卑下頑是も

随分と記憶に残る夢を見た。

知っている人がいたから

余計覚えているだけなのだろうか。

いや、でもあの時呼吸して、

自分の手を見て、

そして目の前の景色を見て。

あれは現実だった。

夢のはずなのに、現実そのもの。

何度考えたってそう思ってしまう。


目の前にはろぴがいた。

床に座り、背を丸めて

地べたに敷いた紙に絵を描いている。

幼稚園生や小学生が

夏休みすることがなくて

だらだら寝転がって遊ぶ様子にすら見えた。

しばらく手を動かして、止めてを繰り返して

やがて諦めたかのように、

はたまた時間が来たかのように

ペンを置き、その場から去ってしまった。

うちのことは見えていないらしく

1度も目が合うことはなかった。

置いていかれたあの時の

孤独感が今でも鮮明に思い出せる。

現実のような夢だった。

明晰夢というやつだったのだろうか。


小さく首を振る。

目の前のろぴが小鳥のように首を傾げたから

誤魔化すようにして腕を引く。


湊「見てみてあっち!めっちゃ可愛い色したお店!」


いろは「本当だー。雑貨屋かな?」


湊「行こうよん!わ、カエルの置物見えるよ!」


いろは「行こう行こーう。」


バスに乗って新庄駅周辺の探索をしていると

東京や神奈川の都会部分よりかは

はるかに落ち着いた雰囲気が流れているが、

だからこそその地域、お店ならではの

普段ならお目にかかれない貴重なものが

大量に飛び込んでくる。

それらを見つけてはろぴの手を引き

駄々をこねる子供のようにお店に入る。

最高気温が30℃近く

梅雨の関係が湿度が高いことから

涼しさの恩恵を受けるために

お店巡りをするなんて

言い訳を考えていたが、

ろぴは軽々と付き合ってくれるから

そんなことを言う機会はなかった。


いろは「この小説最新刊出てたんだー。」


さまざまなお店を巡る中で

本屋にふらりと入ったろぴはそう言った。


湊「読んだことあるのかい?」


いろは「いいや、タイトルだけ知ってるのー。」


湊「わかる!そういうの結構あるんだよね。Twitterで流れてくるからかな?」


いろは「だねー。」


湊「先入観なしに一旦読んでみるってのは?」


いろは「じゃあせっかくだし湊ちゃんの言ったことをやってみたいから、全く知らない本でも買っていこうかなー。」


湊「ありよりはべりいまそかり!うちもなんか買ってこー。」


いろは「湊ちゃんって本読むの?」


湊「昔話や国語の教科書は好きだけど、文庫本とかそういうのは全く。漫画もあんまし読まないからねん。」


いろは「私がいうのもなんだけど特殊だよねー。」


湊「そういうろぴは読書家さん?そいえば本持ってきてたよね。新幹線の中でさ。」


いろは「あれはねー、好きで毎年夏に読み返してる本なんだー。だから狭く深くって感じ。そんなに冊数は読まないよ。」


湊「読んでるだけいいってもんよ!現代人本読まないっていうじゃん?」


いろは「確かにー。本を読まないとあーだこーだっていうよねー。」


湊「あるよね。まあその通りなんだろうけども、本読んでなくともさ、ネットでニュース見たりTwitter見たりで何かと文字に触れてんじゃん?もう文字読んでることが偉いってことで!」


