第6話 来世なのか?

 神崎は、今40歳を迎えていた。

 記憶の中には、この、

「不惑と呼ばれる年齢」

 というものを、何か自分の中で、デジャブのように感じるのだ。

 つまり、

「以前にも、迷わない」

 という感覚を味わったということだ。

 その時、思い出したのが、最近読んだSF小説で、

「タイムスリップもの」

 と呼ばれるものだった、

 最近まで知らなかったのだが、一種の、

「タイムトラベル」

 というものの発想として、いくつか酒類が存在しているということである。

「存在している」

 というよりも、

 その種類が、元々は、

「タイムトラベル」

 という言い方で、

「一つになっていたものを、細分化した」

 といってもいいのかも知れない。

 また、考え方として、

「新しく生まれてきた」

 ともいえるかも知れないが、詳しくは分からなかった。

 もっといえば、

「このネットの普及した時代なんだから、ネットで検索すれば出てくるさ」

 という人もいるだろうし、神崎もそれくらいのことは分かっている。

 しかし、それを彼は自分からしようとは思っていない。

 なぜなら、確かに、その通りなのだろうが、それをすると、自分でその楽しみがなくなってしまうと考えた。

「自分の中で、それなりの結論を見つけた上で、その答え合わせとして、ネットを検索するなどという方が楽しいし、それこそが当たり前のことだろう」

 と考えるのであった。

 どうして、そういう気持ちになっているかというと、最近、神崎は、

「自分でも小説を書いてみようかな?」

 と考えるようになったからだ。

 元々小説を書くということに、造詣が深いと思っていた。

 本を読むのは好きなので、読んでいてその世界に入り込むというのは、間違いのないことで、あっという間に読んでしまった時も、時間もそれなりに経っていて、

「当たり前だ」

 という理屈ではなく、自分が考えていることが、その小説に合っていると、自分が納得しながら読むことで、自分を納得させることができるのだ。

 そうでなければ、SF小説を読むということは、あくまでも受動的なことで、納得もせずに読んでいるということになり、

「面白い小説」

 というだけのことになってしまう。

 それは、読書としては、楽しいことではあるが、

「自分のためになっている」

 という考えではないといえるだろう。

 それを考えると、

「小説を書くというのは、自分にとっても大切なことで、どうして今までしなかったのか?」

 と考えるほどだった。

「俺には、そんな大それたことはできない」

 と自分に言い聞かせていたとすれば、それは完全に、

「逃げ」

 というものであって、その言い訳に、

「大それたこと」

 という表現を使っているとするならば、それは、

「これほどの言い訳はない」

 といっても過言ではないだろう。

 それを考えると、

「やっとこの年になって、書いてみようと思った」

 ということであり、これが、

「不惑の年齢になった」

 ということでの、

「迷わない」

 と考えたことだったはずである。

 ただ、少し深く考えると、同じような言葉として聞こえる。

「迷う」

 と

「惑う」

 ということであるが、どちらが、どうなのかということをこの年になって初めて考えたのだ。

「迷うというのは、たくさんの選択肢があり、その中から最良のものを選ぶのに、迷っているということであり、どちらかというと、いい意味が多いだろう」

 ということで、それに対して、

「惑うというのは、選択肢は一つだが、それを行う、やめるということを、どうしようか?」

 を考えるということである。

 だから、惑う方は、

「迷った後のその先という意味で、これも悪いことではないような気がするのだが、なぜか、迷うよりも悪いことに感じられるのは、俺だけなのかな?」

 と、不惑を迎えた神崎は考えるようになっていたのだ。

 そう、不惑を迎えたことで、神崎は、

「何か、俺って、今生まれたような気がするんだよな」

 ということであった。

 というのは、それまでの過去の自分の人生を知っているのに、まるで知らないような感覚になっていて、他の世界から、いきなり、この年になって、自分を考えたかのような気がするのだった。

 つまり、

「不惑のこの年に、物心がついた:

