第5話 次元と時間
前世というものと、来世というものがあり、その中間に、現世というものがある。これを時間という感覚で考えると、面白い現象になるのだった。
というのも、
「過去、未来、現在」
と、時系列で並べれば、そういう言葉になるのだが、実際に口にする時、あるいは、楽曲の歌詞にする時、
「現在、過去、未来」
というではないか。
そういう方がしっくりとくるし、違和感もない。
だが、これは、時系列からすれば、明らかにおかしなものであって、時間の流れとすればまったくもっておかしいといえるだろう。
実際に、
「現在」
というものを考えた時、これは、一瞬でしかない。
未来が、現在になる瞬間、そして、その現在が、今度は過去となる瞬間、それは、これ以上のっ短いものはない。それが現在というものであり、しかし、
「物事を考えるうえでの中心となるのだ」
といえるだろう。
だが、その現在もあっという間に過去になる。だから、
「現在を現在として理解して、思考をもたらすことは、不可能だといってもいい」
しかし、現在というのは、どんなに短くとも、絶対にゼロにはならない。
どんなに、薄い紙であっても、どんどん重ねていくと、その厚みは着実に増してくる。
これは、
「加算法」
というもので考えた場合だが、逆に、
「減算法」
というもので考えた時というのは、
「合わせ鏡の原理」
であったり、
「マトリョシカ人形」
の発想になるのだった。
というのも、こちらは、どんどんと見えているものが小さくなっていくという現象であり、
「自分の左右、あるいは前後に鏡を置いた時、そこには、永遠に自分が映り続けるというものだが、その大きさは確実に小さくなっていく」
ということである。
小さくなっていく中で、その先が無限だということは、逆に
「ゼロになってはいけない」
ということを、証明しているかのようではないか。
理屈で考えても、間違いなく、ゼロになることはない。
これがゼロになるというのであれば、その正体は、
「どんなものでも、吸い込んでしまうブラックホールの存在を証明し、さらに、それが、この世の、しかも、実に身近なところに潜んでいる」
ということを示しているということになるのではないだるうか?
それを思うと、
「減算法」
というものにおいては、
「無限」
という言葉がキーワードになって、
「限りなくゼロに近い」
というものを証明しているようで、この、
「減算法が、加算法を凌駕する」
ということになるだろう。
しかし、逆に、先に、加算法の方が証明されるとなると、
「加算法が、減算法を凌駕する」
ということになり、結局どちらも証明していることになるのではないだろうか?
現在というものは、まるで、
「尺取り虫」
か、
「モグラ」
というもののように、穴の中を、自分で掘って進んでいるようなものだ。
しかし、それはあくまでも、現在というものが前に向かって進んでいくということで、
「現在というものが、
「動いている」
ということの証明のようだ。
しかし、現在というものは、自分たちの感覚で動いているとは思えない。それは、
「動いている電車の中で飛び上がった時、どこに着地するか?」
ということに似ている。
これは、
「慣性の法則」
と呼ばれるもので、いわゆる、
「ダルマ落とし」
という現象に似ているのではないだろうか?
この現象は、
「目の前にあるダルマの下に、いくつかの積み木が重ねられていて、その途中をハンマーでたたいた時、上がすべて移動するわけではなく、叩いた部分のみが前に押し出されることで、その上が一段ずつ落ちてくるというものである」
こちらも、同じ、
「慣性の法則」
として言われることであるが、一見、理屈に合っていないことでも、
「慣性の法則」
としての証明がなされると、一瞬にして、その理屈は、科学的にも証明されることになる。
それだけ、
「いかに難しいことでも、一つの穴が開くことで、簡単に証明されるということが存在する」
といえるのではないだろうか?
だから、
「この電車の中の着地」
であったり、
「ダルマ落とし」
というものの証明がなされれば、
「現在、過去、未来」
を証明することができるだろう。
もちろん、それらのことが、
「すべて慣性の法則というものだということを結びつけることができれば」
ということになるのだろうが、それが、実際に証明されるというのは、それぞれを、一方から見てしまっているだけでは、叶わないことだということを、理解しなければ、できる証明ではない。
ということになるのであった。
それを考えると、
「時系列」
というものは、本当には、
「この時代、いや、次元だけのものであって、違う次元では、まったく違った発想になるのだろう」
とうことだった。
しかも次元というのは、いわゆる、
「線の世界の一次元」
「平面の世界の二次元」
「我々がいる、立体世界の三次元」
そして、
「時間軸を持ったと言われる、四次元」
と、いわれるそれぞれの次元とは、違った次元が存在していて、その次元が、
「今回の問題を解決してくれる形になるのではないだろうか?」
と考えられるのであった。
それを考えると、それも、結果としての、
「減算法」
と、
「加算法」
というものが、問題になってくるのではないだろうか?