いろは「ふふー、ポジティブー。」


湊「だしょ!まかせろりん!」


そして買った本を持って

新庄駅の隣にあった複合施設へ向かい、

窓際の席で本を広げる。

定年後のご高齢の方や、

時折旅行客が訪ねては

お土産を買ったり軽食をとったりしていく。

穏やかで贅沢な時間の使い方だと

噛み締めるように思う。


小学生時代は今ほど時間に

追われている感覚はなかったが、

中学生になって以降

部活であったり勉強であったり、

高校生になるとバイトであったりと

何かと忙しい日々が続いた。

その中で友達と沢山遊びに行くよう

自分で約束を取り付けることもあり

それはそれで十二分に楽しんだが、

ここまでのんびりとすることはない。

ろぴの言っていた時間と並走するとは

きっとこのことなのだろう。

ぱら、と隣から紙を捲る音、

遠くから人の話し声がしていた。


えいばあちゃんの家に戻ってからは

ろぴが探したいものがあると言い

2階の押入れの中にあった

段ボールを漁り出した。

唐突さに驚きながらも手伝っていると、

不意に彼女が「あ」と声を上げる。

その手には3DSが握られていた。


いろは「あったー。」


湊「なっつかしい!」


いろは「中学生の頃かな、今使ってないものは全部えいばあちゃんちに置かせてもらうって話になったんだー。小さい頃の服からぬいぐるみはまだしも、間違ってゲームまで全部入れちゃって。」


湊「見つかって良かったね!」


いろは「うん。手伝わせちゃってごめんねー。」


湊「いやいや、お宝発見みたいで楽しかったわよん。」


いろは「お姉ちゃんの分とふたつあるし…充電できたら遊ぼうー。」


湊「わーい!うちゲーム機あんま持たせてもらえなかったからうれぴ!」


充電し終えるまで待つ間に

えいばあちゃんは果物を切ってくれたので

それを頬張りながら

流れていたテレビを見る。


いろは「今みんな学校行ってるって思うと変な感じだよねー。」


湊「ね。なんか置いてかれそうでどきっとしちゃうよ。」


いろは「そう?愉悦感じゃなかったかー。」


湊「それはねー、ちびっとある!」


えい「いいんさいいんさ、休むことも必要さね。」


よっこらせ、とえいばあちゃんが

ソファに腰掛けた。

ろぴは絨毯の上で寝転がり、

うちは胡座をかいていて

あまりに長閑な空気が流れている。

実家の近所と似たような田舎具合だけれど、

家の中で流れている空気はまるで違う。

実家ってこんな感じだったっけ。


えい「ただ戻ったらしゃんとしいな。休んだ分、少し頑張ればいい。」


いろは「はーい。沢山休むー。」


メロンをひと口頬張る。

体の芯まで染み渡るような甘さだった。


3DSが使えるようになった頃、

2階に戻り2人でそれを開いた。

妖怪を友達にするゲームであったり、

牧場を経営するゲームだったりと

いくつか並んでおり、

稀にふたつ同じようなソフトがあった。

それをそれぞれの機体に刺し、

タッチペンがないだのどうだのはしゃぎながら

結局はパーティゲームをする方向で落ち着いた。


湊「ねね、なんで同じソフトがあるのですかい!」


いろは「お姉ちゃんとやってたからだよー。」


湊「そーなんだ!へぇ、れーなと。れーなもろぴもゲーム得意じゃなさそうだけども。」


いろは「私はそうだね、牧場ずっとやってたなー。」


湊「わはは、イメージある!」


いろは「お姉ちゃんは意外と戦う系というか、RPG好きだった感じするなー。」


湊「そうなの?」


いろは「うん。多分時間掛ければかけただけ強くなれるのが好きだったんじゃないかなー。やり込み要素も多いし。」


湊「ストイックさが垣間見れますな。」


いろは「ねー。私もお姉ちゃんと思えばあんまり変わってないのかもー。」


湊「微笑ましいこった!変わりすぎるよりかは安心するよん。」


いろは「湊ちゃんは?ゲームとかあんまりしてこなかったんだっけ。」


湊「そー。DSはあった気がするけど、3DSってインターネット繋げちゃえたらしいじゃん?だからそれが駄目ーって言われちって。スマホも買ってもらえるまで長かったからね。」


いろは「そっかー。今じゃ小学生でも個人のスマホ持ってるくらいだもんねー。」


湊「幼稚園っぽい子もよく持ってるよ!多分親のだろうけど。」


いろは「おー、現代的ー。」


湊「心配になっちゃうよね。ネットが悪影響だーってのもちょいとわかるからさ!悪いだけじゃないけども!」


いろは「わかるわかるー。」


湊「お話しする楽しさは知ってて欲しいなぁ。」


いろは「おばあちゃんみたいなー。」


湊「あはは。よく言われる!」


いろは「でもスマホは買ってもらえたんだね。」


湊「駄々こねまくったし何回も家族会議まで持ってってなんとか!」


いろは「え、そんなに厳しかったんだー。」


湊「うん。本当なら高校生でも買い与えないつもりだったんだって。でも上京するから友達の連絡先持ってたいとか力説しまくったもんね!」


いろは「友達との連絡は家の電話でいいじゃんとか言われなかったー?」


湊「言われた言われた。で、確か最終的にうちと母親でいつでも連絡取れないのはどうなの?うちが学校の時はまだしも、急遽入院したとかだったら?家電取れないよ?って説得というより半ば脅すみたいになってやっとだったかな。」


