【完結】柊坂のマリア’(作品230428)

菊池昭仁

柊坂のマリア

第1話 旅支度

 #門倉__かどくら__#は執務机の上に積み上げられた書類を、既決と未決の箱に振り分けていた。

 インターフォンで秘書が私に言った。


 「会長、北山弁護士と沢村会計士がお見えになりました」

 「そうか、通してくれ」


 北山は遺産相続が専門の女性弁護士だった。

 女優のようなルックスと明晰な頭脳を併せ持つ、いわゆる才色兼備の弁護士である。

 そして公認会計士の沢村は、門倉の会社の顧問会計士をしていた。



 「失礼いたします」

 「忙しいところ、すまんな?

 君たちを呼んだのは、察しの通り、ワシの遺産相続の件じゃ。

 まあ、掛けてくれ」


 門倉はふたりにソファを勧めた。


 「ワシは今年で72歳になる爺さんじゃ、そろそろ終活というやつをしなければならん。

 ワシが死んだらカネで揉めるのは目に見えておるからのう。

 ワシは子供の頃、家が酷く貧乏でな? 中学を出るとすぐ、集団就職で東京の蕨の鉄工所へ丁稚奉公に出された。

 当時は高度経済成長の真っ盛りでのう、ワシらは「金の卵」などと世間からもてはやされ、都合のいい労働力として低賃金で休みもなく、朝から晩までこき使われたもんじゃ。

 中学を出たばかりの子供に何が出来る?

 ワシはいつも親方から怒鳴られ、油まみれになって働いた。

 地獄のような毎日じゃった。

 独立したのはワシが22歳の時じゃった。朝鮮動乱のおかげもあって、ワシの会社はその波に乗ってみるみる業績を伸ばしていった。

 ワシは酒もタバコもやらず、女遊びもせず、24時間必死で働いた。

 カネが出来ると、もっとカネが欲しくなった。

 金、金、金とワシは金を追い求めていったわけじゃ。

 家族など無駄だと思った。家族を持てばカネが掛かるからのう?

 ワシは自分のカネがなくなっていくのが惜しかったんじゃ。

 カネはどうすれば貯まると思うかね? 北川君」

 「真面目に働くことですか?」


 北山弁護士はすこぶる優等生的に答えた。


 「使わんことじゃよ。

 使わなければカネは残る。

 アンタらは冠婚葬祭でカネを包むじゃろう?

 常識のない、ケチな人間だと思われるのはイヤじゃからのう?

 だが、そんなことをしておったら小金しか貯まらん。

 そうしてワシは1,000億円のカネを得ることが出来た。

 世間からは守銭奴だとか、成金だとか、カネの亡者だと散々罵倒されて来た。

 だがそれは、所詮、カネのない負け犬の遠吠えにすぎん。

 カネのない奴らはカネの重み、ありがたみを知らん。

 この世にカネより大切な物など存在しやせんのじゃ。

 カネは命よりも尊い。

 カネは神の叡智なんじゃよ。普通の人間はカネを愛しているのではなく、カネで買える物やサービスが欲しいだけなんじゃ。

 バッグや外車、宝石、大きな屋敷に仕立ての良いスーツ、女・・・。

 人間はカネを愛しているのではなく、ただ欲にまみれておるのじゃ。

 ワシはカネが好きじゃ。

 物も権力も、そんな物にワシは興味はない。

 大きな屋敷などはカネが掛かるだけじゃ。

 人がひとり寝るには畳一畳あれば足りる。

 ワシは今でも普通のホテル暮らしをしておる。

 服だってこの通り、紳士服のチェーン店の物で十分じゃ。オーダーメイドなど必要がない。

 時計も時間が分かればそれでいい、ワシの時計は普通の国産時計じゃよ、ほれ」


 門倉は自分の腕時計を見せた。

 すると沢村会計士は左手にはめた金のロレックスを咄嗟に隠した。


 「食い物も立ち食いソバや牛丼で十分満足しておる。

 銀座や赤坂などでの美食など興味もないし、食べたいとも思わんよ。カネが勿体ない。どうせクソになってしまうのじゃからのう。

 そんな連中は飢えを知らん。食えない苦しみを知らん。

 あれが旨いだの、これが食いたいだの、実に滑稽じゃ。

 ドブにカネを捨てるようなもんじゃよ。

 そして気がつけば、1,000億円というカネが残ったわけじゃ」

 「門倉会長は我々庶民の伝説ですよ」


 沢村会計士がリップサービスをした。

 500件以上の優良顧客を抱え、年収も数億は下らない沢村は、庶民とはかけ離れた生活をしていた。

 海外に2か所、軽井沢と鎌倉にもそれぞれ別荘を持ち、数千万円の高級外車が数台と、葉山にクルーザーも所有しており、さらに2人の愛人も囲っているという噂だった。


 「伝説か? ケチで冷酷な守銭奴としての伝説がな?」

 「そんなことはありませんわ。

 門倉会長は日本経済の立役者です」


 労わるように北山弁護士が門倉をフォローした。


 「じゃがな、ワシは自分の死に際に及んで思うんじゃ。

 何のために今まで生きて来たのかとな?

 自分の人生はなんじゃったのだろうと。

 ワシは人の為にカネを使ったことがない。ワシにはカネは残ったが、それ以外、何も残らんかった。

 ワシに近づいて来る連中は、男も女もワシの金が目当てじゃ。

 ワシを好きで集まる者など誰もおらん。

 そこでワシは考えたんじゃ。この財産をすべてくれてやってもいいと思える人間を探してみようとな。罪滅しじゃよ。そしてあの世にカネは持って行くことは出来んからのう。

 ワシはこれからその旅に出ることにする。 

 相続と税務処理については君たちふたりで協力して対処してくれ」

 「かしこまりました」


 ふたりが会長室を出て行くと、門倉は35階の会長室から見える、都内の景色を見て目を細めた。


 「果たしてワシの1,000億の財産を受け継ぐにふさわしい人物は、この日本におるのかのう?」


 高層ビルが立ち並ぶ新宿の街に、午後の陽射しがガラスウォールのビル群に反射していた。


第2話 ファミレスの親子

 門倉は久しぶりに電車に乗った。

 車窓を流れて行く都会の風景。

 東京にもまだ猥雑な場所は沢山残っている。門倉はある寂れた駅で電車を降りた。


 路地裏で遊ぶ子供たち、汚らしい食堂や何を売っているのかもわからない怪しい店が並んでいた。

 腹が減ったので、初めてファミレスとやらに入ってみた。

 メニューを見て門倉は思った。

 

 (これがファミレスか? 結構高いな? 殆どが1,000円近くするではないか?)


 取り敢えず門倉は、一番安い雑炊セットを注文することにした。

 お冷が運ばれていなかったので、ウエイトレスを呼んだ。


 「すまんがまだお冷が来ておらんのじゃが?」

 「すみません、お水はセルフサービスになっております」

 「セルフサービス?」

 「はい、あちらのコーナーにございますので」

 

 (確かに海外では「お冷」や「おしぼり」のサービスはないが、これも白人の真似事なのか?)




 門倉が雑炊を食べていると、店の奥の席でガラの悪い男ふたりが小学生の男の子を連れた30代位の母親を恫喝していた。



 「奥さん、カネがないってどうすんの? 今日が返済日だぜ。

 旦那が作った借金とはいえ、奥さん、あんたも連帯保証人なんだからさあ。

 返済はきちんと守ってもらわねえとな?」

 「・・・すみません、もう少し待って下さい」


 その母親はテーブルに額をつけるように詫びていた。


 「なんなら稼げる仕事、紹介しようか?」

 「ママをイジメるな!」


 男の子が男を睨みつけた。

 

 「ガキ、ちょっと黙ってろ、これは大人の話だ。

 おいカズオ、このガキを連れて行け」

 「おいガキ、ちょっと来い」


 カズオというその若い男は、子供の手を引いた。


 「やめて下さい!」


 周りの人間たちは見て見ぬふりをしている。

 門倉はその席へとゆっくりと近づいて行った。


 「なんじゃ? ジジイ」

 「どうしたんじゃな? 大きな声など出して。

 みんな、迷惑しておるぞ。静かにせんか」

 「ジジイ、おめえには関係のねえ話だ。すっこんでろ」

 「そう言われてもなあ、気になるじゃろう? ここは飯を食うところで弱いご婦人を脅迫するところではないそ。どうしたんじゃ? 奥さん?」

 「なんでもありません、大丈夫です。すみません」

 「先程から聞こえていたんじゃが、返済がどうしたこうしたとか・・・」

 「じゃあ爺さん、お前が代わりに払えよ、85,000円」

 「85,000円? ほう、それは大金じゃのう?

 ワシの年金1か月分じゃ」

 「いいから消えな!これは俺たちの話だ。ジジイの出る幕じゃねえ!」

 「ところで、元本はいくらじゃ? 借用書を見せてみなさい」

 「ジジイだからって容赦しねえぞ! コラッ!」


 すると、そこへレスラーのような大男が現れた。

 門倉のボディガード、黒田だった。


 「おう黒田、なんでお前がここにおるんじゃ?」

 「会長を見張るようにと、秘書の川崎さんから言われましたのでお供致します」

 「そうじゃったか? それはご苦労さん。

 コイツら半端者ヤクザのようじゃから、よく話を聞いてやってくれ」



 黒田は元警視庁捜査一課の警部だった男で、門倉の身辺警護を担当していた。



 「よう、銀二じゃねえか? うちの会長に何のマネだ?」

 「あっ、黒田さんじゃねえですか? ど、どうしてここに?」

 「出せ、借用書」


 男は渋々借用書を黒田に渡した。


 「10日で3割? またムショ行きだな銀二? 会長、これです」

 「じゃあ元金は50万円というわけじゃな?」


 門倉は分厚い財布の中から一万円札を取り出し、ゆっくりと慎重に数え始めた。


 「お金は大切じゃからな? ひい、ふう、みい、よー、・・、48、49、50枚っと。  

 これでいいわけじゃな? 後はこの親子に付き纏うなよ」


 門倉はその場で借用書を引き裂いた。


 「そうじゃ、思い出した。過払い金があるじゃろう?」

 「勘弁して下さいよお」

 「奥さん、今までこやつらにいくら支払いましたかのう?」

 「230万円です」

 「黒田? これは犯罪じゃな?」


 黒田が警察へ電話を掛けた。

 