そんな、
「次元」
と、
「時間」
というものを考えていると、それとは別の発想になるのだが、
「密接に結び付いてくるのではないか?」
と考えられるのが、
「夢」
という発想であった。
この夢というものは、
「発想」
というよりも、
「概念」
と言った方がいいかも知れない。
何と言っても、
「夢というものには、時間という感覚がないというものではないだろうか?」
というのは、よく言われていることとして、
「夢というのは、どんなに長いものであっても、目が覚める数秒間で見るものである」
ということであった。
確かに夢は、眠っている時に、どんなに長いと思っていると思って見ていたとしても、目が覚めていくにしたがって、次第に忘れられていくものという感覚が強くなってくるのであった。
忘れていくことによって、見ていた夢がどんどん薄っぺらいものになっていくのは、完全な減算法だといってもいい。
そうなると、
「次元と時間」
という感覚でいけば、
「夢というのは、無限に広がっている」
と言えないだろうか?
「限りなくゼロに近い」
というものであるなら、その先には、決して交わることのない平行線であるかのような、無限というものが続いているのだ。
つまり、
「無限というのは、広がっていくものではなく、限りなくゼロに近いものとして存在しながら、ずっと続いていくものであり、その力は、果てしなく、弱いものだ」
といってもいい。
見えるか見えないかのギリギリのラインで、夢は消えたりついたりしている、蛍光灯のようで、見えているのかいないのか、それを夢が証明しなければいけないのに、肝心の夢が意識から消えていくということであれば、それこそ、
「交わることのない平行線」
というものの存在を、証明しているかのようではないだろうか?
それを考えると、
「夢というものは、加算法かと思っていたが、減算法にしか考えられないのではないだろうか?」
といえるだろう。
過去の記憶を思い出すことは、積み木を組みたてるわけではなく、記憶という引き出しから少しずつ出していき、引き出しが、次第に空になってくる様子を考えると、
「記憶の引き出しというのは、実に小さなもので、その時必要なものだけを格納できるものだからこそ、夢を覚えているという感覚で、現実世界では、持ちこたえることができないほど、奥深いものだ」
と考えると、
「無限に続く、限りなくゼロに近いもの」
それが、減算法による、
「夢」
というもので、加算法による、
「夢」
というものも、存在しているのかどうか、その証明は、こちらも、交わることのないものなのであろう。
神崎恭平は、自分が、今ここにいることに違和感を感じていた。
「この世界は、本当に自分の世界なのだろうか?」
と感じるのだった。
なぜなら、この世界での神崎は、
「やることなすことが、順風満帆で、何事も失敗することもなく、うまく行った」
のだった。
それは、よくいう、
「日ごろの行いがいいから、神様が見ていてくださるんだよ」
ということであったが、果たしてそうなのだろうか?
