7話 公爵令嬢の逃走劇

 カティア・フォン・トラーキア、15歳。

 公爵家であるトラーキア家の令嬢であり、10歳の時第二王子アスターに見初められて婚約者となった少女。


 そこから5年。彼女は王宮での教育と本人の不断の努力により、礼儀作法、政治、教養全てを完璧と言えるレベルで修め。

 見目もより美しく成長し、その紫紺の髪や紫水晶の瞳も相まって夜の妖精と言われるほど可憐かつ気品ある美少女となった。

 性格も真面目で誇り高いそんな彼女は、『ある一点』を除いて完璧な王子の婚約者と言われていた。

 そのある一点も、何か致命的な罪禍であるとかそう言ったものではなく、故に。



「カティア・フォン・トラーキア嬢! いい加減に観念してくださいよ、あなたには──国家転覆を目論んでいるという疑いがあるのだから!」



 そんな、本当に全く身に覚えのない疑いをかけられて。

 クリス・フォン・フレンブリード──第二王子の右腕と言われる、本来ならば自分の味方だった人間に追われ。

 彼が指揮する兵士とともに、こうやって路地裏に追い詰められることになるなど想像もできなかった。


「……いい加減にして欲しいのはこちらの方よ」


 クリスを睨みつけ、カティアは先ほど彼が唐突に現れた時と同じように反論した。


「そんな疑惑をかけられる謂れはないし──何より。仮にあったとして、罪状は? 罪状もなしに兵を動かして、公爵令嬢を一方的に捕らえようとするなんて完全に越権行為、許されることではないわ」

「はは、如何にも追い詰められた悪役の台詞ですね!」


 しかしクリスは同じように、正当なはずの主張を一方的な決めつけで切って捨てる。


「確かに罪状はありません、今はね。けれど先ほども申しましたよね──この件を命じたのは、紛れもないアスター第二王子殿下なんですよ!」


 ぎり、とカティアが歯を鳴らす。


「殿下の素晴らしさは貴女自身がよくお分かりでしょう? 見目麗しく文武両道、御歳15にして既に数多くの魔物を討ち果たした英雄王子! そのお方が仰ったのです、『カティアを捕らえろ』と!」

「……それがどうしたのよ」

「英雄とは、時に理には縛られないもの。あのアスター殿下が仰ったことならば、貴女を捕らえることには深遠な意味があり、絶対に正しいのです。その言葉の前に罪状の有無など些細なことでしょう?」


 ふざけている。

 仮に王族と言えども、何の理由もなくこの国で定められた法を無視していい道理などあるはずがない。

 それを無闇に破ってしまえば、多くの人が暮らす上で必要な秩序が壊れることになる。当然の話だ。


 ……だが、同時に確信もあった。

 きっと、そのふざけた話は通ってしまうのだろうと。

 それくらいに、あの王子様の発言権は絶対で、周りもそれを疑うことがなくて。

 もし自分が大人しくクリスに捕まったならば。

 着いてきた、つまり任意同行をした、よって自分の罪を・・・・・認めたも同じだ・・・・・・・として。

 ありもしない罪状を後付けででっち上げられ、何の意図があるかわからないがあの王子様の思い通りになるのだろう。


 今の貴族社会がそういうものだと、カティアはこの5年で痛いほど学んでしまっていた。

 だから、ここで捕まることだけは絶対に回避しなければならない。

 そう考えて、カティアは腰を落として臨戦体勢に入る。


「おや、まだ抵抗する気ですか? いいでしょう、いくら罪人と言えど足掻く権利くらいは認めてあげないとね」


 それを見て、クリスは余裕を崩さないまま少しの愉悦混じりに口角を釣り上げて。


「お前たち、手は出すなよ。仮にも高位血統魔法の使い手だ、ここは僕に任せて彼女を逃さないことに専念しろ」


 周りの兵士たちにそう告げてから、すでに詠唱を済ませていた魔法──複数の光球を背後に展開する。

 血統魔法、『魔弾の射手ミストール・ティナ』。

 クリスが第二王子アスターの右腕であることを保証する、強力な血統魔法。

 それを見せびらかすように展開してから、彼は嘲りを乗せた声でカティアに呼びかける。


「さあどうぞ、抵抗してみてください。……最も、悪役の抵抗などたかが知れています。罪状がどうとか言っていましたが、どうせ法務大臣たるお父上に頼んで揉み消してもらったんでしょう?」