 「ああ、俺だ。黒田だ。あのなあ・・・・」

 「わかりましたよ返します! 返しますから勘弁して下さい!」


 男は50万円を門倉に差し戻した。 

 

 「失礼します!」


 男たちは逃げるように店を出て行った。



 「すみません、なんてお礼を言ったらいいのか?」

 「ボク、お名前は?」

 「健太です」

 「そうか健太、腹が減ったじゃろう? ママと好きな物を食べるといい」


 門倉はその50万円を母親の手に握らせた。


 「困ったことがあれば、いつでも言いなさい」


 門倉は名刺に「この人を助けてやってくれ 門倉」と書いて母親に渡した。


 「門倉さんって、あの門倉グループの門倉会長さんなんですか!」

 「がんばりなさいよ、お母さん。

 希望を捨てちゃいかん。ワシの秘書の川崎という女性を訪ねなさい。

 何か仕事を紹介してくれるはずじゃ」

 「あ、ありがとうございます! このお金は必ずお返しします!」


 門倉と黒田は店を出た。



 「さっきはありがとう。危うく痛い目に遭うところじゃったよ、わっはっはっ」

 「会長、良かったですね? あの親子」

 「これからもまた、あの親子には様々な試練が訪れることじゃろう。あんなのワシの自己満足にすぎんよ。

 親切の押し売りじゃ、まるで悪代官を懲らしめる、水戸黄門の気分じゃったよ。

 なあ、角さんや?」

 「ホントですね? ご老公。なんがか凄くいい気分です」


 人のために何かをする。門倉にとってそれは初めての経験だった。

 門倉は心がとても温かくなるのを感じていた。


 ふたりは笑って夕暮れの神田川畔を歩いた。


第3話 河川敷の聖者たち

 門倉は都内のホテルに独りで暮らしていた。

 家族もなく、ひとり者の門倉にとってのホテル住まいは、安全で無駄がなく、門倉は気に入っていた。

 大きな屋敷に1人で住んで、何人もの使用人を雇うことを門倉は浪費だと考えていた。



 (今日の親子のように、世の中には様々な苦境に喘いでいる人たちがおる。

 それをただ傍観するのではなく、その中に入ってその苦しみを共感してみる必要があるな?)


 翌日、門倉はホテルを解約し、ホームレスになることにした。




 河川敷を歩いていると、ブルーシートで覆われた、ホームレスの小屋を見つけた。

 そこには3人のホームレスが、枝豆を収穫しているところだった。


 「こんにちはー、昨日まで暮らしていたアパートを追い出されてしまいましてな、行くところがないんじゃ。

 ワシも仲間に入れてもらえんかのう?」


 すると、その中の仙人のように髭を生やした老人が振り返り、


 「アンタ、どっから来なすった?」

 「練馬から来ました」

 「そうか、まあワシらは構わんよ。

 多少の不自由と危険はあるが、慣れてしまえばなんとかなるもんじゃ。

 ワシは緒方と申します、長老と呼んで下され。

 まあアンタも長老じゃがな? ふぉふぉふぉふぉ」

 「ワシは門倉です、よろしくお願いします」


 長老には歯が2本しかなかった。

 もうひとりは40歳くらいの髭モジャの男だったが、澄んだ綺麗な瞳には、誠実さと知性を宿していた。


 「私は次郎といいます。大変でしたね? 住んでいたアパートを追い出されるなんて。

 この国は死んでいますよ。こんな腐った国家に頼って生きるほど惨めなことはありません。

 誇り高く生きようじゃありませんか!

 近代哲学の礎を築いたデカルトは「二元論」を唱えました。

 精神を物質からの独立した存在として、どのようにそれを認めさせるのか? そしてその非物体である精神がどのように物体である身体を動かすのかという問題を提起したのです。

 そこで今、我々がやらねばならない事は・・・」

 「まあまあ、教授、その辺で勘弁してあげて下さいよ。

 教授はね、国立大学の先生だったんだよ。だからいつも難しいことを考えているんだ。

 ボクはジュン、よろしくね? 門倉さん」


 ジュンは20代の若者だった。

 こんな素直な好青年でもホームレスになる世の中になってしまったのかと、門倉は衝撃を受けた。


 「門倉です、お世話になります」


 門倉は深々と頭を下げた。

 意外だったのは、三人とも身綺麗にしていることだった。

 服はきちんと洗濯がされて、風呂にも入っている様子だった。




 その夜、長老たちは門倉の歓迎会を開いてくれた。


 「遠慮はいらん、腹も減ったじゃろうて、どんどん食べなされ」


 ベニヤのテーブルにはたくさんの食べ物が並んだ。



 「これは料亭『吉兆』にいた花板が独立した店の残飯なんだ、いい仕事をしているよ」


 ジュンが言った。


 「ジュンは有名料亭で板前をしていたそうじゃ。

 食事はいろんなところからジュンが運んで来てくれる」

 「このワインもいいですよ、マルゴーの2003年物とシャトー・ラルゴの2011年をブレンドした物です。

 門倉さん、もう一杯いかがですか?」

 「これはこれは、すみませんのう、では、遠慮なく」

 「門倉さん、そのワインにはこのウサギのテリーヌが合うよ、ミシュランの星のついたフレンチの残飯なんだ」


 門倉はワインを飲み、テリーヌを食べた。


 「ほんとじゃ! 帝国と同じ味が・・・」

 「帝国ホテルのこと?」


 門倉はよく会食に招かれていた帝国ホテルの料理のことを、つい口に出してしまった。


 「いや、こんな料理はおそらく帝国ホテルと同じ味なんじゃろうなという話じゃよ。ワシには縁のない話じゃ。

 もちろん、行ったこともないがのう」

 「今度、帝国ホテルの残飯を持って来てあげるよ」

 「ありがとう、ジュン。楽しみにしておるよ」

 「今夜は冷えるから、門倉さんには新しい段ボールと、この前の震災でもらった毛布、それからペットボトルにお湯を入れてあげよう。湯たんぽにして使うといい」

 「すみません、長老、みなさん」

 「気にせんでいいよ、困った時はお互い様じゃ」


 門倉は忘れていた。

 こんな人の思い遣りや、やさしさを。

 自分たちも大変なのに、自分たちの貴重な物を分け与えてくれる。


 背広を来た人間には出来ないことだった。


第4話 柊坂の聖母

 その頃、門倉ホールディングの社長室では社長の大門裕一と、公認会計士の沢村が密談を交わしていた。


 「・・・というわけなんですよ。大門社長」

 「困った人だよ、門倉会長は」

 「全くです。そんなにお金が要らないのなら、私たちにくれればいいものを」

 「まあこの巨大企業体を一代で築いた会長の稼いだ金だ。俺たちがとやかく言うことではなわけだが、このまま指を咥えて見ているわけにもいかん。どうせあの世には持っては行けぬカネなのだからな? カネは生きている者のための物だ」

 「どういたしましょう、大門社長?」

 「身寄りのない会長のカネは俺のカネだよ」

 「では今夜はその前祝いと行きますか? どうです? これから銀座で一杯?」


 会計士の沢村は、下品にグラスを持つ仕草を見せた。


 「少し気が早くはないかね?」

 「善は急げと申しますので」


 ふたりは不敵な笑みを浮かべた。

 




 畑のトマトを収穫しながら、門倉は教授に尋ねた。


 「長老は何をしていた人じゃ? 品のいい人じゃが?」

 「長老は以前、山菱銀行の頭取だった方です。

 長老の銀行が四友銀行と合併することになり、長老は自分が身を引く代わりに役員や行員を残留してもらおうとしたようです。

 でも、実際には役員のひとりが自己保身のために長老を裏切り、経営責任を長老ひとりに負わせ、全ての財産を没収されたようです。

 あのとおり、自分の資産形成には興味のない人でしたから、家族はバラバラになってしまったという話です。

 気の毒な人ですよ、長老は。

 門倉さんはどんな仕事をされていたのですか?」

 「ワシは小さな町工場の職人じゃった。

 毎日毎日、汗まみれ油まみれになって働いたが、結局こうなってしもうた。

 あんたたちに拾われなければ、野垂れ死にじゃよ。本当にありがとう」

 「それで退職金もなく、アパートも追い出されてしまったというわけですな?

 今の政府は明治維新の末裔たちが権力を継承し、甘い汁を吸い続けています。

 明治維新を神格化していますが、イギリスの陰謀に加担したに過ぎないのです。

 100万以上の軍隊を持つ江戸幕府を、金もない、ただの血気盛んな若いチンピラを集めて倒せたのは何故です?

 その資金はどこから出ていたのですか? 軍艦や武器、弾薬は?

 そもそも坂本龍馬は誰に暗殺されたのでしょう?

 松下村塾の吉田松陰が夢見た理想国家は、いったい何処へ消えてしまったのでしょう。

 豊かな者はより豊かになり、貧しい者は切り捨てられてゆく世の中。

 何なんでしょうね? あの一律10万円の給付金は?

 金持ちにはお小遣い、そして貧乏人には焼け石に水です。

 大切なのは金を配ることじゃない! 努力すれば報われる、まともな国家にすることなんです!

 こんなに腐って肥大した国家は、もはや無用の長物でしかありません。

 いや、悪でしかない。

 アホな薄汚い政治家と官僚、それを利用する資本家たち。

 これからはもっとフレキシブルで、なれ合いや忖度、談合のないミニ国家の創設が必要なのです!」


 (ミニ国家? 中央集権の制度を改め、公平な州制度にするということか?)

  

 「それは良い考えじゃのう。小さな政府じゃな? 皆が平等にチャンスが持てる社会」

 「ありがとう、門倉さん。あなたも同志ですな? 実現させましょう! ミニ国家を! 小さな政府を!」

 「教授、それをやるにはいくら必要じゃ?」

 「そうですねー、最低1,000億円は必要でしょうね?」

 「1,000億円?」

 「途方もない金額ですが、私は諦めませんよ。自分が生きている限りはね」

 

 理想と現実、いつの世も権力者の為に国民が存在するのだ。

 あの世にカネも権力も持っては行けないことを、奴らは忘れておる。

 自分たちの栄華は不滅じゃと考えておるのじゃ。

 盛者必衰とは現世だけの物ではないということを。


 ここの3人がいい見本じゃ。

 能力もあり、優秀で優しい人たち。この彼らが世捨て人となり、現代の日本を冷静に俯瞰しておる。

 この人たちに活躍の場を与えてやりたい。

 門倉はそう思った。



 そこへジュンが帰ってきた。


 「ただいまー、門倉さん、帝国ホテルのフレンチ『レ・セゾン』の残り物だよ。

 食べてみたいって言ってたよね?」

 「まさか、ここから帝国ホテルまで自転車で行ったのか!」

 「大した事ないよ、ママチャリで往復4時間、いい運動になったよ。

 それより早くみんなで食べようよ、ちょっと早いディナーだけどね?