しかも、それをいうのが、両親だったのだ、
その両親も、何事もなく、平和に暮らしている。しかも、両親には、何も目標があるわけでもなく、毎日を平凡に暮らしているだけだった。
そして、その口癖が、
「一日一日を平和に過ごせればそれでいい」
ということだった。
恭平の子供の頃から、毎日同じことを両親は言っていたような気がする。
そんな言葉を言われて、実際には、苛立ちがあった。
「そんな人生の何が楽しいというんだ」
という思いであった。
しかし、そのたびに、
「俺は何を言っているんだ。変に頑張られて、俺に迷惑でも掛けられれば、目も当てられないではないか」
ということであった。
「迷惑を掛けられるくらいだったら、何もしないでほしいくらいだ」
と言いたかった。
確かに、その通りである。
しかし、なぜ、そんな言葉に苛立ちを覚えるのか分からなかったが、最近になって分かったような気がしたのだ。
高校生の頃、
「俺の人生って何なのだろう?」
とふと考えたのだ。
何も目標もなく、ただ、その日暮らしをするだけだ。おかげで、趣味もなければ、やりたいこともない。
そんなことを考えていると、いつものごとく、両親の、
「その日が平和に暮らせればいい」
という、いわゆる、
「平和ボケ節」
とでもいいのか、その言葉を聞くたびに腹が立つのだ。
最初は、
「そんなことを言っている両親に腹が立っているのか?」
と思ったがそうではない。
「俺が、嫌に感じているのは、そんなことを言っている両親に、今まで何も感じなかった俺に腹が立っているのだ」
ということだ。
何か、引っかかるものがあったが、それが何か分からない。まるで、夢を見たのに、その夢の内容を思い出そうとして思い出せないということに似ている。
思い出せないことに苛立ちを持っているくせに、その思いを自分で認めようとしないのだ。その時に、
「謂れのない苛立ち」
というものを感じる。
つまり自分は、
「何に苛立っているのか?」
というのは、
「謂れのない」
ということなのに、理由も分からずに苛立っているということが分からない、自分自身に苛立っているということであった。
そのくせ、順風満帆で、何事もない状態が、ムズムズする気持ちにさせられ、だからこそ、
「謂れ」
というものがどこにあるというのかが、分からないということになるのだった。
神崎は、最近、
「自分がどうなってしまったんだろう?」
と思う時があった。
「何かの記憶が途中で途切れている」
という感覚があるような気がするのだった。
というのも、途切れているというのか、まるで、何かの、
「夢の続き」
というものを見ているような気がするのだった。
「夢の続き」
なるものを見ることは、普通なら不可能だ。
それこそ、まるで
「デジャブ」
のように、
「以前に、どこかで見たような」
あるいは、
「聞いたことのあるような」
という感覚を感じる時であった。
というのも、デジャブというものを、
「実は夢の続いだった」
と思えば、理屈としては、
「成り立つのではないか?」
と考えられるのではないか?
と思うのだった。
夢というものは、
「絶対に続きを見ることのできないものだ」
と思い込んでいるのだが、本当にそうであろういか?
しかも、夢というのは、いつも、
「ちょうどいいところで終わる」
というものだ。
それはいい夢でも、悪い夢でも同じで。もっといえば、
「続きを見たい」
と思う夢でも、そうではない夢であっても、見ることはできない。
その影響がどこに来るのかというと、
「目が覚めて、覚えているかどうか」
というところに引っかかってくるのだった。
「続きを見たい」
と思う夢ほど、曖昧で、覚えていないものだ。
だから、
「いい夢だった」
ということで、自分の中で納得させようとするのだろう。
それが、
「辻褄を合せる」
ということであり、辻褄が合っていないと、理屈すら通らなくなり、自分で理解できなくなると、
「夢を見た」
ということすら、打ち消したい気分になるに違いない。
夢というものが、
「いかに、辻褄を合せるための、言い訳に使えるか?」
ということであり、それを証明しようと考えられた現象が、
「デジャブ」
というものではないだろうか?
つまりは、辻褄を合せることだけに特化した現象なのだがら、現実世界で、辻褄が合ってしまうと、せっかくの夢での辻褄合わせが、うまく行かなくなる。
それを思うと、
「夢の続き」
というものが、現実との間の結界だと思うと、
「交わることのない平行」
同様に、
「無限に辻褄を合わせようと、平行線を描いている」
ということではないだろうか?