 といってもいいようなものだ。

 もちろん、過去の記憶だけは残っている。そんな状態である。

 そこで、先ほど考えた、

「いくつかの、タイムトラベル」

 という発想が出てきたのだった。

 実際に、自分でも考えて、そして、答え合わせとして見たネットの情報とでは、若干の違いがあった。

 もちろん、まったく同じだなどと思うわけもないのだが、少しの違いは、

「誤差の範囲だ」

 というくらいには思っていた。

 実際に、調べた、

「タイムトラベルもの」

 というのは、まず、一般的に言われている、

「タイムマシン」

 であったり、

「ワームホール」

 というものによって、誘われる世界に、行ってしまうということである。

「タイムマシン」

 ということは、解説の必要はないと思うが、

「ワームホール」

 というのは、その必要があるだろう。

 これは、どういうものなのかというと、タイムマシンが、

「人工で作られた機械」

 であるのに対し、ワームホールというのは、

「自然に存在しているもので、その穴を通れば、どこかの時代に出てくる」

 と言われる、

「想像上のもの」

 だということだ。

 タイムマシンにしても、ワームホールにしても、どちらも、存在しているのを見たことがないので、あくまでも、小説世界のことでしかないのだが、要するに、そういう機械や自然現象を使って、

「どこかの時代に行ってしまう」

 ということだ、

 ここで大切なのは、

「他力本願で別の世界に移動する」

 ということになるので、

「自分が身体も精神も、一緒に移動する」

 ということである。

 もっとも、タイムマシンを開発したのが自分であれば、ここでいう、

「他力本願」

 という言葉は、まったく違ったものとなるということである。

 それが、一般的にいわれる、

「タイムスリップ」

 というもので、ほとんどのSF小説は、この観点から出来上がっていたのだ。

 ただ、最近では、そこから、少し、

「枝分かれ」

 のような発想も生まれてきた。

 だから、

「タイムスリップ」

 という言葉には、

「広義の意味と、狭義の意味とに分かれる」

 ということである

 広義の意味は、今まで言われていたような、全体のことであり、狭義の意味というのは、細分化されたものを除いた、いわゆる。

「正味の部分」

 といってもいいだろう。

 そういう意味で、細分化された一つに、

「肉体と精神を分けた時、精神だけが、時空を超えて、そこに存在している自分に乗り移る」

 という考え方で、いわゆる、

「タイムリープもの」

 と言われる考え方だ。

 昔から、この

「タイムリープ」

 という考えはあった。

 というのは、過去に戻るということを考える以前に、ある程度まで生きてきて、今の自分を考えた時、

「ああ、あの時に戻ってやり直したい」

 と思ったことは、誰にでも一度や二度はあるだろう。

 それを叶える発想として生まれたのが、この、

「タイムリープ」

 というものではないだろうか?

 例えば、今、不惑の年にあった自分が、

「あの時、好きだった女性がいて、告白もできず、結果、今になったと思っている」

 として、それを、

「後悔している」

 という考え方から、

「やり直したい」

 と考えているとすれば、

「もっと、早ければ、やり直せただろうに」

 と考えているところに、例えば夢を見て、

「その夢が現実になった」

 といってもいいように、

「タイムリープしてしまった」

 という小説も最近では結構ある。

 そのタイムリープというのは、問題とすれば、

「終わらせ方が難しいのかも知れない」

 というのは、

「タイムスリップもの」

 ということであれば、

「最後には、結局、元の世界に戻ってくる」

 というのが、ほとんどであろう。

 しかし、タイ、うリープの場合は、自分の身体が、幽体離脱のようにして、魂だけが、違う時代に入り、その時代の自分に乗り移っているのだから、

「元の世界に戻る」

 として、果たしてうまくいくかどかである。

 もっと違う考え方をするとすれば、自分が入った別時間の自分の肉体に元あった魂はどうなるというのだろう?

 自分の中に、存在しているのであれば、魂同士が、喧嘩というか、お互いに意識しながら、一つの身体を占有していることになるだろう。

 このあたりの解釈の難しさから、

「ラストにどう持って行っていいのか?」

 ということが問題になるのであった。

 それを考えると、

「タイムリープものは難しい」

 といえるだろう。

 しかし、別の考え方をするとすれば、

「タイムリープ」

 というのは、今まであった、

「タイムスリップ」

 の考え方の矛盾をただすものという考え方もできるのであった。

 というのも、

「タイムスリップ」

 という言葉に対として存在するものとして、

「タイムパラドックス」

 という言葉がある。

 これは、知っている人がほとんどであり、

「SF小説界では、当たり前といわれる問題なのだ」

 といえるだろう。

 この

「タイムパラドックス」 

というのは、

「過去に行く」

 という発想をした時に問題になることで、

「自分が、過去に行って、過去の歴史を変えた時、未来がどうなっているか?」

 ということである。

 たとえば、

「自分が生まれる前の時代に行って、そこで、親が結婚するのを邪魔してしまったり、自分が生まれてくることを、わざとではなく、邪魔をする結果になった場合は、どうなるのか?」