 今日は天気もいいし、外で食べようよ。僕はそのトマトでサラダを作るから」

 「それでは私はワインの調合をするとしよう。長老にも声を掛けて来ます」




 川面で鯉が跳ねた。

 川辺を秋風が吹き抜けて行く。

 空はどこまでも青く、この彼方に漆黒の宇宙が広がっているとはとても思えなかった。


 「どう? 門倉さん、美味しい?」

 「ああ、ジュン、すごく、すごく旨いよ。

 本当にありがとう。

 ほっぺが落ちそうじゃ」

 「流石は『レ・セゾン』ですなあ?

 この鱸のコンフィーなんて、何で残すのだろう? 信じられん」

 「でも、お陰でこうして食べられるわけですから、残してくれた人に感謝ですよ」

 「ジュン、ありがとうな」

 「門倉さん、ここの生活は大変じゃが、ここには愛がある。他人を思い遣る愛がな?

 愛があればカネは不要じゃ。飯が食えて、着る物も寝るところもある。

 そして何より仲間がおる。家族以上の仲間がな?

 ワシはしあわせ者じ・・・」


 すると突然、長老が胸を押さえて苦しみ始めた。


 「長老! 長老!」

 「だ、だいじょうぶ、じゃ。いつもの、ほ、発作じゃ」

 「長老、クスリを持ってくるね!」

 「も、もう薬は、ない、んじゃ・・・」

 「救急車! 救急車じゃ!」


 門倉は叫んだ。するとジュンが言った。

 

 「救急車なんか来てくれないよ、ここには」

 「えっ、何でじゃ?」

 「ホームレスを受け入れてくれる病院なんて、どこにもないからだよ」


 すると教授が言った。


 「ジュン! リヤカーに長老を乗せるんだ!

 マリア先生なら診てくれるはずだから!」

 「うん、わかった!」



 私たちは長老を毛布でくるんでリヤカーに乗せ、マリア先生という女医のところへ急いだ。


 「長老、しっかり!」

 「ああ、すまんのう、みんな。迷惑をかけて・・・」

 「何を言っているんですか! 私たちは家族じゃないですか? 遠慮など要りませんよ!」

 「そうだよ、長老、しっかりしてよ!」


 門倉はその時、妹のチカのことを想い出していた。

 まだチカは五才だった。

 家族はみんな畑へ出てしまい、いつも私と妹のチカだけが残された。


 「兄ちゃん、いつもありがとね」

 「柿でも食うか?」

 「ううん、いらない」


 妹のチカ小学校に上がる前に死んだ。

 村に医者はいなかったし、幼い妹を診せるカネも家にはなかった。



     「カネさえあれば人は不幸にはならない」



 そして門倉はガムシャラに働き、守銭奴と罵られながらここまで生きて来た。

 

 門倉はリアカーを押しながら泣いた。

 カネがないばかりに、妹のチカは死んだのだと。

 そして今、この老人も死に瀕している。

 なんとしても助けなければ。門倉はそう思った。


 


 「着いたよ、長老!」


 そこは貧民窟の坂の途中にある、古い小さな診療所だった。

 『三島診療所』と書いてある。


 

 「先生! 先生! 長老が大変なんだ!」


 待合室には酷い匂いが充満していた。

 この街に住む、住人たちの匂いだった。


 ぐったりとした子供を抱き、心配そうに見つめるベトナム人らしき母親。足と手に包帯を巻いて、血が滲んでいる作業着姿の男。

 そのままベンチに横たわっている男など、まるで野戦病院のようだった。

 すぐにナースが飛んで出て来た。


 「どうしたの!」

 「心臓発作のようです。診てやって下さい!」

 「すぐに診察室に運んで頂戴! 先生! 急患です!」



 診察室もたくさんの病人や怪我人で溢れていた。

 そしてそこにいたのは化粧もせず、黒髪を後ろに束ね、白衣を着た美しい女医だった。


 「バイタル、体温、そして心電図の用意をして。大丈夫よ長老、まだ死なせやしないからねー」


 女医はそう、やさしく長老に話し掛けていた。

 ナースはてきぱきと作業を進めた。


 「教授、発作が起きたのはどのくらい前?」

 「30分くらい前だ」

 

 女医はペンライトで長老の瞳孔を確認した。

 注射と点滴が行われ、長老の様態は次第に安定していった。



 「マリア先生、ワシを助けてくれてありがとう。すまんが、ワシらには・・・」

 「いいのよ、元気になって出世したら払ってね?」

 「すまんのう、いつも・・・」

 「とにかく、今日はここで一泊していくといいわ、あそこよりはマシでしょう?」

 

 別な患者を診察しながら、女医は笑っていた。

 門倉はマリアに訊ねた。


 「このクリニックは無料なのか?」

 「あははは、タダじゃないわよ。でも、無い人からは貰えないでしょう?」

 「保険証すらないんじゃぞ?」

 「しょうがないでしょう? 無いんだから」

 

 そう言って笑うこの女医の笑顔は、まるで聖母マリアのように美しく清らかで、慈愛に満ちたものだった。


 門倉は決意した。

 この「柊坂のマリア」と呼ばれるこの女医に、自分の遺産を残すことを。


第5話 初めての家族

 長老も回復し、またブルーシートの小屋での生活に戻った。

 門倉は遂にみんなに自分の素性を打ち明けることにした。

 長老の身体についても、なるべく早くここから出る必要があったからだ。



 「みんなに聞いて欲しいことがあるんじゃ。

 実はワシは門倉ホールディングの会長、門倉良蔵なんじゃ。

 みんなを騙すつもりはなかった、許してくれ。この通りじゃ。

 ワシはもう歳じゃ、カネばかりを追いかけて酷いことも沢山して来た。

 家族もなく、ワシは天涯孤独なのじゃ。

 最後に何か人の役に立つことがしたいと思い、ここにやって来た。

 これからより寒くなって来ると、ここでの生活も辛かろう。

 どうじゃな? ここを引っ越しては?

 小さな家じゃが、みんなで暮らせる家を用意してある。

 みんなで自由に使ってくれんか?」


 長老はトウモロコシ茶を啜りながら、穏やかに話し始めた。


 「最初、門倉さんを見た時、よう似ておる人じゃと思っておりましたが、やはり門倉会長でしたか?

 前に何度か経団連の総会でお見掛けしておりましたが、こんなところでお会いするとはお恥ずかしい。

 これも何かのご縁ですなあ」

 「そうじゃったですか? 長老とは面識があったということじゃな?

 ご無礼して申し訳ない、ワシはあまり人とは会わないようにしておるのでな。

 長老、みんな、どうかワシの罪滅ぼしにつき合って下され。この通りじゃ」


 門倉はみんなに向かって頭を下げた。


 「門倉さんて、そんなに偉い人だったんだね?」


 ジュンが言った。


 「ワシは偉くはないよ、ジュン。

 ただカネはあるがな。だからジュンにも色々と手伝って欲しいんじゃ」

 「いいよ、僕、何をすればいいの?」

 「それをこれからみんなで考えようではないか? この#柊坂__ひいらぎさか__#が良い街になるように、みんなが希望と生き甲斐を持てる街にな」

 「うん」


 だが教授だけはきっぱりと言った。


 「門倉コンツェルン? あの悪名高い、金の為ならなんでもするという門倉財閥。

 その守銭奴がアンタだったとは実に残念です。

 気の毒な年老いたプロレタリアートだとばかり思っていたが、労働者を搾取するブルジョアだったとは。

 私はそんな人間から施しを受けるほど落ちぶれてはいない!

 あんたのような資本家がこの日本を堕落させた張本人じゃないか!

 罪滅ぼしがしたい? 何を今さら寝ぼけたことを言っているんだ!

 寝言を言うなら寝てからにしていただきたい!

 私はそんな金持ちの道楽につき合うほど愚か者ではない!」

 「教授の言うとおりじゃ。金持ちの道楽と言われれば返す言葉もない。

 政治家も官僚も、みんなワシにすり寄って来る。国民のことなどこれっぽっちも考えておらん連中じゃ。

 考えておるのは、いかに自分の権力を強くし、カネを増やすかだけじゃ。

 日本について何の展望も持ってはおらん。

 アイツらからすればゲームなんじゃよ、すべてが。

 そんな奴らに餌を与え、そいつらを利用して会社を成長させて来たのも事実じゃ。

 自分の人生の終わりが近づいて、ワシはその罪を贖う為に、何かワシに出来ることはないかと考えたんじゃ。

 ワシはもう死にゆく身じゃ。教授、あんたは高潔な精神と素晴らしい頭脳を持っておられる。

 ワシのブレインになってくれだされ。そしてこの日本を少しでも良い国にすることが出来るように。頼む教授

、ワシに力を貸してくれんか? ワシの為にではなく、この柊坂に住む、貧しい弱い人たちのために協力して欲しいんじゃ」


 長老がワシを援護してくれた。


 「なあ教授、ワシからも頼む。

 あんたならいいアイデアを出してくれるはずじゃ。

 教授の気持ちもわかるが、ワシも銀行屋として不本意なことも沢山して来た。この世の価値はカネで決まるからのう。みんな、カネがすべてだと思うておる。そしてそう仕向けられておるんじゃ。

 ワシもここでアンタらと暮らして、幸福とはカネだけではないことを教えてもらった。

 たとえ慎ましやかでも「衣食足りて礼節を知る」ことじゃとな?

 ワシらは生きているのではなく、生かされておるということをじゃ。

 生き甲斐を持って感謝して生きる、そんな生き方が最高の生き方じゃとな?