いろは「それでTwitterと…。」


湊「やめやめーい!Twitterとてそんな悪い使い方してないから!」


いろは「ふふ、確かにー。」


湊「うちの親は徹底的に世間の意見…というより個人個人の意見に触れさせたくなかったのかなとは思ってたけど、まあちょいと心配しすぎだよね。」


いろは「親はいつまでも子供のことは気になるだろうし他のお家の親御さんだからなんとも言えないけど、これまでいろいろな人に出会ってきた湊ちゃんがいうんだったらそうかもー。」


わー、とゲーム機から音が鳴る。

ろぴが勝ったようだった。

ゲームは得意ではないと言いつつ

やはり昔にやり慣れたものは

案外覚えているものなのだろう。


湊「あとさ。ちょいと聞きたいことがあって。」


いろは「んー?」


湊「れーなって何してるのかなって。」


いろは「あー、お姉ちゃんね。うーん、私もそんなに詳しくは知らないんだよねー。」


湊「そなの?会ってないの?」


いろは「昔ほどは。雨鯨結成時こそ1週間のうち半分くらいは会ってたんじゃないかってくらいだったけど、最近は1ヶ月に1回会うかどうかー。」


湊「そうなんだ。じゃあこの旅行も知らない?」


いろは「私は言ってないねー。親同士で話があれば、じゃない?」


湊「なるへそー。」


いろは「ちょっと前はお姉ちゃん受験するって言って勉強してた気がするから、もしそのまま進むのであれば進学かなー。」


湊「その、声とかは?」


いろは「んーん、まだ。」


湊「そかそか…。」


いろは「でも耳は聞こえるから、音楽関係の専門学校に行くかも迷ってたみたいなことも聞いたっけ。」


湊「え!すごいすごい!れーな歌うの好きだったからさ、音楽続けられる道を選ぶのめたんこ応援したくなる!」


いろは「ねー。ただ…。」


湊「あー、コミュニケーションが取りづらい…ってこと?」


いろは「ううん。そうじゃない。それはスマホでも紙でも手話でも方法は沢山ある。」


でもね、と

ろぴはリザルト画面をタップし

次のゲームを始めてから言った。


いろは「もし自分が声を出すことができれば向こう側に立っていたかもしれないっていう後悔とか恨みとか…そう言ったものが溢れたってどうにもできないから…なら、距離をとった方がいいって私なら思うなーって。」


