26話 カティア

「立派な貴族になりなさい」


 カティア・フォン・トラーキアの中で、最も印象に残っている言葉はこれだ。

 それは母親、シータ・フォン・トラーキアの口癖だった。


 母は優しい人だった。

 公務で忙しい父に代わっていつも自分の面倒を見てくれた。そのおかげで自分は寂しさも不自由さも感じない幼少期を過ごすことができたと思う。

 そんな母の口癖がそれだった。


「私たちが今幸せに暮らせている代わりに、他のみんなの幸せが奪われそうな時にはそれを守る。それができる心を持った人を貴族と呼ぶの。覚えておいて」


 母の言っていることは、当時5歳にもならないくらいのカティアにはよく理解ができなかった。

 自分が今幸せだということもよくわからなかったし、生まれてからここ以外の世界を知らないためそれが当然のものだと思い込んでいたから。


 けれど、すぐにカティアは知る。

 自分の立っている場所がひどく脆い、流血の海に張られた薄氷のような物であることを。




 ◆




 ある日、貴族同士の交流の関係で母とともに北部の領地を訪れたカティア。

 そこに突如、本当になんの前触れもなく──魔物の大群が現れたのだ。

 所謂、大氾濫(スタンピード)と呼ばれる現象。

 未発見の野良の迷宮が攻略されないまま膨れ上がったことにより起こる災害だ。


 鮮明に覚えている。地面を埋め尽くす黒い津波も、それがのどかな街並みを凄惨に喰らい尽くす過程も。



 そして──そんな地獄のような光景に単身立ち向かっていった母の姿も。



 母は強い魔法使いではなかった。受け継いだ魔法だってカティアのそれと比べると劣ると言われるものだ。

 けれど彼女は微塵も臆さず戦い、戦い、戦い抜いた。 


 全てを滅することは叶わなかったけれど、王都からの援軍が来るまで持ち堪えたのだ。彼女がいなければ確実に、北部に住む民に犠牲が出ていたことだろう。

 彼女は守り抜いたのだ。自分以外の幸せを──自分自身の命を犠牲にして。


 彼女の亡骸を見て、かつて言われた言葉を思い出す。


『私たちが今幸せに暮らせている代わりに、他のみんなの幸せが奪われそうな時にはそれを守る。それができる心を持った人を貴族と呼ぶの』


 言っている意味が、分かった。

 自分たちはあの恐ろしいものから、今まで当たり前のように享受していた幸福を守るためにあるんだと。


 彼女が『力』と言わず『心』と言った意味も分かった。

 あの時、たった一人で立ち向かった母と違って。

 母より遥かに強い魔法を授かっていたにも関わらず、魔物の大群に恐れを成し守るべき民を見捨てて我先にと逃げ出した。そんな他の貴族たちより母の在り方の方がよほど立派だ。