 だからこそ門倉会長の気持ちがわかるんじゃ。どうか協力してあげてくれ、頼む」

 「長老、頭を上げて下さい」

 「教授、教授がいないと僕の料理に合わせるワインはどうすればいいの? 教授は僕らのソムリエさんでしょう?」

 「ジュン・・・。

 ではアンタの決意がいかほどの物か、それを確かめさせていただきたい。

 話はそれからです」

 「ありがとう教授、よろしくお願いします」




 翌日、私たちは河川敷の小屋を引き払い、近くの古い中古住宅に引っ越すことになった。

 とりわけジュンは大喜びじゃった。


 「うわー、お風呂だよお風呂! トイレにウオシュレットがついている!

 いいなあ、これから毎日お風呂に入れるなんて!

 それにキッチンにもちゃんとガスコンロも2口もついているよ!

 冷蔵庫に電子レンジ、洗濯機まで付いている! ここは天国だね!

 ありがとう、門倉さん!」


 ジュンは水道の蛇口を捻ったり、ガスコンロを点けたり消したりしてはしゃいでいた。


 「凄い凄い、お水も出るし火も使える!」


 この古い家が天国だと言うジュンに、門倉は胸が熱くなった。

 今まで不自由な暮らしを経験して来たからこそ、そのありがたみがわかるというものだった。


 「ワシがこの街に来て驚いたのは、こんなにも大勢の人たちが貧困の中で喘ぎ、希望を失っているという現実じゃった。

 そして同時に聖母のようなマリア先生や早苗さんのように、それを必死に支えようと奮闘している人たちもおるということじゃった。

 彼女は正に「柊坂の聖母マリア」じゃな?

 一生懸命に弱い人たちのことを救おうとしておるあの姿に、ワシは感動した。

 そこでまず、あの診療所の役に立ちたいと思うんじゃが、どうじゃろう?」

 「マリア先生は本当に聖母のようなお人じゃ。

 あの通り、限界を遥に越えた医療を続けておる。

 看護師の早苗ちゃんも同じじゃ。

 コンビニのバイトよりも少ない給料で、文句も言わずに働いておる。

 ふたりとも恋愛もせずに、毎日毎日、ワシらのような人間を救ってくれておるのじゃ。

 そこら辺りの街の悪徳開業医ではない」

 「マリア先生の立場で考える必要があると思います。彼女たちが今、何を望んでいるのか? それはひとりでも多くの弱い人たちを救いたいということだと思います。

 そのためには診療所の医療設備、器具、薬剤の充実と医療スタッフの増員が必要です」

 「わかった。では早速明日、マリアさんに何が必要で、今何が欲いかを聞くとしよう」



 その夜、私たちは久しぶりにあたたかい、ふんわりとした布団で寝た。


 「あったかくてふわふわで、こうして寝られるなんて、夢みたいだね?」

 「ホントじゃな? ありがとう門倉会長」

 「ありがとう、門倉さん」


 そして門倉に背を向けて寝ている教授もポツリと呟いた。


 「ありがとう・・・、ございます」


 門倉はうれしかった。

 これが家族というものなのかと。


 その夜、門倉は何十年ぶりかに嗚咽した。


 「みんな、ありがとう・・・」


第6話 山谷ブルース

 診療所に向かって門倉たちが歩いていると、路地には生きる希望を失くし、腐った魚のような目をした老人や、タバコをふかし、ギラギラとした獣のような目で門倉たちを見ている、ジャージや作業服姿の男たち、そして街娼が立っていた。


 「アンタらさあ、1,000円くれない?」

 「そのうちな」

 「シケた爺さんだね?」

 「これからこの街は変わるんじゃ。それまでの辛抱じゃよ」

 「なーんだ、ただのボケジジイか?」


 彼らの願いは腹いっぱい食べて、酒を飲んで、ただ性欲を満たすことだった。

 捨てられた犬や猫のように、本能のまま生きる動物のように生きていた。

 老人と不法滞在の外国人、そして女子供たち。

 毎日のように起きる事故や事件、そして犯罪。

 仕事もなく、そして働く気力もない男たちと、生きるために体を売るしかない女たち。

 子供たちは学校へも行けず、痩せこけて暗い目をしていた。


 忘れ去られた日本の闇がここ、柊坂だった。

 戦後の日本を支え、高度経済成長の礎を作った人たちが、用無しの残骸となってそのまま放置されていた。

 柊坂は岡林信康の『山谷ブルース』のような街だった。


 

        今日の仕事はつらかった

        あとは焼酎をあおるだけ

        どうせ どうせ山谷のドヤすまい

        ほかにやる事ありゃしねえ


 


 「マリア先生、早苗さーん!」


 早苗が応対に出て来た。


 「どうしたのジュン君? みんなお揃いで? 長老、また具合でも悪いの?」

 「ワシは大丈夫じゃ。お陰でだいぶ良くなった。

 今日は早苗ちゃんとマリア先生に大切な話があって来たんじゃ」

 「そう? じゃあちょっと待っててね? マリア先生に訊いて来るから」


 

 早苗が診察室から戻って来た。

 

 「少しならいいですよって。どうぞ中に入って」


 マリアは診察を終え、一息ついたところだった。


 「何なの? 大切な話って?」

 「忙しいところすまんのう。先日は長老を助けてくれてありがとう。

 ワシは門倉ホールディングの門倉良蔵じゃ。信じてもらえんかもしれんが、本当なんじゃ。

 ワシは見ての通りの老いぼれで、そう永くはあるまい。そこでじゃ、死ぬ前に自分の貯めたカネを世の中のために役立ててから死にたいと思ったんじゃ。こっそりとな?」


 マリアは門倉を真っすぐに見詰めた。


 「それでその会長さんが私に何の御用かしら?」

 「アンタらの役に立ちたい。つまり資金面でのサポートをさせて欲しいということじゃ。

 貧困はすべての諸悪の根源じゃからのう。

 「衣食足りて礼節を知る」じゃな?

 マリアさんと早苗さんは必死にそんな彼らを救っておる。

 ワシはそんなアンタたちに感動したんじゃ。

 ワシの妹は幼い時にカネがなくてな、医者にも診せることも出来ずに死んでしまった。

 僅かまだ5才じゃった。

 カネがないということはそういうことなんじゃと思った。 

 救える命も消えてゆくものじゃと。

 ワシはこの街が昔の山谷のように感じたんじゃ」

 「そうよ、ここはまるで野戦病院みたいでしょ? この街では盲腸でさえも死んでしまうの。

 行政は何もしてはくれないわ。見て見ぬふり。ここは捨てられた街だから。 

 でもね、ここにいる以上、放ってはおけないでしょう? そんな人たちを。

 目の前で苦しんでいる人がいるんですもの。 

 お金もない、仕事もない、体も辛い、苦しい。

 生甲斐がないのよ、この街の人たちには。

 みんなただ死ぬのを待っているだけ。そんな街よ、この柊坂は。

 だってそうでしょう? 生きているのが辛いんですもの。死んだ方がいいと思うのは当然よ。

 誰からも必要とされない現実が、ここにはある。

 ここは生き地獄なのよ」

 「まずは命を助け、痛みを取り除いてやること。医療の充実じゃ。

 そのためにはどうしたらいいか? それはアンタたちにしかわからん。

 それに必要な資金をワシに提供させてくれ。だが、それだけではこの街を本当に救うことは出来ん。

 場当たり的な対処療法ではなく、根本的な改革が必要じゃ。貧困をなくすためにのう」


 教授が続けた。


 「医療の充実と並行して食べること。無料の食堂を作ります。

 満足に食べることは生きる気力へと繋がります。もちろん健康にも。

 そして自立するための資金援助。でも、ただ融資をしても無駄でしょう。最初はギャンブル、酒、女、買物など

で消えてしまうかもしれません。

 ですから仕事を与えることと、人間らしく生きるための啓蒙活動が必要です。

 自分で稼いだお金で暮らす喜びを感じてもらうのです。

 ただ恵んでもらうのではなく、自分で働き、それをみんなで分かち合う喜び。

 幸福とは何かを伝え続ける喜びです。

 それを理解し、賛同してくれる人がひとり、そしてまたひとりと増えていくことこそが、この街を変えてくれると私たちは信じています。

 さらに重要なのは子供たちの「教育」です。

 学校に行かせてあげる。教師も「でもしか教師」ではなく、教育に信念のある教師たちを集めるのです。この柊坂に。全国、あるいは全世界から募集しようじゃありませんか! 我々の同志たちを! 

 一度には無理かもしれません。試行錯誤を繰り返して本当の地方自治をやってみようじゃありませんか!

 医療、介護、衣食住の援助、マイクロファイナンス、仕事の斡旋、教育。そして幸せな人生を生きるための啓蒙活動を行うことです。

 この柊坂を『希望の街』にしようではありませんか!

 私も最初、門倉会長からこの話を聞いた時は「今更ふざけるな!」と思いました。

 だってそうでしょう? こんな街を、国を創った張本人なんですから。門倉さんは。

 でも門倉さんはそうじゃなかった。

 自分のしてきたことを償いたいとおっしゃっる。

 そのお陰で私たちもあの河川敷の小屋から、門倉さんが用意してくれた家に今はこの4人で暮らしています。

 門倉さんは物欲も権力欲も無いお方です。

 そうでなければ我々と一緒にホームレスなど出来るわけがない。  

 門倉会長は我々のような社会から見放された者に手を差し伸べてくれたのです。

 そしてこの柊坂の人たちに、「生甲斐を取り戻して欲しい」と仰るのです。

 ですからマリア先生、早苗さんの協力が是非とも必要なんです。

 どうか力を貸して下さい」


 マリアはじっと床に目を落として教授のその話を聞いていた。そして、


 「なんだかとても大変なことになってきちゃったわね?

 この診療所を始めた両親も、同じことを言っていたわ。

 

  「この人たちに生甲斐を。生きる希望を持ってもらいたい」


 ってね? 私もそう思っていたわ。

 貧しい人に施すだけでは何の解決にもならないから。

 人はお金があっても生甲斐、人から必要とさる生きる希望がなければ生きてはいけないわ。

 幸せは他人から与えられるものではなく、自らが見つけることだから。

 私も早苗ちゃんも協力するわ、柊坂を「希望の街」にするために。

 ね? 早苗ちゃん」

 「もちろんですよ、マリア先生」

 「それでは決まりじゃな? 取り敢えずこれを。 

 これはあんたたちへの今までの努力への慰労金じゃ、受け取ってくれ」


 門倉は100万円をマリアと早苗にそれぞれ渡した。


 「こんなに!」

 「人を幸せにするには、まずは自分が幸せにならんとな?