「──取り消しなさい」

「はい?」

「私のことをどうこう言うのは勝手だけれど──私の前でのお父様の侮辱は、許さない!」


 半ば挑発に乗る形で、けれどそれ以外道はないという確かな判断に基づいて、カティアも詠唱を開始する。



「【終末前夜に安寧を謳え 最早此処に夜明けは来ない 救いの御世はうつつの裏に】

 血統魔法──『救世の冥界ソテイラ・トリウィア』!」



 応じて現るは、冥府より出でし死霊の群れ。

 実体を持たないそれらはしかし、やがて寄り集まって凝縮・変換され、高濃度の魔力の塊となってクリスと同じように背後に顕現した。

 血統魔法、『救世の冥界ソテイラ・トリウィア』。その効果は死霊の操作。

 死者の未練を媒介に冥府と現世を繋ぎ、死せる魂より莫大なエネルギーを得ると言われる魔法。

 本来、クリスの『魔弾の射手ミストール・ティナ』と比べても決して見劣りしないほど強力な血統魔法だ。


 双方ともに己の魔法を構え、クリスは嘲弄と共に、カティアは鋭い眼光でそれらを放ち、

 二つの血統魔法が、中央で真っ向から衝突した。



 結果は一目瞭然だった。



「っ」

「あっははははははは!」


 哄笑を上げるのはクリス、その先で砂煙と共に己の体を押さえるのはカティア。

 どちらの魔法が優ったのかは、両者の態度を見れば明らかだ。


「なんと醜悪で──そして、なんと脆弱な魔法なんでしょうね!」

「ッ、この……っ!」


 カティアは歯を食いしばって次弾を放つが、それもクリスが片手間に撃った魔法であっさりと掻き消されてしまう。

 技巧の差ではない。単純に、魔法の出力に絶望的なまでの差があるのだ。


「噂通りですね、カティア嬢! 優れた魔法を受け継ぎながら、何故かその魔法を十全に扱えない──『欠陥令嬢』との名は!」


 そう。

 それこそが、先程述べた唯一のカティアの瑕疵。


 カティアは6歳の時に血統魔法、『救世の冥界ソテイラ・トリウィア』に覚醒した。

 それはトラーキア公爵家相伝の魔法の一つで、本来であればそれに相応しい高い性能を誇る魔法のはずだったのだが。

 何故か、カティアが扱うその魔法は出力が極端に減少し、血統魔法の中でも最低レベルに威力が落ちてしまうのだ。


「魔法を見るだけでも明らかだ! 死者を操るという悍ましい効果、そしてその欠陥! これだけで貴女は何か後ろめたい、神に叛くような行いをしているに違いない!」

「その通りだ! きっと天罰が降ったんだ!」

「クリス様、やってしまってください! 愚かな令嬢に正義の鉄槌を!」


 クリスの一方的な糾弾に、周りの兵士たちも追従し始める。

 それを黙らせるようにカティアは再び魔法を展開するが、先ほどと同じ、いやそれ以上にクリスの魔法に歯が立たない。


(……想像以上ね……)


 自分の魔法に欠陥があるのは承知していたが、仮にも公爵家の血統魔法だ。

 どうにか周りの兵士たちを蹴散らして逃げるくらいの隙は作れると思っていたが……想像を遥か超えて、隔たりがありすぎた。


「さあカティア嬢、もう抵抗は終わりですか?」


 圧倒的に劣る相手を一方的に制圧する、その愉悦に浸る表情を隠そうともせずにクリスが問いかける。

 その表情が腹立たしく、尚も魔法を展開しようとするが──そこでカティアは気づく。

 魔法が、出ない。


(っ! もう──)