 ということである。

「自分が過去に戻って、自分が生まれるのを阻止した場合、自分が生まれてこないことになる」

 そして、

「自分が生まれてこないとタイムマシンを作る人もおらず、過去にいくこともないであろう」

 そして、

「過去に行く人がいないと、自分が生まれてくることになり、タイムマシンを作ることになる」

 つまり、どちらの歴史をたどるとしても、必ずそこに、

「矛盾が生まれる」

 ということだ。

 これを、

「タイムパラドックス」

 というのだ。

 その考え方によって、

「過去に赴いて、過去の歴史を変えてしまうと、その瞬間、ビッグバンを起こして、世界が一瞬にして消えてしまう」

 ということである。

 それに対して、

「世界は無限に可能性を潜んでいるので、あくまでも、それは最悪の結果ということであり、そんな結果にならないように、時代は、結局最後は辻褄を合わせてくれる」

 という発想である。

 これが、いわゆる、

「タイムスリップもの」

 としてのSF小説にて。

「タイムスリップ」

 したという人は、映画などで、最後には、

「元のところに戻ってきて、何事もなかったかのように過ごすというところで、大団円を迎える」

 というのが、大方の話であるというのも、無理もないことだろう。

 そういう考えでなければ、

「世の中はビッグバンを起こし、なくなってしまう」

 ということだから、

「小説をしては、そうならないようにする」

 と考えると、

 小説は、

「ハッピーエンドでなければいけない」

 ということではないが、この場合に、

「バッドエンド」

 を迎えるということは、ある意味、

「小説におけるタブー」

 あるいは、

「戒律を破る」

 という意味での、

「ルール違反だ」

 ということにならないだろうか。

 つまり、

「タイムスリップ」

 というものの考え方としては、

「同一次元、同一時間において、同じ人間が存在しているということはありえない」

 ということが基本であるが、だからタイムマシンでは、基本的に、

「過去や未来の自分と遭遇してはいけない」

 ということになっているのだ。

 一部のアニメなどでは、

「それをあり」

 ということにして、タイムパラドックスを無視した作り方をしている。

 それは、読者が子供なので、

「タイムパラドックス」

 というものを理解できないということなので、

「タイムパラドックスが起こったとしても、それは大きな問題ではない」

 ということになるだろう。

 しかいs、基本は、

「タイムパラドックスに逆らってはいけない」

 ということだ。

 だが、

「タイムリープ」

 という考え方は、

「タイムパラドックス」

 というものの解決策として考えられたのではないだろうか?

 と考えられもする。

 何といっても、身体が移動するわけではなく、

「精神が乗り移る」

 ということであり、しかも、その人間の元々の意識は存在していないことになっているのだから、

「同一次元同一時間にもう一人の自分がいる」

 という、

「タイムパラドックス」

 ではないということになるといっても過言ではないからだ。

 そういう意味で、

「タイムリープ」

 というのは、

「タイムパラドックスの可能性を否定する」

 ということを証明しているのではないだろうか?

 確かに、

「身体の精神も移動してしまう」

 という、

「タイムスリップ」

 であれば、自分が存在しているはずの時代であれば、存在している可能性は多いにあるというわけだ。

 というよりも、

「同じ場所にいなくとも、同一次元であれば、存在しているということになるのであるから、タイムパラドックスというのは、あり得ることとなるのだ」

 もし、タイムパラドックスが、大きな問題を引き起こすということであれば、その瞬間、

「何が起こっても、不思議のないことだ」

といえるのではないだろうか?

 そんな理屈で、

「タイムパラドックス」

 というものが一番優先されるということになれば、

「不可思議な現象」

 と言われることも、説明がついたりするのではないだろうか?