 たまには自分を労うことも必要じゃよ。

 まだ若いんじゃからな? お洒落もしたいじゃろ?」

 「ありがとう、門倉会長。じゃあこのお金は遠慮なく、この診療所のために使わせていただきます」

 「私もそうさせて下さい。欲しい物がないので。うふっ」

 「心配せんでもいい。これをこの診療所のために遣って下され」


 門倉はマリアに1億円の小切手を渡した。


 「えっ、こんなにたくさん!」

 「足らん時はいつでも言って下され。まずはこの診療所からじゃ」


 門倉たちは大きく頷いた。



 後日、マリアと早苗は口紅を1本ずつ買い、久しぶりに美容室に行き、ユニクロで服を買った。


 いよいよ柊坂の幸福プロジェクトが動き出した。


第7話 お金の価値

 「はい、次の人どうぞ」

 「いくら貸してくれるんだ?」

 「何に使うんですか?」

 「色々だよ、125円しかなえんだ。もう3日も水しか飲んでねえ」


 教授は呆れた顔で言った。


 「では3万円ですね」

 「5万にしてくれよ、3万じゃ足りねえんだよ、頼むよ」

 「3万円が限度です」

 「どうしてもか?」

 「パチンコなら3万円で十分でしょう?」

 「パチンコなんかしねえよ」

 「別にいいんですよ、パチンコや競馬に使っても。

 この3万円をあなたがどう使おうと、あなたの自由です。

 このお金はあなたに移った瞬間に、あなたの所有になるのですから。

 お金は使われて初めて価値を生むのです。

 持っているだけではただの紙切れなんです。

 1万円の製造原価は25.5円だそうです。

 でも1万円には1万円の交換価値がある。

 パチンコで失えば3万円の価値はゼロ。

 ただし100円のパンなら300個買えます。

 お腹を空かせた300人の子供の飢えを救うことが出来るのです。

 お金はその使い途によって1万円が何倍にも変わることがあります。

 3万円をあなたが何に使おうが、あなたの自由です」

 「いいよ、じゃあ3万で。

 それからなんか仕事ねえかな? なんでもいいんだ」


 すると教授はその男に10万円を渡した。

 

 「これで面接用のスーツや靴などをお買いなさい。

 仕事はあそこで紹介してもらうといいです」


 教授は向かいの職業紹介所を指差した。

 男はすぐに借用書にサインをし、10万円を受け取ると、歓喜し、去っていった。



 ジュンが言った。 


 「教授、いいの? 10万円も渡して? どうせまたパチンコに行くよ、あの人」

 「そうかもしれない。でもいいんだよ、それで。あの人があの10万円の価値について学ぶことが出来れば。

 やがてそんな自分のお金の使い方が虚しく思えたら、それがスタートなんだよ。人生をやり直すスタートがね?」

 「じゃあどうして10万円も貸してあげたのさ?

 3万円でいいと言っていたのに?」

 「人間は同じ間違いを繰り返すものだ。

 おそらくあの人はパチンコをしてカネを失う。

 そしてその時考えるはずだ。

 「ああ、パチンコなんかしなきゃ良かった」と。

 そしてまたここへやって来るだろう。

 そしてまた同じことを繰り返すのさ。

 でもそのうち気付くはずだ。嘘を吐いてカネをせしめている情けない自分に。

 そこからだよ、あの男が変われるかどうかは?

 あの人が「仕事がしたい」と言った時、感じたんだ。 

 彼は現状から抜け出したいんだと。働いてお金を稼ぎたいんだと。

 だから私は10万円を貸したんだよ。

 ジュン、これは#根競__こんくら__#べなんだ。

 裏切られても、裏切られても、信じてあげるしかないんだ。

 水に字を書くのと同じようにね?

 書きながら消えてゆく。それでも書き続けるんだ。

 所詮、人は人を変えることは出来ない。自分が変わるしかないんだよ。

 つまりそれは私たちがあの人を見る目を変えることなんだよ。

 出来ることといえば、あの人のしあわせを願うことなんだ」

 「あの人、変われるといいね?」

 「そうだね? では次の人を呼んで来てくれるかな?」

 「うん、わかった」


 ジュンは明るい表情で次の借入希望者を招き入れた。


 

 門倉はマイクロファイナンスを始めていた。

 10万円までの少額融資である。

 貸金業や贈与等の問題もあるので、利息は5%以下の一律3%として融資をしていた。

 噂が噂を呼び、大勢の人間が押し寄せていた。

 近くには職業紹介所も併設した。

 こちらにも徐々に人が集まり始めていた。


 

 不思議なことに働き口が見つかり出すと、次第にカネを借りに来る人間は減り始め、返済に来てくれる人も増えていった。


 門倉は思った。すべてはここからだと。


第8話 貧困の現実

 診療所はリフォームをして明るくなり、待合室も広くなってエアコンも設置することが出来た。

 大学病院で小児科医をしていた#反町敬之__そりまちたかゆき__#と、ナースの小田真由美も仲間に加わり、CTも導入することが出来た。



 「仲間も増え、設備も充実しましたが、患者さんは相変わらず多いですな?」

 「教授、総合病院を造りたいわね? 手術も入院も出来る、総合病院を造りたい。

 そうすればもっと多くの人を救うことが出来るから」


 マリアは瞳をキラキラさせて言った。


 「そうですね? では次は『柊坂メディカルセンター建設プロジェクト』ですな?」



 そこへ5才くらいの男の子が、泣きながら裸足で診療所に駆け込んで来た。

 

 「ママが、ママが・・・、お腹が痛いって・・・」

 「ボク、ママはどこにいるの?」

 「おウチ・・・、ママを助けて!」


 教授とマリアは男の子をクルマに乗せ、自宅を案内させた。




 そこは古い木造のアパートで、母親が蹲っていた。


 「大丈夫ですか!」

 「お腹が、お腹が痛くて・・・」


 マリアが触診をした。


 「ここですか? ここは痛みます?」

 「痛いっ、痛いっ・・・」

 「とにかく診療所へ運びましょう!」

 「わかりました」

 「この子のこと・・・、お願いしま・・・す。

 私、保険証も・・・ない・・・んです・・・」

 「そんなことは心配しなくてもいいのよ。とにかくすぐに診てあげるから。

 しっかりするのよ、あなたはこの子のお母さんなんだから!」



 

 診療所で検査をすると、その母親は虫垂炎を起こしていた。あと少しで腹膜炎を起こすところだった。


 

 「ここでは手術は出来ないから、隣街の区立病院で手術をしてもらいましょう。

 大丈夫、私たちがついているから。

 お金のことは心配しなくてもいいから安心してね?」

 「でも研斗が・・・」

 「大丈夫ですよ、入院している間は我々が面倒をみますから」

 「すみません・・・」

 「研斗君って言うんだね?

 偉いぞ、君はママを助けたヒーローだ」


 その子は垢まみれで痩せていた。何日も入浴していないらしく、髪の毛からも悪臭を放っていた。

 もう10月だというのに汚れたトレーナーと半ズボン姿だった。

 靴下も履いていない。

 母親はずっと泣いていた。


 「研斗君、おじさんとご飯を食べに行こうか?

 そしてまたママについていてあげるといい」

 「良かったわね? 研斗君」


 真由美はやさしく微笑んで、研斗の頭を撫でた。

 



 

 教授は研斗を行きつけの『だるま食堂』へ連れて行った。

 教授はラーメンを、そして研斗にはオムライスを注文してやった。


 「さあ、食べようか? いただきます」

 

 研斗は何日も食べていないらしく、待ちきれず、すぐにオムライスを食べようとした。


 「研斗君。まずは食べ物に感謝してからだよ。

 手を合わせて「いただきます」を言いなさい」

 「いただきます」

 「はい、じゃあ食べようね?」

 

 研斗はオムライスを息もつかずに食べていた。


 「ゆっくりと食べるんだよ。よく噛んでね?」

 

 研斗は殆どの乳歯が黒く虫歯だらけになっていた。


 「女将さーん、子供用の器、ありますか?」

 「あるよ、待ってな」


 教授は小さなお椀を受け取ると、そこに自分のラーメンとスープを分けて、研斗の前に置いた。

 

 「これも美味しいよ、食べてごらん」


 研斗は頷き、美味しそうにラーメンを食べた。

 これが柊坂の現実だった。




 教授は帰りに研斗の下着や服、靴などを買い、銭湯に連れて行った。

 服を脱がせていると、教授の手が止まった。

 そこにはタバコの火を押し付けられた跡や、たくさんの傷やアザがあったからだ。


 (幼児虐待?)


 あの母親がこんな酷いことをするとは思えない。となると母親の男の仕業なのか?


 「ほら、体を洗ってあげよう。バンザイしてごらん」


 教授はアカスリを使い、丹念に研斗の小さな体を洗ってやった。

 頭にもいくつかの瘡蓋が出来ていた。

 教授は研斗が痛がらないよう、慎重に洗った。



      ここは本当に日本なのか?



 教授は涙が止まらなかった。

 学生時代にバックパッカーとして訪れた、東南アジアやアフリカの子供たちを想い出していた。

 あの暗い目をして物乞いに集まって来きた、あの子供たちのことを。

 教授は研斗の体を洗いながら嗚咽した。


 「こんなの間違っている・・・。みんな平等であるべきじゃないか? ここは日本だぞ・・・」


 この子たちの将来を、絶対に潰してはならないと教授は決意を新たにした。





 教授は母親が入院している病院へ、研斗を連れて行った。


 「ママ、大丈夫?」


 母親は研斗を優しく抱き締めた。

 見違えるようになった我が子を見て、母親は教授に礼を言った。


 「ありがとうございます。私たち、夫に虐待されて、ふたりで柊坂に逃げて来たんです」

 「そうでしたか? 人間はどんなに辛い過去があっても、それに縛られてはいけません。

 忘れることです。そして今日からがんばればいい。

 今日までのことは、しあわせになるためのリハーサルだったのです。私たちも応援しますから、研斗君を一緒に立派な大人に育てましょう!」

 

 母親は何度も頷き、泣いた。


 (どうしたら、この親子を救えることが出来るだろう?)