かたん。

窓に蝉がぶつかったらしい。

随分と痛そうな音がした。


理想があるからこその苦しさか。

れーなもろぴも2人とも

それがあるように見えた。

その道で生きていくと

いつか腹を括りそうなほどに

好きなことに真っ直ぐで走り続けていた。

だからこそ、なりたいものや

やりたいことが明確にひとつ

あるわけでもないうちは

2人、そしてまつりんの背中や

活動を見ることが好きだったし、

常に尊敬していた。


皆が走るのをやめてしまった今、

うちにできることは一体何なのだろう。

応援だろうか。

それとも。


その日の夜はやけに

言葉が浮かんでは霧散していき、

夏夜の雫に溶けていった。





***





いろは「…。」


ぺた、ぺた、と

実際にはしない音がする。

頭の中で勝手になっている音だ。

本当に拾う音は

しゅ、ざ、といった布と筆が擦れる音。

勢いをつけて塗る時は

間違って発火しないかなと

疑問に思ったこともあったっけ。

1人しかいないがらんとした教室に

イーゼルを立ててキャンバスを置く。

美術室ではないから

近くの水道から水を汲み、

片付けは今いる空き教室から

わざわざ少し歩いて美術室の

手洗い場まで行って流す。

油絵具を使うなら

美術室を使ってくださいと言われたけれど、

今回の作品はアクリル絵の具しか使わなかった。


絵が描きたくて美術部に入った。

けれど、入ってみれば

みんな話しているばかりだった。

時々スマホを持ってきてゲームしている人や

ただはしゃいでその日を終えている人ばかり。

顧問の先生はいるにはいるらしいけれど

ほぼ放置状態だった。

たまに静かに自分の制作を進めている人や

ネットに投稿するのだろうか、

紙に描いている人はいたけれど

それも部の中でごくわずか。

やがて話をする人たちの空気感に馴染めず

部活に来なくなっていった。


こんな感じなんだ、と思った。

いい意味でも悪い意味でもなくただ単純に。


浅く広く好きで、

また、どれも何も

そこまで好きじゃない私にとって

美術部内での漫画やアニメの話題には

もちろんのことついていけず、

かと言って踏み込んだとしても

薄っぺらい感想しか出なかったもので、

私もその空間で描くのはやめた。

その場に居続けても出てくるのは

わからない話と人の悪口話。

後者の方が多かったことが

美術室を離れた1番の理由だろう。


別の部屋で描きたい、と

顧問の先生に相談した。

他の景色を見て描くこともしたいと

理由はぼかして伝えた。

先生は多様性を尊重するというよりかは

放任主義だったのだろう、

空き教室をひとつ指定して、

誰もいないようなら好きに使っていいと

その場であっけらかんと言った。

それ以降、美術室にあるイーゼルと道具を

その部屋に運び込んで描いている。


1人で描くのはこれまで通りの環境と

そう大差なく心地よかった。

今思えば麗香ちゃんの隣は

随分と描きやすい空間だったのだと気づく。

話をしながら、時に2人で黙々と。

麗香ちゃんは勉強をしていることが多かった。

互いにやっていることは違うけれど、

同じ音を同じ程度で共有していることが

嬉しかったのかもしれない。


筆を止める。

気づいたら絵が完成していた。


いろは「…うん、今回はこれで。」


入賞を狙うわけでも賞賛が欲しいわけでもなく

ただピンとくるものを描いていた。

中学生になってから2、3回目の

作品応募になる。

展示会やポスターの応募などの

お知らせがある時だけ

先生は美術室に来ていた。

そして私のいる教室にも

しっかり届けてくれた。

部活の顧問は時間外労働だと聞いたものだから

面倒なのだし来ないだろうと思っていたが、

必要な仕事はちゃんとするのだとぼんやり思う。


作品が乾いたことを確認して

美術室に保存した。

キャプションもつけたし大丈夫。

忘れてることはないはず。

美術部の人たちは早めに解散したのか

既に誰もいなかった。

絵はどこでも描けるもんね。

心の隙間を埋めるようにそう唱える。


そして翌日。

放課後、美術室に向かうと

やたらとざわざわしているのがわかった。

応募用の作品があったところに

人が集まっている。

搬入は終わったはずなのにと

疑問に思っていると、

私がいることに気づいた同じ1年生の友達が

焦ってこちらに近づいた。


「いろはちゃんの作品…が…。」


いろは「…?」


人の隙間から背伸びしてそれを見る。

すると、そこには昨日まで時間をかけて

描いていたそれが

びりびりに破かれていた。

枠にテープで止めていたはずだが、

テープから綺麗に剥がされている。


いろは「…!」


多分悲しい、と思った。

悲しいと思うのが普通だし、

