呟いているだけなのかわからず、
念の為口を挟まないまま
鳥たちの声に耳を傾ける。
日がどんどん沈んでゆく。
影が少しずつ増える中、
ろぴは「あ」と声を上げた。
いろは「そうだ。言われたの。」
湊「言われた…?」
いろは「うん。なんかね…うーんと…あなたはその先も絵を描いていくでしょうー、みたいな。」
占いをするように
両手を前に伸ばして
水晶の周りを手で撫でるような動きをしている。
なんだかおかしくて笑ってしまう。
湊「何々、占いでも行ったんかーい。」
いろは「いいや、違うよー。そういうのじゃないよ、多分。」
湊「誰に言われたとかは覚えてないの?」
いろは「覚えてないなー。ほんと小さい頃だったからあやふやで。」
湊「あれじゃない?テーマパークで言われた、とか。」
いろは「ありそうー。その人に言われたことがずっと残ってて、最近はそれこそ忘れてたけど…でも、私絵を描いていくんだって信じて疑わなかったんだよね。」
湊「言われる前から絵は描いてはいたんだ?」
いろは「多分…?好きでやってて、けど本格的に上手くなりたいって思ったのはそこから…のはず。」
本当に記憶がはっきりとしないらしく、
あやふやな言葉を紡いでいた。
しかし、首を傾げては
「今となっちゃその人に申し訳ないけど」と
淡々と言葉を捨てる。
いろは「もう描けないかもなー。」
湊「…。」
不意に足が止まる。
足音がひとつだけになり、
それに気づいたろぴが
ゆっくりと足を止めるのがわかった。
サンダルが光を穏やかに反射して目が痛い。
顔を上げた。
半身をこちらに向けたろぴが
「早く行くよ」と言うように、
はたまた構えるように顎を引く。
けれど、うちは服の裾を
握りしめることしかできなかった。
湊「ごめんね、何度も何度も掘り返して。でも言わなきゃって思うんだ。」
いろは「うん。」
湊「ろぴに絵を描いてほしい。ろぴが絵を辞める必要は無いよ。」
この1週間、いや、
ここ数年間何度も考えた。
趣味で何枚も描いて、
時に100日チャレンジだと言って毎日描いて
Vtuberのデザインや
うちら雨鯨のデザインもして。
これだけ描いてきたのだ。
素敵な絵を何枚も見てきた。
キャラクターを通して
楽しいが伝わってきた。
それが好きだった。
だから、まだ。
まだ、ろぴの絵を見たい。
どうしても。
その言葉の裏には無意識のうちに
変わるなという願いが
潜んでいることに目を背けたまま言葉にする。
湊「誰にも見せなくてもいい。ネットに投稿しなくたって描くことはできるんだから」
いろは「本気で言ってる?」
刹那、ろぴの声が
つんと尖るのがわかった。
いろは「誰にも見せないのは描いていないのと一緒だよ。ネットに投稿しないのは事実上ネットでの活動、絵師は辞めると言ってるも同然だよ。」
湊「…。」
いろは「例えばね。私は描き続けていたとする。けれど、湊ちゃんにも誰にも見せない。それは本当に描いているの?」
湊「ろぴが「最近描いてる」って言えばそうなる。」
いろは「そこで曖昧な言葉を依拠とするの?じゃあ今後私は絵をやめて、だけど湊ちゃんの前では描いてるなんて嘘つくことにするよ。」
湊「それは…。」
わかる。
言いたいことはわかる。
この前ゆうちゃんがツイートしていたことと
似ているのだろう。
自分は他者でできている。
ツイートしなければネット上では
事実上の死である。
他者が、ろぴは絵を描いていると認知する。
だからろぴは絵を描く人と言われる。
それをもってしてようやく
そう言われることができる。
イラストを投稿しないのなら
事実上ネットでの絵師としてはおしまいで、
誰も描いているところを見ていないのなら
その人は絵師ではなく
ただ描くと宣言している人になる。
見せて、と言われても見せないのなら
それこそ虚言かも怪しい。
自分の袖を握りしめる。
ろぴは本気で絵を辞めようとしている。
描きたい時に描くなんて
中途半端でお気楽な選択ではなく、
本気でその道も過去も断とうとしている。
どうしても…その道じゃなきゃ
駄目なのだろうか。
もう何もできないのだろうか。
湊「そこまでして描きたくないの?」
いろは「うん。絵を描きたくない。」
湊「…。」
いろは「絵を辞める必要の有無、じゃない。それは描きたい人が描けない状況になったら言うものだから。」
湊「実際そうでしょ?中学のあれこれが関わってんじゃないの?」
いろは「ただのきっかけ。それのせいで絵を辞めるべきとも思ってない。ただ辞めたい。私の絵に価値はない。」
湊「あるよ!うちがあるって思ってる。れーなやまつりんだって…っ!」
いろは「違う。私が自分の絵に価値を見出せないの。」
湊「…。」
いろは「周りの期待に応えようとしすぎた。絵を描いた。けれど、そうじゃない。私が求めてたのは違う形。私が好きな私だけが見つけられた感情や景色を込めるの。でも、それもできない。」
1度目を伏せる。
しかし次の瞬間、ぱっと顔を上げて
にこやかに笑っていた。
いろは「自分の絵を愛せないんだよー。」
湊「…っ。」
いろは「愛せない醜いとすら思ってしまうそれを、産み続けろと言わないで。」
湊「逃げないで!」
いろは「…。」
湊「逃げないでよ!うちからも絵からも!」
いろは「それはこれまで逃げたことない人だけが説得力を持って言えるんだよ。」
湊「ろぴ。」
いろは「湊ちゃんは全部を見ないふりするのに。」