 教授は病室でそればかりを考えていた。


第9話 『柊坂メディカルセンター建設計画』始動

 毎週日曜日、門倉たちは「だるま食堂」に集結した。

 それは会議という形式ばった物ではなく、ブレーンストーミングのような物で、飲食をしながらのフリートークだった。


 みんなで宴会をしている光景をビデオカメラで撮影し、それを各自のスマホで共有して各々の分担を実行するという物だった。


 議事録を作成しても書くだけでは意味がない。

 この会には「後で検討」がなかった。

 すべては即断即決即実行で行われていた。



 長老は門倉に熱燗を注ぎながら言った。


 「教授、先日のあの森山親子はどうなったんじゃ?」

 「はい。母親の咲子さんもようやく退院して、職業斡旋の仕事を手伝ってもらっています」

 「それは良かった。研斗は?」

 「保育園に通い始めました」

 「そうかそうか、良い友だちが出来るといいのう。

 あの保育園にはいい保育士がたくさんおるから安心じゃ。

 だが、そのDV夫の方はどうじゃ? 大丈夫なのか?」

 

 教授は芋焼酎を飲みながら言った。


 「やはり森山さんたちを探してアパートにやって来ましたが、門倉会長のところの黒田さんが張り込んでいてくれたおかげで、二度と来ないそうです。

 念書も書かせたそうですから」

 「ほほう。黒田の#丁寧な__・__#応対なら大丈夫じゃろうて。

 普通なら睨まれただけで終わりじゃからのう? ふぉふぉふぉ」

 

 ドッとみんなが笑った。



 「だるま食堂」はいわゆる「子供食堂」でもあった。



       ある時払いの催促無し



 メニューは書いてあるが金額は「お気持ち」としか書かれていない。

 ただし、アルコールは日本酒、焼酎は5合まで。

 ビールはジョッキ3杯、瓶なら2本までだった。


 ケンカやセクハラがあった場合は1週間の出入禁止となる。

 この街にはアルコール依存者も多くいたからだ。


 1週間の出入禁止とは、それ以上になると食料の調達も難しくなるからだった。

 その間は公園の炊き出しで、飢えを凌いで我慢すればいいと門倉たちは考えていた。

 隣には交番もあり、警官もよくここで食事をしていたから、トラブルも比較的少なかった。


 事情がある者は払わなくてもいいが、その運営主旨に賛同する者や、余裕のある者は募金箱にそれぞれ現金を入れるシステムで、不足分は門倉が支援していた。


 最初は無銭飲食が多かったが、次第に募金箱に現金を入れる客が増えていった。

 地元商店街の人たちも、よく食料を寄付してくれた。

 食堂はいつもいっぱいで、人々の笑顔も多くなっていた。


 

 「これはドイツの諺じゃが、


   ただ魚を与えるのではなく 魚の獲り方を教えよ


 というものがあるそうじゃ。

 ワシらはそれを教える義務がある。

 自分で稼いだカネで飲む酒はウマいからのう」

 「自分のお給料で生活することの喜びってありますよね?」

 

 早苗が言った。そして真由美も、


 「人に頼るのではなく、人の支えになるのってうれしいですよね?」

 「そうよ、それが何よりの生甲斐ですもの」

 

 マリアもアジフライを食べながら言った。


 「そこで私から提案があります。マリア先生とも相談していたんですが、『柊坂メディカルセンター』を造れないものかと?

 ご存じの通り、診療所では大掛かりな手術も入院も出来ません。

 たくさんの診療科目のある総合病院がここには不可欠です。

 今回の森山さんのように、隣街の区立病院まで行く必要があり、それに区立病院でさえ、あまりいい顔をされていないのも事実です。

 現に森山さんの保証人はマリア先生がなって下さいました。

 いかがでしょう? 門倉会長、メディカルセンター建設計画というのは?」

 「とりあえず予算50億で企画書を作成してくれんか?

 これは教授とマリアで頼む」

 「わかりました」

 「やってみます。ありがとうございます、門倉会長」

 「では医師会と役所の方は長老にお願いするとしよう。

 銀行時代の貸しがあるはずじゃからのう」

 「そちらの方は早速明日、交渉するとしよう。

 すまんがジュン、ワシに付き合ってくれんか?」

 「いいよ、任せて!」


 こうして柊坂の総合病院プロジェクトが動き出した。




 翌朝、長老とジュンは議員会館に丸山国会議員を訪ねた。


 「丸山先生、忙しいところ、すみません」

 「いやいや、久しぶりですなあ、緒方頭取。

 行方不明という噂でしたが何よりです。

 それでご用件とは?」

 「縁あって、総合病院の創設に関わることになりましてな?

 そこで是非、丸山先生に役所と医師会の方に話をつけて欲しいと伺いました」

 「どこにお建てになるおつもりですか?」

 「柊坂です」


 すると丸山議員は露骨に眉間に皺を寄せた。


 「頭取、あなたにはとてもお世話になりました。

 それは#吝__やぶさ__#かではないが、柊坂に病院を建てても経営が成り立つとは思えませんなあ。

 だが頭取がおやりになるわけだから、カネをドブに捨てるようなことはしない筈。

 その根拠をお聞かせいただけませんか?」

 「今、我々の仲間が柊坂を再生させようと奮闘しております。

 そのプロジェクトの一環として『柊坂メディカルセンター』の建設が、どうしても必要なのです。

 資金の目途はついております。何卒、先生のお力をお借りしたいのです。

 これはマスコミにも大々的に発表しますので、その時には丸山先生にも是非ご登壇願えればと考えております。

 いかがですかな?」


 丸山は計算高い政治家だ、すぐにそれを自分への献金と票田に換算し、ニヤリと笑った。


 「わかりました。資金の方は用意が出来ているというわけですな?

 であればそれ以上は訊きますまい。

 役所と医師会の方には私から話しを通しておきます。

 いずれまた、緒方さんにもお世話になることもあるでしょうからな? わっはっはっはっ」

 「心得ております。ではよろしくお願いいたします」




 議員会館を出ると、長老とジュンは立ち食い蕎麦屋に入いり、きつね蕎麦を食べた。


 「長老、なんで議員さんのところに行ったの?」

 「根回しじゃよ、根回し。どこから横槍が入るかもしれんからのう。

 役所も医師会も政治家には弱いもんじゃ」

 「そうなんだ。でもあの人、僕はあんまり好きじゃないな」

 「ワシも嫌いじゃよ、あんな奴」

  

 ジュンは味のよく沁みた油揚げを一口齧ると、蕎麦を手繰った。


 「ジュン、男というものはな? 愛する者のためならどんなイヤな奴にでも頭を下げねばならん時もあるものじゃ」

 「僕もそれはわかるよ。でも長老が頭を下げるのを見るのは辛かったよ。

 長老は僕の大切な家族だから」

 「ありがとう、ジュン。

 あの男は政治家ではない、ただの政治屋じゃ。

 ワシらの目的は病院を建てることじゃが、あ奴らはカネのニオイに寄って来るダニじゃ。

 そしてマスコミに出たがるからのう。

 自分に都合のいい時だけだがな? あはははは。

 悪いことをして掴んだカネなど、いずれ自分の身を滅ぼすことも知らずにのう」

 「そうじゃない世の中になるといいね?」

 「本当じゃな? ジュン。ワシらがそのきっかけを作るんじゃ」


 長老はジュンに自分の油揚げを乗せてやった。


 「いいの? 長老」

 「好きじゃろう? ここのきつね蕎麦のお揚げ?」

 「うん、長老ありがとう」


 ふたりは音を立てて蕎麦を啜った。


 それはまるで仲の良い、孫と爺さんのように。


第10話 クーデター

 会計士の沢村が社長室にやって来た。


 「どうやら門倉会長は柊坂の貧民窟にいるようです」

 「柊坂?」

 「あの、昔の山谷のようなところです」

 「そこで何をしているのだ?」

 「何やらボランティアの真似事をしているようです。

 浮浪者の連中にカネを貸したり、仕事を紹介しているようです」

 「偽善者の考えそうなことだな? だがあの守銭奴の門倉会長のやることではない。

 今更何をしても地獄行きからは逃れられんものを。

 愚かなことだ」

 「それだけではないようです。議員の丸山が柊坂に総合病院を建設しようと企んでいるようなんです」

 「あの間抜けの二世議員の丸山がか?

 あの権力大好き、カネが大好き、そして女が大好きのアイツが柊坂に?

 そんなところで慈善事業などをする政治屋ではないぞ。何かあるな?」

 「おそらく門倉会長と関りがあるのでは?」

 「丸山をここへ呼べ」

 「かしこまりました」


 会計士の沢村はその場ですぐに丸山議員に電話を掛けた。


 「もしもし、ご無沙汰しております。会計士の沢村です。

 門倉ホールディングの大門社長がお話があるということです。

 本社に今から来れますか? 今すぐに、ハイ、そうです。ハイ。

 お忙しいところ、畏れ入ります」

 

 門倉ホールディングは丸山に多額の闇献金をしていた。1時間後、すぐに丸山が社長室にやって来た。



 「どうしました? 大門社長?」

 「それは俺が聞きたいよ、丸山先生。

 柊坂に病院を建てるそうじゃないか?