そう思わなければならない気がした。

けれど、実際頭に浮かぶのは

応募が終わった後の

テープを剥がす諸々の片付けが

なくなって楽そうだなとか、

紙の繊維といえばいいか、

段々が見えているから

ハサミではなく手でちぎったんだろうなとか。

そういったことしか浮かばなかった。


「これ、誰がやったの!」


「やばくない?」


「だって搬入はもう…」


「どうすんの?」


「先生呼ぶ?」


皆が口々に焦って、

けれど焦るだけで何もする気がなく

話していると、

ひとつ上のリーダー的な先輩が言った。


「さっさと片付けちゃおうよ。今更どうにもなんないし。」


いろは「ですねー。」


その通りだ、と思った。

集る人を分け、

びりびりに破かれ床にばら撒かれたそれを

雑に両手でかき集める。

それから全て抱えて

近くのゴミ箱に捨てた。

手を払っていると

異様な視線が集まっていることに気づく。

そんなにおかしいことをしたのだろうか。


「えっと…大丈夫?」


友達が寄り添うように隣に来て

静かに呟くように聞いてくれた。


いろは「うんー。でも今日することないし帰ろうかなー。」


「え。その、先生には」


いろは「お疲れ様でーす。」


「ちょっと、いろはちゃん!」


軽く頭を下げてから

美術室を後にする。

先輩がやったんだろうなとは思いつつも、

別にどうでもいいと思った。

うん。

悲しかったはずだ。

けれど、多分。


いろは「…。」


多分。

もしかしたら、

それ以上の何かだったのかもしれない。


季節がひとつ変わる頃、

秋だったか冬だったか、

油絵具を使った作品を描くことになった。

元から美術室では描いていなかったが、

また破損させられる可能性を考慮すると

作品を美術室に置いておくこと自体

あまり好ましくないと思い、

自室で描き切った。

自分の部屋が油絵具の匂いで

いっぱいになりがちで、

寒いのに窓を開けなければならなかったのには

ちょっと苦労した。

夏じゃなくてよかったと何度思ったことか。


今度は搬入する当日の朝、

学校に早めに登校し

作品を置いていった。


が、驚いた。


いろは「…!」


私の絵として応募したはずのそれは、

何故かリーダー的なあの

例の先輩の絵として掲載されていた。

私の名前はどこにもなかった。

展示会に飾られる幾つもの絵。

楽しそうに見る人々。

その誰もが、この絵は先輩の絵だと

信じこんでいる。

友達も先生も

私が描いているところを見ていない。

私以外誰も証明できなかった。


キャプションはちゃんとつけたはず。

直前で変えられたのだろうか。

上手にやるなあ、と感心すらしてしまう。


私が自分の絵を眺めている横で

例の先輩は何かとぐちぐち言っていた気がする。

1年生なのに別室で特別扱いだの、

目につくだとかあーだこーだ。

小鳥の囀りのようで

あんまり耳に入ってこなかった。

何とも思っていない人の

無意味な話は聞かなくても損ないか、と思う。


いろいろ言われたって

私は雨鯨やその他だって

絵を描く術はある。

幸い人に恵まれた。

周りの人は私の絵を褒めてくれる。

絵を。

…。

本当に絵を、だろうか。

それとも絵を描く13歳の私を、だろうか。


絵を壊され、絵を奪われて。

私の絵には価値がないのだろうか。

絵に価値はあれど、

「私が」描いたことに

価値も意味もないのだろう。


その油絵は佳作だった。


春休みになる手前。

私は美術室で描くようになっていた。

先生は何か知っているのか

それともただの気分なのか、

たまに見回りに来るようになっていた。

破損は仕方ない。

防ぎ用がないにしても、

盗作はどうにかなるはずだ。

先生や他の人が見ているのなら

それが証拠になるはずだから。


筆洗の水が汚れてしまい、

それを変えに行こうと

教室内の洗い場に向かおうとした時だった。

突如机の間から

足がにゅっと生えてきて、

それに引っかかっては

前の方へ水を散らしてしまった。

幸い水の散った方向で

描いている人はおらず、

被害はなかった。

もしも水を組み直して

逆へと飛び散っていたら

悲惨なことになっていたろう。


「うーわ、きったな。服汚れたー。」


いろは「…?そうですか。洗ったらどうですか?」


その先輩の机に

水量の減った筆洗を置く。

相変わらず先輩は

描くことをろくにしていないようで、

机の上にはスマホしかなかった。


「喧嘩売ってんの?」


いろは「あ、この水でってことじゃないです。ちゃんと水道で」


「うける。さっさ床拭きなよー。」


いろは「私がですか?どうして。」


「…は?」


いろは「先輩が足を出したからこうなったと思います。」


普段であれば波風を立てたくないし