湊「それは今関係ないでしょ。」
いろは「そうだね。ごめんなさい。」
ここで反発することなく
素直に謝れるのが彼女の強さだ。
強さであって、
すぐに事なき事態にするために
すらりと躱してしまう弱さだ。
いろは「それにしてもいつも見ないふりをするのにどうして今回はこんなに知ろうとしてくれるの。何を怖がってるの。私の問題なのに。」
湊「だからだよ。大切な友達だから怖いんだよ。」
いろは「大切ならどうか、私の意思を尊重して欲しいな。」
湊「そしたら…」
いろは「残念ながら、私は湊ちゃんのお人形じゃない。」
湊「…!」
°°°°°
湊「そうだけども…監視されすぎてる感じっていうか、縛られすぎるっていうか。」
いろは「そっか。」
湊「たまーに、ほんのたまーに思っちゃうんだよね。人形じゃないぞーって。」
いろは「大学生になったらきっと今より自由になるんじゃないかなー。」
湊「大学生かぁ。」
いろは「とか、社会人とか。大人になったら個人個人の時間が増えるはずだからさ。」
°°°°°
彼女の言葉に思わずぞっとした。
知らずのうちに押し付けていた自分が怖い。
いろは「ねえ、湊ちゃん。」
ざ、ざ。
ろぴがゆったりと歩いて
こちらに向かってくるのが見える。
ゆわり、ゆわり。
髪の毛が揺れる。
見惚れたら連れ去られる
妖怪のように酷く怖く、
それでもって触れたら消えてしまいそうな
繊細な糸のようだった。
うちの前まで来て、
そして鎖骨あたりに
そっと指を当てられた。
いろは「私の絵を否定してほしい。」
静かに。
それで諦めがつくからと言わんばかり。
困ったような笑顔を浮かべて言った。
思いがけないことに
どう言ったらいいかわからず
唇は僅かに震えるだけ。
できない。
それが1番はじめに思ったことだった。
心の底から彼女の絵を否定するなんて
どうしたらできようか。
嘘でもいい、
形だけでもいいから否定すれば、
今後彼女は穏やかに過ごすことが
できるのだろうか。
それが孤独な美術室から
連れ出してあげられる
1番の方法なのだろうか。
それとも、言葉のままに捉えたら
いけないのだろうか。
もっとろぴのことがわかっていれば
なんて言ったらいいのか
わかったのだろうか?
ろぴのことがずっとわからなかった。
今もなお、ずっと。
ろぴは見兼ねたのか
そっと手を下ろした。
湊「…。」
いろは「ありがとね。」
何が。
何に対してのありがとうだ。
こんなにもやもやしている。
レントゲンを撮ったら心は真っ白だろう。
けれど彼女の言うことは真っ当で。
人形じゃない。
当たり前なことに
どうして気づけなかったんだろう。
だから。
いろは「…。」
だから、背を向けて歩いていくろぴに
それ以上何も言えなかった。
湊「うち、もうちょっと散歩してから帰る。」
いろは「わかったー。暗くなる前に帰ってくるんだよー。」
1人で歩いていく背中がぽつり。
ろぴは振り返ることなく
片手を上げゆったりと振った。
見えていないからか
それに返すこともせず
ただただ立ち尽くし、
数秒見送ってから
反対方向へと歩き始めた。
ずっと、ずっと歩いて数十分。
ようやく信号が見えたあたりで
足の回転の速度を落とし、
やがてゆっくりと止めた。
湊「あーもう。」
近くの背の低い塀に背を預け
緩やかに背を丸める。
あぁ、喉が渇いた。
他のことで考えを埋める。
余計なことが入ってきませんように。
そう願っても無意味なことくらい
今のうちならわかってるはずなのに。
湊「向き合わせないで穏便に済ませた方が良かったのかもなー…。」
悪いことをしたとは思っていなかった。
言葉で伝えなきゃ。
そう思うのは変わらない。
けれど、それはこの旅では
しなくてもよかったのかも
しれないなんて考えがどうしてもよぎる。
ぎゅ、と自分の服の裾を
両手で掴んだ。
°°°°°
いろは「おばあちゃん、みてー!」
えい「まあ上手!さっきみんなでお昼ご飯食べてた時の絵かい?」
いろは「そう!」
えい「わあ、すごいねぇ。」
えいばあちゃんはにこにこしてた。
目もとにしわがぎゅっ、ってしてる。
えい「ちょっと見てよあなた。」
そういっておじいちゃんにも見せてた。
え、うまいねーだって。
お母さん「絵を描くのはいいけど、食事中はご飯にゴミが入っちゃうかもしれないからやめてね。」
いろは「えー。」
えい「食べ終わった後だからいいとあたしゃ思うけどねぇ。」
いろは「いいの?いいの?」
えい「あぁ。たくさん好きなことに時間使いな。」
お母さん「ちょっと母さん。もう。」
いろは「おばあちゃんかくー。」
えい「え?はは、こりゃ嬉しいねぇ。頼むよ、ちっちゃな画家さん。」
きゅ、きゅ。
くむ、ぎゅ。
クレヨンでぬるとどうしてもダマができる。
ひさしぶりにクレヨンやコンテをつかった。
小学生になったら
えのぐがふえたから。
なんか、なれない。
きれいにぬれないし
かってにぶわーって広がらない。
へんなかんじ。
けど、それでもたのしい。
いろは「ふーん、ふふー。」
お母さんはぷりぷりしてたけど
おばあちゃんもおじいちゃんもにこにこだし
それでいっか。
もっとたくさんかくんだ。
あなたはえをえがく人になるんだよって
そう言われたから。
そうなるんだ、たぶん。
ううん、ぜったい!
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