 いったい誰の差し金だ? 誰からいくらもらった?」

 

 すると丸山は政治家らしく、何食わぬ顔で平然と言った。


 「柊坂は見捨てられた街です。その疲弊した地域医療を支えるのは、我々政治家の役目です」

 「ほう、政治家というハイエナが? いつからお前はお笑い芸人になった? すべりまくりだぞ、丸山。

 門倉会長の頼みなら断れ。いいな?」

 「別にいいじゃないですか? 病院のひとつやふたつ。

 大門さんだって門倉さんとは二人三脚でここまでやって来たんですから」

 「だからだ。だからこそ勝手な真似はさせん」

 「でも今さら・・・」

 「出来ないというならそれでいい。お前との関係もこれまでだ」

 「それはないじゃないですかあ。少しは私にも甘い蜜を吸わせて下さいよー」

 「どっちの蜜が甘いか? よく考えろ」

 「わかりましたよ。次期会長には逆らえませんからね? 大門会長」


 丸山が社長室を出て行くと、大門は緊急役員会の招集を命じた。

 すでにシナリオは出来ていたのだ。





 長老とジュンが憔悴したように門倉たちのところへやって来た。


 「門倉会長、病院の許認可が降りんのじゃ」

 「やはりのう?」

 「どうしたらよいもんかのう?」

 「大丈夫じゃ、長老。

 そのうち向こうからお呼びが掛かるはずじゃ」


 その時、門倉の携帯が鳴った。

 門倉の秘書の川崎からだった。

 

 「会長、大門社長より臨時役員会の招集がございました。

 明日の水曜日、10時、本社役員会議室においで下さい。

 何か嫌な予感がしますが・・・」

 「わかった。およその議題は察しがつくよ」


 門倉は携帯を切るとみんなに言った。

 

 「お誘いの電話じゃった。

 これで柊坂に専念出来るわい。わっはっはっはっ」


 長老たちは門倉の態度に首を傾げた。





 門倉会長の解任動議が6対4で可決された。

 だが門倉はそれに激高することもなく、静かに会長席を立ちあがると、大門にその席を譲った。


 「どうじゃな? 会長の椅子の座り心地は?」

 「座り心地は私の椅子より悪いですね?」

 「椅子など、座れればそれでいいもんじゃよ。

 後は頼んだぞ、大門」

 「クーデターを起こしてすみませんでした。どうかお察し下さい」


 門倉は首を横に振った。


 「構わんよ。遅かれ早かれ、この会社はお前に譲るつもりじゃったからな?

 ただ、最後にひとつ、頼みがある」

 「何でしょう?」

 「柊坂の件を妨害するのだけは止めてくれ。後はお前の好きにしていいから」

 「わかりました」

 「体には気をつけてな」

 「門倉さんも」

 「ああ、ありがとう」


 門倉は右手を挙げて、そのまま会議室を出て行った。

 張りつめた緊張から解放された役員たちは、各々落胆と安堵のため息を吐いた。

 大門はすぐに秘書課長を呼び、命じた。


 「この会長の椅子を今すぐ交換しろ!

 新しい王の私に相応しい、品位のある格式高い椅子にだ!」 

 

 大門はその椅子を蹴り飛ばした。


第11話 季節外れの春

 「早苗ちゃん! ご飯出来たからマリア先生たちを呼んで来てー」

 「はーい、お腹空いちゃった! 今日は何?」

 「今日は海老チャーハンとワンタンにしたんだ」

 「やったー! 私の大好物じゃないの!」

 「それは良かった。じゃあ早く食べようよ」

 「うん。マリアせんせーい、反町せんせーい。真由美ちゃんもご飯ですってー。

 今日は海老チャーハンとワンタンだそうですよー」

 

 

 みんながミーティングルームに集まって来た。


 「みんな揃ったわね? それではみなさん、いただきまーす!

 ジュン君、いつも美味しいご飯をありがとう! ご苦労様」

 「お替わりもありますからねー、たくさん食べて下さいよ」

 「旨いよジュン! お前は料理の天才だ。よっ、料理の鉄人!」


 反町医師はおいしそうにチャーハンを頬張った。

 真由美もその美味しさに感動していた。


 「ジュン君はあの高級料亭『草月』の花板さんだったのよね?

 それが毎日食べられるなんてサイコーよ!」

 「仕事が繊細なのよ。海老もちゃんとメレンゲしてあるし」

 「メレンゲにすることで海老のぷりぷり感も増して味も馴染むんですよ」

 「またこのピーマンの香りと色合いが食欲をそそるよなあ」

 「ありがとうございます」

 「ワンタンも皮から作るんでしょう? 市販の物ではこんなに薄く滑らかじゃないもの」

 

 マリアも感心していた。


 「ワンタンはのど越しが大事ですからね?」

 「雲を呑むって書くもんな?」


 野戦病院のように過酷な医療現場で奮闘している彼らは、このジュンの作るランチが唯一の楽しみだった。

 そして食べ終わるとすぐに現場に戻って行った。




 今日は早苗が洗い物を手伝ってくれた。


 「いいよ、早苗ちゃん。忙しいんだろう? 僕がやるから大丈夫だよ」

 「ちょっとだけだから。

 いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとうね、ジュン。

 ジュンのお嫁さんはいいなあ、いつもこんなに美味しいお料理が食べられて」

 

 洗い物をしているふたりの手が触れた。



 「ゴメン」

 「何で謝るの?」

 「早苗ちゃんに触っちゃったから」


 早苗は大笑いした。


 「今どきいるんだね? ジュンみたいな男の子?」

 「ねえ、早苗ちゃん。今度の休みに映画に行かないか?」

 「何の映画?」

 「早苗ちゃんの観たいやつでいいよ」

 「じゃあ、ホラー映画がいいなあ。ゾンビとかがたくさん出て来るやつ」

 「どうしてホラーなの?」

 「だって、「キャー」とか言ってジュンに抱き着けるじゃない?」


 ジュンは赤くなった。


 どうやら柊坂にも季節外れの春が訪れたようだった。


第12話 魔王 現る

 その小柄な老人は、黄金のような朝日を背にして広大な庭園の池に立って2回、柏手を打った。

 集まって来る宝石のような煌めく錦鯉たち。

 この池は錦鯉のために造られたもので、水深は2m以上もあり、テニスコートぐらいの広さがあった。

 池の奥には3mの落差の滝水が落ちていた。

 1匹数百万円から1,000万円以上はするその錦鯉たちは、普通の公園に飼われているものとは異質なものだった。

 錦鯉たちは老人から餌をもらい、水面を荒げていた。


 その光景を目を細め、老人は満足げに微笑んでいた。

 ##来島玄洋__くるしまげんよう__#__ルビ__#、85才。


 歴史の教科書には登場しない、明治維新を陰で主導した長州藩の末裔だった。

 与党である民自党総裁、つまり総理を決めるのもこの小さな老人、玄洋だった。

 日本を操る魔王。それが来島玄洋だった。


 そこへ50才くらいのダークスーツの男がやって来た。


 「#帝__みかど__#。ただいま戻りました」

 「それで?」

 「やはり帝のおっしゃられた通り、門倉良蔵の仕業のようです。

 特に目立った様子はありませんでしたが、三島診療所という小規模の医療施設でボランティアのようなことをしているようです。

 特に大それたことを企てているようではありあせんでした」

 「山岡、フランス革命はどうして起きたと思う?」

 

 山岡は黙っていた。


 「それはルイ16世がお人好しだったからじゃよ。

 どうせ大したことではないだろう、話せばわかるはずだと、ルイは民衆を侮っていた。 

 あんなに善良な民衆が、私に銃など向けるはずなどないとな?

 奴らをなめてはいかん。

 スプーン1杯の水も、集まれば大きなうねりとなって押し寄せて来る。それに何もかもが飲み込まれてしまうのじゃ。

 大きな波になってからでは遅い。

 火事は初期消火が大切じゃからのう。その小さな火種を徹底的に潰すのじゃ。よいな?」

 「かしこまりました」

 「阿倍野総理にはワシから言っておく、いつものように始末しろ」

 「おまかせ下さい」

 「世の中は支配する者とされる者しかおらん。

 上級国民とその他大勢じゃ。

 その他大勢に考える力を与えてはならん。

 その点、白人は賢い。やれ自由だ平和だ、平等だとディズニーにハリウッド映画、野球だスポーツだと、どんどん日本人が喜びそうな物を与え、この国の国民に気付かれんように統治しておる。

 真面目で道徳心があり、何よりも「恥」という思想に縛られておるからな? 日本人は。

 日本人はイワシの群れと同じなんじゃよ。

 常に他人を意識し、それと同じかそれ以上になりたいと願う。

 これほど扱い易い国民はおらん。

 まさによく尻尾を振る犬じゃ。

 白人たちは我が国を植民地とし、マスコミ、政治家を手懐け、ヒロシマ・ナガサキはやむを得なかったのだ、戦争を起こした自分たちの先祖が間違っていたんだと思わせてしまう。

 洗脳じゃよ、洗脳。

 アメリカの戦後処理政策は大成功じゃったワケじゃ。

 日本は手足をもがれ、永遠にアメリカのエサになるのじゃからのう。

 滑稽な話よのう、山岡。

 そして原爆はナガサキの方がヒロシマ型よりも強力だったが、その地形的な状況からヒロシマよりも被害は限定的じゃった。

 下劣な政府やマスコミは、ナガサキの原爆に国民の目がいかないようにしておる。

 長崎は日本のキリスト教の聖地じゃからのう。

 愛の宗教、キリスト教が原爆を投下してホロコーストを行ったとなっては不都合なのじゃよ。

 教会も多いから写真や映像に十字架が映りやすい。

 それを見た世界中のクリスチャンはどう思うかな?

 そもそもなぜ原爆をドイツに投下しなかった? 自分たちの同胞、ユダヤ人を600万人以上も殺戮したドイツに?

 同じ白人だったからじゃよ、ドイツ人は。

 だが日本人はイエローモンキーじゃ。動物と同じ扱いなんじゃよ、黒人と同じじゃ。

 黒人だから奴隷にした。歯向かっても無駄なんじゃよ、白人には。

 白人と仲良くやる。もちつもたれつなんじゃ。

 そうすれは我々上級国民にはこの国が永遠に天国なんじゃからのう。

 憲法改正? そんなものせんでもいい。

 ワシらはアメリカと心中すればそれでいいんじゃ。

 どの道、この日本は終わりなんじゃから。ふぉっふぉっふぉっ」

 「おっしゃるとおりです、帝」

 「よろしくな。いつものとおり、手加減は無用じゃ、山岡。

 女子供とて容赦はするな」

 「心得ております」

 「根絶やしにするのじゃ。信長公が比叡山延暦寺の女、子供も皆殺しにしたように。

 門倉良蔵。たった一代で門倉財閥を築いた男じゃ。

 門倉は天から選ばれし民なのじゃ。

 放っておくわけにはいかん。

 失う物がない者ほど、恐ろしい者はおらんからのう」


 玄洋は再び錦鯉に餌を与え始めた。





 そんなことが囁かれているとは知らず、完成模型を前にマリアたちは盛り上がっていた。

 

 「ついに始まるのね?『柊坂メディカルセンター』の建設が」

 「大きいわねー、こんな立派な病院が柊坂に出来るのね?」

 「そうじゃ、この病院が柊坂のシンボルになるのじゃ。

 誰もが診てもらえる自由で平等な理想の医療施設がな?」

 「その運営をみんなの善意で賄うなんて、すごいなあ」

 「みんなが健康で文化的な生活をする権利、そっじゃな? 教授?」

 「その通りです。人間は平等でなければならないのです。

 生きる条件はみな平等であるべきなのです」

 「作りましょうよ、そんな理想の柊坂を」


 みんな明日への希望に満ちていた。

 門倉と長老を除いては。


 「門倉会長」

 「ワシも緒方さんと同じことを考えておった。イヤな予感がするのう」

 「好事魔多し、ですからな? あまりにも上手くいきすぎておる」

 「ワシらはイヤというほどの修羅場を経験して来たからのう。

 こいんな状況を」

 「守ってやりましょう。この清らかな若者たちの未来を。私たちの命に替えても」

 「そうじゃな? たとえワシらの命に替えても守ってやらねばならん」


 

 門倉と長老は深く頷き合った。


第13話 強まる連帯感

 診療所ではめずらしくマリアが携帯で語気を荒げて話していた。


 「どういうことですか! よくわかるように説明してください!