こんなことは言わないけれど、

直近でわざと聞こえるように

悪口を言ったり

これまで盗作や破損したりなど

積み重なっていたせいか

いつのまにか口から漏れていた。

空気が凍りつくのがわかったけれど、

なんかもうどうでも良くなってしまって、

置いた筆洗を預かって手洗い場で汲み直し

またイーゼルの前に座った。

床なんて拭かなかった。

多分私は悪くなかったと思うから。


途中から先輩が突っかかってきて

そこに先生が来てしまい

結局絵は描けずじまい。

あまりに邪魔が多くて多くて、

翌日から学校に行くのをやめた。

晴れて不登校、

昼間からわけもなく

教育番組を見て懐かしんだり、

散歩に出てスーパーに行き、

割引になったおはぎを買ったりした。


お姉ちゃんもお母さんもお父さんも

みんないじめを疑った。

顧問の先生から話があったか何とか。

心底興味がなく適当にはぐらかした。

先生が家に来ることがあった。

あれこれ聞いた、と話してくれた。

が、出てくるのは

最後の水ぶちまけの話だけ。

不思議に思って盗作や破損の話をすると、

先生は大層びっくりしているようだった。

その後の先輩の話は知らない。

謝りたいと先生を通じて言われたが

別にそんなものはいらないし

関わられても邪魔なので断った。

担任の先生から部の応募の話も

時々教えてもらったけれど、

もう応募する気もなくこれも全部断った。

何度も先生は家に来てくれてたいた。

時間外労働だよなと思う。

学校は嫌いでも何でもないので

たまに気が向いたら行きますと伝えた。

もしかしたら先生内での立ち位置やら

何やらがあったのかもしれないが、

それでも何度も足を運んでくれて

流石に申し訳なさを感じるようになった。


私自身、いじめに遭った意識はなかった。

だってあれは別の生命体だ、

そのくらいの気持ちだった。

別の言語で喋る何かで、

たまたま言葉が通じることはあるけど

意思疎通はできない。

猫が花瓶割っても

心配になるだけくらいの気持ちに近かった。


気が向いたら学校に行き、

家では遅れないよう勉強だけはしつつ

のんびり過ごした。

1番楽しかったかもしれない。

家にいる時間が伸びて、

でも家族は仕事があるから家はがらんどう。

お家にはもう1人の家族である猫だけ。

寂しくなかった。

猫がいたから。


けれど、その頃猫が死んだ。

寿命だった。

長生きしたもの、わかってはいた。

絵を奪われた時よりも一層

何かガラスが割れたような衝撃があった。


それからしばらく、

とは言え2日ほど塞ぎ込み、

またいつもの生活に戻っていった。

暑くもないのに日傘を差して歩いてみたり、

公園に咲いてる花の名前を調べてみたり、

蟻やダンゴムシの行方をぼうっと眺めたり。

中学生にもなって

外に出突っ張りの日もあった。

親からは悪い友達と

つるんでるんじゃないかなんて

心配されたこともあったけど、

1人で散歩してると言ったら

逆により心配されたのには苦笑した。


中学2年生になる頃だろうか、

何かしらの展示会に

足を運ぶ機会があった。

自分の作品はもうない。

応募しなかった。

学校にも行っていないのだし

キャンバスには描かなくなったから

当たり前なのだけれど。

同世代の人たちの目には

何が写っているのか知りたかった。

確か、そこで。


いろは「…!」


一見なにも描いていないのかと思ったが、

よく見てみれば白色の絵の具だけで

描かれている絵があった。

真っ白なのに「黒」とタイトルが付けられている。

それを遠くから見た。

そうじゃなきゃわからなかった。


その絵は光の当たり具合で

何が見えるか変わる絵だった。

片方から見たら2人で歩く少女たちの姿、

もう片方は1人で体操座りする女の子。

3人で仲が良かったのか、

それとも2人でいる時と

1人でいる時との差を見出しているのか。

この人は寂しい人だと思った。

言えないことがあるんだろう、

でも自分の気持ちを優先させず、

もしかしたらそうできない理由があって

寂しさを我慢しているのだろう。

勝手な妄想だった。


その絵に影響を受けて、

ほんの少しだけ描いた。

本当に少しだけ。

その時は時間を忘れられた。

時間と並走していた。

気づいたら描けていた。

久しぶりだった。


でも、やっぱり自分である

必要性がないように思えた。


ある日のこと。

歌詞のない音楽をつけたまま

机に向かっていた。

言葉が邪魔で仕方がなくて

曲のインストであったり

映画のサントラであったりを

聞き漁るようになっていった。

絵にもならない線ばかり

ぐちゃぐちゃに描くようになっていった。


世の中、私の絵に似た絵なら沢山ある。

絵柄が好き?

