第5話 王宮の花の館
「逃げるなよ」という、低い声が耳に残っている。
やはり、怖いお方だと思う。迷惑をかけたとわかっているから、もう逃げないけれど。
ただ、私以外の
役所の住民部にも、
このときには、まさか自分に
そんなことを、悶々と考えていたら、沿道から歓声が上がった。
先に出発した者が、
拍手をする人や、「おめでとう」と声をかけてくれる人。
コーデリアには、歓声がただの雑音にしか聞こえなかった。自分とは無関係だと感じる。
ギルバート殿下の胸に、頭を押し付けられた。呆然としたまま、祝われるのに相応しい顔ではなかったから、ありがたい。感情の無い表情がだらしなさ過ぎて、民衆に見せられないと、隠されただけかもしれないけれど……。
住んでいた部屋の近くを通りすぎ、役所に近づいてきた。
昨日まで、普通に生活していたのに……。
そんな思いでぼんやり見ていると、一緒に働いていた上司や先輩方が、役所の前に出てきている。先輩と目があった。他の同僚と一緒に拍手をする姿に、涙が溢れそうになる。
あぁ、こんなところで泣いてはいけない。ギルバート殿下に迷惑をかける。それに、先輩にも、迷惑をかける。
涙がこぼれないように少し上を見て、まばたきを繰り返していたら、ギルバート殿下の真っ黒い瞳と目があった。
「もう、着く。少しの辛抱だ」
優しく穏やかな声に、じっと見つめ返してしまった。前を向くギルバート殿下を食い入るように見ていると、照れたようにはにかんだ気がした。
噂ほど、怖い人ではない??
沿道にいる民衆が少しずつ減って、ついに王宮の敷地に入った。
広い広間は、綺麗に整備されている。青々とした木々が規則的に植えられていて、真ん中には芝生が広がっていた。
広間を囲うように、背の高い建物が建ち並んでいる。どの建物も豪壮で美しい。
広間を突っ切って、王宮の建物の隙間を通り抜け、一般の人が立ち入らない裏の方へ進んでいく。
コーデリアをのせた馬は、紫色の花が刻まれた建物の前で足を止めた。
「ここを使ってくれ」
この、大きなお屋敷を??
建物が大きいだけではなく、扉や窓枠などの装飾も細かく美しい。
さすが、王族の方の住居だわ……。
あまりのことに建物を見上げていると、ギルバート殿下に手を引かれる形で、お屋敷のなかに招き入れられた。
いつのまにかソファーに座らされて、どんどんと周りの準備は整っていく。
次々にお屋敷の使用人が、挨拶にやってきている。残念ながら、すぐには覚えられそうにはない。まったく頭に入ってこなかった。
「わからないことがありましたら、何でも聞いてくださいね」
と、優しい声がかけられた。ほとんど聞いていなかったので申し訳ない気持ちもあったけれど、少しだけホッとした。
ギルバート殿下の腹心だというレナルドさんが、向かいのソファーに座った。殿下は、使用人の挨拶を一緒に聞いていた流れで、コーデリアの隣に座っている。
コーデリアは、唇をぎゅっと引き結んだ。
どちらかと言えば、言いたいことがあると口に出してしまう質だ。
しかし、今は、言葉が出てこなかった。
ギルバート殿下への無礼な態度は、避けるべきである。他にも、
「コーデリアさんには、このお屋敷の敷地内で過ごしていただきます。庭までは自由に出て下さって構いませんが、敷地からでるようでしたら、ギル様から許可をいただいて下さい」
無言で頷いたが、心の中で反論する。
そんなことだろうと思っていたが、軟禁ではないか……。本当に、誰か、代わって欲しい……。
「結婚式は、コーデリア様の成人を待って執り行います。2年ほど先にはなりますが、少しずつ準備を進めていきましょう」
2年……あれば、私よりも妃にふさわしい
そうしたら、私はここにいる必要はないのよね? 辞退させてもらえるかしら?
頷かないことが無言の抵抗だったのだが、殿下が「そうだな」と返事をしてしまった。
「仕事や自宅などの手続きは、こちらで代行しておきます。部屋の荷物もこちらで処分いたしますので、必要なものは、今、おっしゃって下さい。すぐに届けさせます」
「今」と言われ、慌てて考える。
久しぶりに発した声は、かすれていた。
「本と服を、お願いします。本は、リビングに入ってすぐの棚に立て掛けてあるものです」
内容は、焼き菓子のレシピ。
もし、役人をやめて、第二の人生となったときには、お菓子屋がいいと思っていた。
コーデリアが甘いものを好きというわけではないが、食べた人の笑顔を見るのは好きだ。それに、地味で可愛げのないコーデリアでも、お菓子屋をやっていれば、可愛く見えるのではないかという下心もあった。
職人の技術は口伝が主流で、本になっているのは珍しく、それなりに値がはった。
働き出したころに見つけて、給金を貯めて買った大切な本だ。
そのあと、言葉を発するのを躊躇した。
なぜ「服」と言ってしまったのかは、わからない。
「……服は、やっぱりいいです」
「荷物にはなりませんし、どれをお持ちすればいいか、おっしゃって下さい」
ここで、強く断るのも怪しい。口から出てしまったものは、仕方がない……。
「ハンガーにかけて、ウォールフックに……」
最近、奮発して買ったワンピース。
自分の想いを伝えるため。
普段は地味な格好しかしないのに、少しでも印象をよくしたくて、ライトグリーンを選んだ。
そんなもの持ってきて欲しいなんて、引きずっているみたいじゃない。
説明を終えたレナルドさんが席を立つと、ギルバート殿下も立ち上がった。
「今日は疲れただろう。一人でゆっくり休むといい」
事務的な挨拶をして立ち去るレナルドさん。ギルバート殿下は使用人に何かを言付けて、それからコーデリアを振り返った。
逃がさないように、念を押したのかしら。
ギルバート殿下が微笑んでから出ていったのも気がつかないくらい、ズンと気分が落ち込んでいた。
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