「もう、魔力がないようですね」


 ここまでの逃走劇で魔力を使いすぎた。

 薄ら笑いでクリスは指摘し、背後に特大の光球を展開して。


「殿下から、多少の手荒な真似は構わないと仰せつかっております。暴れられても面倒ですし、眠ってもらいましょうか」


 躊躇なく、それをカティアに向けて撃ち放った。


(そん、な)


 その一撃は、カティアの意識を刈り取るのに十分な威力を持っているだろう。

 そして自分は彼らに連行され、その先の未来は牢獄か身分の剥奪か。


(私が、今日まで、どれだけ──ッ)


 あの日からひたすら、貴族としての責務を果たすために必死に努力してきた。

 日々の訓練も勉強も手を抜いたことはない。後ろめたいことなど何一つしていないと胸を張って言い切れる。


 なのに、こんな。

 血統魔法。神から授かりし天稟ギフト。その出来だけでどんな理不尽も正当化され、どんな努力も踏み躙られるのなら。



 ──一体、何のために自分たちはこの国で生きているのだろうか。



(……もう、そんなことを考えても意味はないわね)


 光球は最早目前に迫っている。ここから自分がこの魔法をどうこうする手段はない。

 その間際。緩やかになった思考で走馬灯のように思い返すのは、かつて別れた一人の少年のこと。


『きれいな魔法だね、カティ』


 血統魔法、『救世の冥界ソテイラ・トリウィア』に目覚めた自分を家族以外の周囲の人間は忌み嫌った。

 悍ましい、薄汚い魔法だ。こんなものは血統魔法ではないと。


 そんな中、何の含みもなく純粋にそう褒めてくれた少年がいた。

 彼は誰よりも、魔法の才能に溢れていた。

 だから彼に血統魔法が無いと言われても、カティアは決して信じなかった。


『私は信じるわ。あなたはこんなところにいる人じゃないって。絶対にいつか、すごい魔法使いになってまた私の前に立ってくれるって信じてるから』

『絶対の絶対、約束だからね!』


 そんなことも言ったっけと、苦笑まじりに思い出す。


(馬鹿ね、あの頃の私も)


 そんなことなどあり得ないと今では分かる。

 事実、あれ以降一切彼の行方は知らない。生死すら不明、どころか死んだ可能性の方が高いだろう。


 ……でも。

 この、もう自分一人ではどうしようもない状況で。

 恨み言を百ほど言ってもいいくらいの理不尽の中で。

 ほんの少しの奇跡を望んでもいいのなら──と。

 諦め混じりの思いで、泣きそうな声で、彼女は心からの言葉を口にした。


「……助けてよ、エル」





「はい」





 応えが、あった。

 目を瞠るカティア。直後、その眼前に展開されたのは眩いまでの光の壁。

 一瞬の間も無く、そこに魔弾が着弾。両者の間に凄まじい衝撃波が発生し、埃と風が舞い踊る。


 されど、その全ては壁の向こうにいるカティアに届くことはなく。

 やがて煙が晴れた時、彼女の目の前には。


「その……正直状況はよく分からないのですが」


 一人の、少年が立っていた。


 歳のころはカティアと同い年ほど。銀の髪に翡翠の瞳。今しがたカティアを狙っていたクリスとよく似た面立ちに浮かべるのは、クリスとは似ても似つかない穏やかで優しげな表情。


「お困りのようでしたので。……ああ、それと」


 見間違えるはずもない。

 背丈も顔立ちも声色も大きく成長していたし、あと何故か口調もちょっと違っているけれど。

 彼のことを忘れたことは、あの日から一日たりとてなかったのだから。


「約束通り、『すごい魔法使い』になって帰ってきました。……お久しぶりです、カティア様」


 そんな彼──エルメス・フォン・フレンブリードが。

 今かつての約束を果たし、彼女の前に立っていたのだった。

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