似たものが沢山あるでしょう。

似た上に上手い人の絵が沢山あるでしょう。

AIだってそうでしょう。

描いたってAIの餌、

盗作も同義でしょう。

誰が生み出したものでもいいんでしょう。

人じゃなくてもいいでしょう。

人じゃなくとも他人の期待に応えられる方が

正しいというのであれば。

それを私の周りが求めているのであれば。


それでも私へ絵が好きと言ってくれた人は

一体どういう心持ちだったのだろう。

仲が良くなった分

馴れ合いのようになっていった例も

ネットの記事で見たことがあった。

考えたくはないけれどそういうことだって

あったのかもしれない。

はたまた、更新頻度が高い分

需要に応えられていた、とか。


そこで不意にはっとする。

絵を描ける西園寺いろはが

持ち上げられている間に、

周りが納得するものを描こうとばかりしていた。

それも大事だよ。

認められることもきっと。

けれど、私はそうじゃなかったはずだ。

もっと自由であって

もっと五感を司るものであって。

もっと何でもありで、

もっと輝いていて。

描くって、もっと原初の。


いろは「…。」


楽しいって言葉があったはずなのに。


いろは「…楽しい。」


もっと。

もっと、もっと。


いろは「…。」


もっと、いろんな世界が

見れるもののはずなのに。


いろは「…。」


私の絵からいつの間にか

色が消えていた。


いろは「…。」


縛られすぎたんだ。

周りに。

自分に。

絵という生き物に。


いろは「辞めたい。」


そう呟いた時。

口にできた時。

とんでもなくほっとしてしまった。





○○○





そこまでの一連の出来事を

ただただ何もすることができず眺めていた。

教室、美術室、家、展示会。

うちは透明な箱の中に入っており、

そこから過去の映像でも

見させられているようだった。

うちのことは誰にも見えていないらしい。


湊「んなのないでしょっ!」


目の前の見えない壁を叩く。

一瞬目の前が歪む、すぐに戻る。

ろぴはいつも何を考えているのか

全くわからない。

それは過去の様子を見てもそうだった。

嫌がらせをしてくる先輩と

同じ教室で描き続ける姿、

落ち込んで痛みに慣れてしまったのかも思えば

きょとんとした表情。

いつだってろぴの意識は

人に向いていないようだった。

いつだって絵に。

それすら奪われてしまったのだ。

それが奪われてしまった。


湊「ろぴ…。」


頬をつねる。

痛い。

夢じゃない。


ろぴは何も悪いことをしてない。

絵を辞める必要なんてない。

今すぐに、目の前のろぴに

伝えなきゃいけないのに、

ここから出ることも声を届けることもできない。


映像の中で、驚いたことに

見覚えのある顔がひとつあった。

修学旅行で班が一緒だったみくぴ…

熊谷未玖ちゃんがいた。

例の先輩っぽい人でもなく、

ろぴの友達とかでもなく、

ただ同じ部活にいた先輩のよう。

関わりはなかったように見えるけれど、

もしかしたらこの時のことを

覚えているかもしれない。

でもそんな話、聞いたことなかった。

…そりゃあ修学旅行の班でしか

関わってこなかったのだから

話題に上がらないのも仕方ないといえば

そうなんだけど…。


ろぴはこんな目に遭っていなかったら

今も描き続けていたのかもしれないと思うと

胸が痛くて仕方なかった。


湊「辞める必要なんてない。」


ろぴに、また描いて欲しい。

描いてよかったって言って欲しい。

ろぴの絵が好きだから。

だから。


再生を終えた画面のように

ぴたりと止まった世界の中

静かに蹲った。

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