 この国は、魔法が全て。

 そんなユースティアでは常識である理念に疑いを持ったのも、この時だったと思う。

 目に焼きついた、母の後ろ姿。あまりにも鮮烈で気高き在り方、それに憧れた。


 だから、カティアは決めたのだ。

 母のようになろう。誰よりも高潔で、まっすぐで、美しかったあの姿を理想としよう。

 弱きものを助け、守る、強くて誇り高い貴族になるのだ。



 母が死んだ二月後にカティアの魔法が判明した。授かった魔法は非常に強力だが、その性質上悍ましい物だと悪く言う者がいた。

 でも、綺麗だと褒めてくれる男の子がいたから頑張れた。

 魔法が全てだとは思わない。けれど魔物を討伐するのに最も有用な力であることは確かで、蔑ろにするわけには当然いかなかったから。


 彼は素晴らしい魔法使いで、純粋に魔法を愛し、魔法で誰かを助けたいと言っていた。

 それはカティアにとっては心地の良い理念で、彼が血統魔法を持たないと判明した時は信じられなかった。

 故に彼を見捨てることはしなかったし──もし努力及ばず家を追い出されたとしても、その時は私が守るべき存在だと思っていた。


 だから──彼があの日、家を追放されて行方が知れないと聞いた時は母が死んだ時以来の、身が引き裂かれるような悲しみを抱いた。

 けれど、立ち止まることは許されない。

 第二王子アスターの婚約者になった。彼も素晴らしい魔法使いと聞く。ならば今度は彼を支えることがこの国のため、多くの民のためだ。

 そう自分に言い聞かせ、悲しみを振り切って王宮へと向かった。


 アスターは伝え聞いた通りの凄まじい魔法使いだった。特にその血統魔法は強力無比の一言で、魔物を討ち民を守るためにこれ以上のものはないと思った。

 やはり彼をきちんとサポートすることがこれからの自分の責務──と、思っていたのだが。


「くだらん。お前はただ、俺の言うことに頷いていれば良い」

「『こちらの方が良い』だと? 俺を誰だと思っている、俺が間違えるわけがないだろうが」

「俺は完璧な魔法使いだ。お前の世話が必要な『出来損ない』ではない。この魔法を見れば明らかだろう」


 何かが、違った。

 確かにアスターの魔法には敬意を払うべきだろう。でも……優れた魔法を授かっただけで全てが肯定されるのは、違う気がするのだ。

 もし、『彼』なら。

 きっと同じ魔法を授かったとしてもこうはならない。きちんと自身以外の言うことにも耳を傾け、他人を思いやることができていたはずだ。


 このアスターの性格、考え方をこのままにしておけばいつか国は乱れ、取り返しのつかないことになる。そしてその影響が真っ先に行くのは彼女たちが守るべき民。封建制はそういう制度だ、だから捨て置くわけにはいかない。

 その直感を信じ、父ユルゲンにも方針に許可をもらったので、彼女は辛抱強く忠言を続けることにした。それが民のためになると信じて。


 でも、アスターの性格は5年かけても一向に改善されず、どころかより加速し──横柄と言えるほどになる始末。

 アスターが自分に向ける目線もどんどん煩わしいものを見るようになって行き、影響されて王宮内でも自分は腫れ物扱い。


 辛かった。

 自分の言うことを誰も聞いてくれないのは、自分のことを誰も信じてくれないのは、辛い。


 加えて、自分の魔法にも不具合が目立つようになってきた。

 血統魔法は、授かった時点ではさほど強力でない場合もある。けれどそれは一時的なもので、所謂『体の成長が魔法に追いつく』ことで解決する場合がほとんど、カティアもそうだと思っていたが……一向にその兆候は見られない。


 徐々に、『欠陥令嬢』という名が広まり──王宮でのカティアの立場はどんどんなくなっていった。

 辛い。息苦しい。眠れない夜もあって、自分が精神的に追い詰められていっているのが分かる。


 でも・・立ち止まる・・・・・わけにはいかない・・・・・・・・


 それが自分の責務だから。民の幸せを守るために、自分はその身を捧げなくてはならないから。



 高等学校に入学した。

『欠陥令嬢』の名は広まっているものの、それでも公爵家令嬢。学園という場もあって王宮の時のように露骨な敵視の視線はなく、一定の敬意を向けてくれる生徒もいて。多少は息苦しい思いをしなくて済んだ。


 けれど──その代わりと言わんばかりに、一部生徒から強い敵意を向けられている生徒が同学年にいた。

 サラ・フォン・ハルトマン。ハルトマン男爵家の令嬢にして、世にも珍しい二つの血統魔法を持つ『二重適性』の少女。

 彼女は自分より家格が上の人間に立場を利用した嫌がらせを受けていた。

 当然許せることではない。そして何より腹立たしかったのは──自分のことを『魔法を使えない欠陥令嬢』と呼んだ侯爵家の令嬢がサラに対しては『男爵家ごときが調子に乗って』と言い放ったことだ。