 その一つとして考えられるのが、

「ドッペルゲンガー」

 と呼ばれるものである。

「この現象は、同一次元の同一時間にもう一人の自分が存在している」

 というものであり、そのドッペルゲンガーを見ると、

「近い将来に、死んでしまう」

 という言い伝えがあるのだ。

 この、

「死んでしまう」

 という状況に対して、いろいろな説明がなされているが、どれも、

「もっともらしい」

 といえるが、決め手に欠けるというところである。

 ます、一つは、

実際の怪奇現象」

 ということで、

「ドッペルゲンガーを見ることで、ショックを起こし、死んでしまう」

 という考えである。

 また、もう一つは、SF的な観点から、

「タイムパラドックス」

 を証明するという形で、

「存在してはいけない二人の同一人物なのだから、神様がいて、そのどちらかを消そうという作用が働く」

 という考え方である。

 もう一つは、

「ドッペルゲンガーを目撃するということは、実際にあるものを目撃したわけではなく、存在しないものを見るという、精神疾患がもたらしたものだとすれば、そもそも、その人の寿命は余命が決まっていたので、その人の寿命が尽きた」

 という考えである。

 それもが、

「言われてみれば、それぞれに説得力はあるような気がするだが、どれも、帯に短したすきに長しということである」

 ただ、一番納得して、安心できるのが、

「精神疾患」

 ということであるが、考えてみれば、

「ドッペルゲンガーを見る」

 ということが

「自分は病気だ」

 ということで、一番助かる可能性が低いのではないか?

 と考えられるのだ、

 タイムパラドックスというのも、理屈としては、一番信憑性があるように思うが、

「タイムパラドック自体、証明されているわけではないので、信憑性は逆に低いということになる」

 といえるだろう、

 では、

「ショックで死ぬ」

 ということであれば、それは、ドッペルゲンガーというものを信じ込んでいて、

「見たら死ぬ」

 という迷信を信じ込んでいるからだ。

 だとすれば、そんなものを信じないようにすればいいだけで、その人の性格的な問題が、死に至らしめると思うと、これが、一番何とかなることである。

 これは、要するに、

「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」

 ということわざのようなもので、性格的に、

「物事を信じやすい」

 ということで、性格的に素直すぎるから起きることだと言ってもいいだろう。

 それを考えると、

「ドッペルゲンガーというものは、本当はおらず、世の中に、三人はいると言われるただのソックリさんだと考えると辻褄は合う」

 しかし、

「ドッペルゲンガー」

 というものは、

「本人の行動範囲にしか現れない」

「何も言葉を発しない」

 などという言い伝えがあることで、

「ソックリさんではなく、本当に、もう一人いる自分なんだ」

 という考え方である。

 他にも言われていることはあるのだろうが、

「ショック死」

 という自然現象であったり、

「タイムパラドックスの証明」

 という、SFチックな考えであったり、

「精神疾患による幻覚」

 という精神障害という、医学的見地であったと、だいたいは、そのあたりになってくるのではないだろうか?

 それを考えると、

「ドッペルゲンガー」

 というものが、

「タイムパラドックスの証明」

 ということで考えるには、少し無理があるのかも知れないが、理屈という意味で考えると、ピッタリと嵌るのだ。

 タイムパラドックスが証明されていないことから、

「ドッペルゲンガーが証明されるくらいになった時、タイムパラドックスも、証明されるのではないか?」

 と考えると、

「タイムパラドックス」

 ということが、

「タイムスリップ」

 以外である、

「タイムリープ」

 であれば、起こりようがない。

 ということを証明してくれれば、

「タイムパラドックス」

 というのは、存在しないということになり、

「ドッペルゲンガーが、タイムパラドックスを証明するものだ」

 という考えは、同時になくなってしまうといいうこといなるのだろう。

 そして、もう一つのタイムトラベルに対してのことで、言われるようになったのが、

「タイムループ」

 と呼ばれるものだ。

 これは、

「定期的に、例えば一日というものを、ずっと繰り返している」

 という考え方である。

 これは、午前0時を過ぎると、急にまた昨日の午前0時。つまりは、24時間前の時間に戻っているというものだ。

 つまりは、自分では、

「今日をずっと繰り返していて、明日がこない」

 という考えであるが、果たしてそうなのか?

 ということも考えられるのであった。

 つまりは、

「今日を繰り返していると思うのは、まわりが、記憶にある、昨日と同じだから」

 ということから考えることであって、

 逆にいえば、

「自分だけが、翌日にいて、まわり全体、つまり自分以外が、同じ日を繰り返している」

 とは言えないだろうか?

 まったく逆の発想なのであるが、これもあり得ないことでhない。これこそ、

「電車の中で飛び上がって、電車の中での同じところに着地する」

 ということで、

「そのまわりには、何も影響しない」

 という考えに近いのではないだろうか?