そんな時代において、神崎が、自分の人生において。
「誰にも迷惑を掛けられていない」
ということに気が付いたのだった。
何かがあった時、
「助けてほしい」
というと、自然とまわりが助けてくれた。
しかも、それは、子供の頃からの意識の中にあったことで、
「困ったことがあれば、人に助けを求めればいい。お前はそういう幸運の下に生まれてきているのだから」
ということをおばあちゃんに教えられた。
しかし、学校では、
「人を頼ってばかりいると、誰も助けてくれなくなる」
ということを教えられたような気がするので、正直戸惑ってしまった。
だが、
「先生のいうことよりも、おばあちゃんのいうことをきく方が正しい」
と、感じるようになった。
特に、
「うちのおばあちゃんは、近所の人から信頼されている」
ということと、両親が、
「おばあちゃんのいうことをよく聞きなさい」
と言っていたことと、その両親も、おばあちゃんのいうことに逆らったことはなかったのだ。
そんな状態を見ると、
「おばあちゃんのいうことは、正しい」
と思わざるを得なあかったといってもいいだろう。
理由については、分からないが、言っていることに間違いはない。つまりは、
「間違いのない」
ということが、すべてだったのだ。
だから、おばあちゃんのいうように、
「困った時は、誰かに頼る」
ということにしていた。
しかし、ここで、一番重要なことは、
「困った時」
という前置きがあることだった。
「困ってもいない時に、人を頼るとどうなるか?」
ということは、神崎は考えたことはなかった。
そもそも、
「人に頼ることは嫌いだ」
という意識があった。
「なるべくなら、自分で解決できることは、自分で解決する」
ということを中心としたい。
つまり、おばあちゃんから言われようが言われまいが、
「困った時」
という条件がない限り、人に頼ることはないのだった。
子供の頃は、
「他人に頼らなければいけない」
というような、困ったことはなかった。
というのも、困るほどのことを、引き起こすほど、自分の行動や性格が、アグレッシブではないということである。
「危険を犯してまで、叶えたいと思うようなことが、子供の自分にあるはずもなく、性格的にも、何かをしないといけない」
というような、考えを起こすことはなかった。
一人で考え事をしていたとすれば、余計なことをしようとはしない。いわゆる、
「石橋を叩いて渡る」
という人を、用心深い人だと表現するが、神崎はそれ以上に、
「石橋を叩いても渡らない」
というほどのことを考えるような性格だったのだ。
「用心深い」
と言えば聞こえはいいが、それよりも、
「臆病だ」
といった方が正解だ、
それだけ、
「大きなことはできない」
ということになるが、逆に、
「大きな失敗もしない」
ということで、よく言えば、
「ギャンブラーではない」
ということであり、悪くいえば、
「根性なしだ」
といってもいいだろう。
ただ、この性格は、
「遺伝だよ」
と言われていたので、親が、そもそも、そういう性格だったことで、今のところ、親が仕事に失敗したり、親から、迷惑を掛けられたりということはしていない。
「お父さんと、お母さんは、それぞれに、用心深い家系に育ったから、それが受け継がれているんだよ」
とおばあちゃんはいった。
「お父さんは、そうかも知れないけど、お母さんの家系がそうだというのは、ただの偶然なんじゃないの?」
という質問をした。
神崎少年の頭の中は、他の少年のように、年相応の考え方をしていた。
いや、
「年相応の年齢のことしかできていない」
と言った方が正解ではないだろうか?
確かに、神崎少年の母親の家系は、
「用心深い家系なんだろうな」
というのは、母親を見ていれば分かったのだった。
だから、いつも、説教されることといえば、
「子供が危ないことをしようとした」
という時だけであり、極端な話、学校で、ひどい成績を取ったり、何かを忘れてきたり、なくしたりしたとしても、それほど怒られることはなかった。
もちろん、小言のような言われ方はするが、面と向かって怒りをあらわにするようなことはなかったのだ。
それは、
「用心を怠った」
ということで怒るのだった。
その時、子供心にであるが、母親のような性格を見ていると安心感があった。
「怒られることがない」
という安心感ではなく、
「用心深さ」
というものに特化した考え方をしているからであった。
その時感じたのが、
「お父さんは、お母さんのそんなところを好きになったんだろうな?」
ということであった。
その時のことが、おばあちゃんに質問した時、自分の頭に浮かんできたのだ。
だから、質問をしたのに、それに答えないおばあちゃんも、
「この子は、自分で分かる子だ」
ということを分かっているのか、顔を見ていても、
「ニコニコ」
という表情しかしていないのであった。
「本当にこの子は賢い」
と、思っていたようで、それが、おばあちゃんの目から見ての贔屓目があるのもしょうがないということであろうが、それ以上に、孫の性格を、
「信じて疑わない」
ということに尽きるのだろうということであった。
「お父さんは、そんなお母さんだから好きになったんだろうし、おばあちゃんも、その二人の子供だということと、私の目に狂いはないという信念から、お前が、言えば分かる子だということを信じて疑わないんだよ」
というのだった。
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