 ふざけるな。

 自分に対しては立場よりも魔法をとってこき下ろしたくせに、同じ舌でサラに対しては魔法ではなく立場を持ち出して馬鹿にするのか。


「そのような信念なき輩の言うことを聞く必要はないわ」


 まさしく、当の侯爵家令嬢に馬鹿にされている現場に現れたカティアはそう言い放った。

 そのまま物申してくる令嬢をひと睨みで黙らせた後、彼女の前に立って話しかける。


「サラ・フォン・ハルトマンよね。私はカティア。知っているかしら?」

「は、はい……トラーキア公爵家の……あの、お、お許しください……!」

「……許す? 何をかしら」


 言った直後に気付く。きっと自分もサラの魔法の才に嫉妬して嫌がらせしにきたと思っているのだろう。


「心外よ。そのようなことをするわけがないでしょう」


 確かに、憧れる気持ちがないと言えば嘘になる。

 でも……それでこき下ろすような愚かな真似はしない。彼女の魔法の才は間違いなく、将来民を守るものとして有用であるのだから。くだらない嫉妬で失うわけにはいかない逸材だ。

 だからカティアはサラの手を取って、微笑みかけながらこう言ったのだった。


「今日ここにきたのは、あなたにお願いをしにきたからよ。──私と、お友達になってくれないかしら?」


 サラは、ものすごくいい子だった。

 少々謙虚すぎるきらいはあるものの、生まれ持った魔法の才能に驕ることなく素直で純真。容姿も愛らしく多くの令息が天使のような彼女の姿に見惚れるところを何度も見た。なんなら自分も何度か見惚れたくらいだ。


 だから、彼女が同学年の婚約者、第二王子アスターに見初められるのも当然だと思ったし。

 これからはアスターの元とは言え共に働けることを喜ばしく感じたし、それによって更に加速する嫌がらせから彼女を守るためにも手を尽くした。


 ……なのに。


「見苦しいぞカティア! 醜い嫉妬でこのような悪事に手を染めるとはな!」


 公衆の面前でアスターが放った一言で、全てが変わり始めた。


「……なんのことでしょう?」

「とぼけるな! 放課後サラの靴が隠されたと聞いた! お前の仕業だろう!」


 何故かアスターは、これまでの嫌がらせを全てカティアのせいにしようとしてきたのだ。


「あ、アスター殿下……カティア様は……!」

「サラよ、お前は優しい。庇いたくなる心も分かるが……あれがあの女の本性だ!」


 当然カティアの仕業ではないと知っている、どころか一日中共にいて自ら無実の証明となっているサラが声を上げかけるが、それをかき消すようなアスターの決めつけた大声にびくりと体を震わせて黙り込んでしまう。


「本当か……? あのお二人は仲が良いと思っていたが……」

「いや待て。そもそも立場的にカティア嬢が嫉妬しない方がおかしいだろう。側に置いていたのも誰よりも近くで虐めるためではないか?」

「そうですわ。それにアスター殿下がああ仰っているんですもの、間違いなどございませんわ」

「その通り。カティア様……やはり本性を隠しておられたんですね!」


 そして、アスターの正当性を疑わない周りの生徒たちが次々と同調し始めて。

 またあの辛くて息苦しい空間が、学園でも再現されていくのだった。


 そこからは早かった。

 カティアは学園内での味方を一切失い、周りの生徒に引き剥がされてサラと一緒にいることすらできなくなった。

 そんな中でもサラに対する嫌がらせは全てカティアのせいとされて、どんどん問題が大ごとになって。

 最後にはアスター自らの宣言によって婚約破棄、学園そのものを追放されたのだ。




 ……母のようになりたかった。

 弱きものを助け、誰かの幸せを守るために身を捧げる。

 そんな在り方に憧れてここまできた──のに。


「あっははははは! 無駄です、この僕からは逃げられませんよ!」


 現実は、どうしようもなく息苦しい。

 婚約は破棄され、学園も追い出され。

 おまけに何故か今──罪人と決めつけられ追われている。


「貴女は何か後ろめたい、神に叛くような行いをしているに違いない!」


 どうして、と思った。

 あの日からひたすら、貴族としての責務を果たすために必死に努力してきた。

 日々の訓練も勉強も手を抜いたことはない。後ろめたいことなど何一つしていないと胸を張って言い切れる。


「殿下から、多少の手荒な真似は構わないと仰せつかっております。暴れられても面倒ですし、眠ってもらいましょうか」


 なのに、何もかもが狂っていた。

 その事実と、眼前に迫るクリスの魔法に、怒りとも諦念ともつかない感情を覚えたその時。




 ──『彼』が、戻ってきてくれたのだ。

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