 この考えというのは、

「ひょっとすると、アインシュタインが考案した、相対性理論の説明に使えるかも知れない」

 と、神崎は考えた。

 というのも、

「ロケットの仲が光速を超えるだけの速さであれば、時間の進みが他とは違う」

 ということで、ある意味、

「時間が、混ざり合う感覚ではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 慣性の法則で考えると、

「ロケットの中が、電車と同じだと考えると、ロケットの中と表とでは、違う世界であり、ロケットの中で飛び上がっても、ロケットの中の同じ場所に下りるというわけだ」

 もし、これがそうではないとすれば、ロケットが飛び上がった瞬間、人間は、その圧力で、圧死するに違いない。

 音速をやっと超えた程度の戦闘機などでも、

「垂直落下よりも激しい圧力がかかるというのに、光速で飛んでいるロケットの中で、人間が耐えられるということ自体、考え方がおかしい」

 といえるのではないだろうか?

 それを考えると、確かに今は、光速を超えることはできないが、できるようになるとすると。それは、まるで、テレポーテーションをしたかの如くの世界に、ずっといることになるのではないだろうか?

 ということは、

「時間軸と、スピードの、一種の波目のような、電磁波のようなグラフの最短距離を移動するのが、ワープというものだ」

 というアニメを見たことがあるが、

「なるほど」

 と思わせる内容であった。

 その後のアニメも、それを基本として、ワープやタイムスリップを説明しているが、その通りだとすれば、タイムトラベルというのは、

「理論的には可能なのではないか?」

 と考えられる。

 しかし、この、

「タイムループ」

 と呼ばれる、

「同じ時間を繰り返す」

 という考え方は、どう考えればいいのだろうか?

「全体という発想が正しい」

 と考えるのであれば、

「何か大きな力が働いていて、一人の正しい人間に錯覚を起こさせている」

 ということになると、

 ある意味、

「今日と明日の自分は、同じ人間であっても、別の人間ということになる」

 もっといえば、

「タイムループを繰り返しているという意識がないまま、意識だけが、翌日になった時点で、もう一人の自分に入り込んでいく」

 という考え方である。

 そうなると、

「タイムループ」

 というものを証明しようとすれば、

「タイムリープ」

 を証明していることになる。

 また、この、

「タイムリープ」

 という考え方は、

「タイムパラドックス」

 ということを、

「タイムリープであれば、その存在を否定することができる」

 ということで、それぞれの考え方は、それぞれに影響うを与え、それが、

「まるで、循環しているように感じる」

 ということで、いわゆる、

「自然の摂理」

 というもの、さらには、

「輪廻転生」

 という考え方にも結び付いてくるのかも知れない。

 そう考えると、昔から言われている、

「循環」

 というものは、

「科学的見地を凌駕しているのかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

 科学というものが、実は昔からの迷信であったり、都市伝説のようなものも、凌駕しているのではないかと思うと、

「世の中で、科学で証明できない」

 ということは、

「科学に対しての冒涜だ」

 という人がいるが、実は逆で、

「科学で証明できない」

 と考えることこそ、科学に対して失礼千万ではないかということだ。

 それだけ、科学というのも舐めている証拠であり、最初から、

「考えないようにしようとしているのではないか?」

 ということなのではないだろうか?

 それを考えると、

「科学者というものと、占星術者、あるいは、宗教家などというもの、やり方や、入り方が違っていても、目指しているものは同じところなのではないか?」

 と思うのだ。

 となると、それぞれで、相手を否定したりせずに、

「取り入れる」

 という考えを取ることで、それぞれに、理解が広がって、導き出されるはずの、同じ答えが見えてくるということなのではないだろうか?

 そんなことを考えると

「タイムループ」

 という考えは、実に面白いもので、バカにできないものではないか?

 と考えられるのではないだろういか?

 そんなことを考えていると、

「タイムリープ」

「タイムパラドックス」

 を含んだ、

「タイムスリップ」

 というものは、最後の、

「タイムループ」

 という考え方が見つかったことで、それぞれに凌駕するものを見つけることができるのではないか?

 と考えるのであった。

 そんなことを考えていると、

「今自分たちがいる世代というのは、どれになるのだろうか?」

 ということを考えてしまう。

「ひょっとすると、前世かも知れないし、来世かも知れない」

 神崎は、

「来世ではないか?」

 と考えるようになっていた。

 その根拠がどこにあるのかは分からないが、

「この思いが、何か今まで見たことのないものを、世界としてになるのか、見ることになるのではないか?」

 と感じるのであった。


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