 なぜウチの病院で働くことを辞退されるのかを! ちょ、ちょっと待って下さい!

 理由を訊かせて下さ・・・」


 マリアは一方的に携帯電話を切られてしまった。

 柊坂メディカルセンターに来てくれることが内定していた、脳外科医の安田からの断りの電話だったのだ。

 その他の殆どのドクターも、内定を次々に辞退して来た。



 「どうしよう、反町君。このままだとHMC(柊坂メディカルセンターの略)がオープン出来ないわ」

 「おそらく医師会からの圧力だな?」

 「患者さんを救うのが医者の役目でしょう? そんなに名誉や権力、お金が大事なの?

 そんなの医者じゃなくて政治家や経営者のすることでしょう? 何で私たちの邪魔をするの?

 私たちがやっていることはそんなに目障りなことなのかしら?」

 「マリア。病院が問題じゃないと思うぜ。アイツらが恐れているのは、この見捨てられた柊坂の街が、日本、あるいは世界を変える可能性を秘めているということだからだ。

 そのシンボルとなるHMCは、あっては困る存在なんだよ。

 焦るなマリア。

 「急いては事を仕損じる」だ。

 ここで慌てたら相手の思うツボだぜ。ジワリジワリとやるんだ。

 アイツらのペースにはまっちゃ駄目だ。

 俺も知り合いの医者にも声を掛けてみるよ。それに医者は日本人だけじゃないからな?

 医者やナースも東京や日本に拘る必要はねえよ。

 『国境なき医師団』を忘れたわけではないだろう?

 10回オペした大学病院の外科医より、1,000回執刀した現場のドクターの方が腕は確かだ」

 「それもそうね。私たちには仲間がいるもんね?」

 「そうだ。俺たちには仲間がいる。家族のような仲間がな?」

 「今日のだるま食堂のミーティングでみんなに相談してみるわ」

 「のんびりやろうぜ。さあ、患者が待ってるぞ、もうひと頑張りだ」

 「うん」


 医者にも反町のような医者もいる。マリアは少し荷が下りた気がした。





 だるま食堂にはいつものメンバーが集まって、和やかな雰囲気だった。


 「教授のところの融資状況はどうじゃな?」

 「ようやく融資金が戻り始めたところです。

 わずかですが、ギャンブル依存の人も減って来たような気がします」

 「一生懸命汗を流して稼いだカネじゃ。飯も酒も、さぞ旨いはずじゃろうて」


 みんなも頷いていた。

 

 「企業からの求人も増えて来ました。元々柊坂の連中は働き者ですからね?

 今までは働く機会がありませんでしたが、路上生活者もかなり減りました。

 「刑務所の方がましだ」という街でしたからね? 奇跡です。

 マズローの精神欲求の実証ですな?

 ただこれは一朝一夕にはできません。遣り続けなければなりません。

 

   Roma was not build in a day.


 「ローマは一日にして成らず」と言いますからな。

 この想いをいかに後世に伝えて行くかが大切です」

 「教授のいう通りじゃ。焦ってはいかん。

 先を急がず、しっかりと皆で協力してゆくことじゃ」

 「一灯照隅 万灯照国じゃからのう。ひとりひとりの相手を思い遣るやさしい気持ちを集めることじゃ。

 そうすればこの国も、世界も変わる。

 この世界を変えるのは物やカネではない。真実の愛が必要なんじゃ。  

 持っている者は持たざる者へ。出来る者は出来ない者に。

 力ある者は力なき者へと手を差し伸べることなのじゃ」

 

 マリアは意を決してみんなに言った。


 「実はみんなに話さなけらばならないことがあるの。

 内定していたドクターたちから、みんな逃げられちゃった」

 「じゃあ、病院が完成してもドクターがいないっていうことですか? マリア先生?!」

 「そんなのおかしいですよ、みんなあれほど協力的だったのに!」


 早苗と真由美は口を尖らせていた。


 「丸山議員よりも上の連中が動き出したようじゃな?」

 「おそらく民自党のトップか? あるいはそれ以上か?」

 「まさか? 総理大臣よりも偉い人なんているの?」

 「たくさんおるよ、そんな連中はな」


 教授が口を開いた。


 「あの「長州の帝」、来島玄洋ですか?」

 「そうかもしれん。となると厄介じゃな?」

 「心配はいらんよ。ワシらには失う物がないのじゃから。

 それならそれで計画を変更するまでじゃ。

 だが、決してやられたからやり返すなどと考えてはいかん。

 それは憎しみの連鎖を産むからじゃ。

 恐れているのは持っている向こうの奴らじゃ。

 あの世には持ってはいけんのにのう? カネも権力も。

 誠愚かな者たちよ。

 たとえどんな仕打ちを受けようと、抵抗せんことじゃ。

 目的は同じじゃ、「みんなが平等な社会の実現」じゃからのう?

 それがダメなら別な方法を考えればよい」

 「俺とマリアで何とかするよ。医者のことはまかせておけって。

 なあ、マリア?」

 「そうね? 医者だもんね? 私たち」

 「マリア、反町。頼んだぞ」

 「任せて下さい!」


 マリアと反町が同時に返事をした。

 すると早苗が言った。


 「なんだかお似合いですね? 反町先生とマリア先生」


 みんながドッと湧いた。

 その日はいつもより長く宴が続いた。


 それはまるで、親戚、家族の宴会のようだった。


第14話 無抵抗主義

 反町とマリアの努力の甲斐もあり、医師を確保することが出来た。

 半数以上が外国人だったが、ようやく開院の目途も付いた。



 「良かったのう、反町先生、マリア先生。

 これからいよいよ、この街の再生が始まるのじゃな?」

 「HMCもあと少しで完成しますからね?」

 「貧しい上に病気になると、生きる気力もなくなってしまう。

 医療はみんなに平等であるべきなんだ」

 

 そう、反町が言った。

 みんなは何度も頷いていた。



 

 そんな診療所に、見知らぬガラの悪い男たちがやって来た。


 「ちいせえ診療所だなあー。臭せえ臭せえ、匂うなあー。

 貧乏臭せえこんなところじゃ、風邪でも死ぬぜ」

 「こんな狭いところでお医者さんゴッコか?

 俺も注射してやろうか? このぶっ太い注射でよお、なあ、かわいい看護婦さん?」

 「ヒヒヒヒヒ」

 「そいつはいいや、あはははは」


 すると糖尿で通院していた源三が言った。

 

 「ここはお前らみたいな半端なチンピラの来るところじゃねえ。

 失せろ」

 「警察を呼びますよ!」


 ナースの真由美が叫んだ。


 「なんだてめえ? 病人に向かって何さらしてんじゃ、このアマ!」

 「ああ、痛てててて。なんだか急に腹が痛くなって来たぜ」

 「大丈夫か? マサ?」

 「ああ大丈夫だ。ウンコしてえ」

 「あははははは」


 待合室はイヤな緊張感に包まれていた。


 「お前らどこの組のモンだ?」

 「おっ、爺さん、お前も極道の端くれか?」

 「ここは横田組のシマだ。それをわかって来たんだろうな?」

 「横田組? 知ってるかおめえら?」

 「知りませんねえー、聞いたこともありやせん」

 「横田がなんぼのもんじゃ、コラ!

 ワシらはその本社からの使いじゃ。子会社が何をほざいちょる?」

 「邪魔するんなら落とし前、つけてもらうことになるぜ」

 

 ちょうどそこに風邪を引いた研斗と、それに付き添う母、咲子も居合わせていた。

 怯える親子。


 「坊主、おめえの母ちゃんか?」


 研斗は黙っていた。DVの父親の記憶から、乱暴な男には激しい恐怖を感じてしまう。


 「きれいなママじゃねえか? ちょっとお兄さんたちに貸してくれねえかなあ?

 お医者さんゴッコするからさあ」

 「そりゃいいや、人妻大好きっす、俺」

 「俺もだ、マサ」

 「きゃはははは」


 そこへ騒ぎを聞きつけた反町たちがやって来た。

 

 「何ですか! あなたたちは!」

 「お前がここの責任者か? 警告に来た、あの病院から手を引け」

 「真由美ちゃん、警察に電話して」

 「無駄だ、デコ助なんか来やしねえよ。いいな、手を引け。

 さもないと、怖いことになるぜ」

 「誰の嫌がらせだ!」

 「誰でもいいじゃねえか。いいな? 確かに伝えたぜ」


 それだけ言うと男たちは帰って行った。





 その日の夜、だるま食堂でミーティングが開かれた。

 

 「以上が今日のいきさつです」

 「なるほど、本格的にやるつもりじゃな?」

 「警察も来ないとなると、相当力のある連中らしいのう。

 すまんが黒田、調べておいてくれんか?」

 「わかりました」

 「なんで病院を造るのに、これだけ嫌がらせをするのかしら?」

 「怖いんじゃよ、ワシらが。邪魔なんじゃろうな?」

 「とにかく、そんな連中に屈するわけにはいきません。

 日本は法治国家なんですから」

 「教授の言う通りだ、みんなで戦おう」


 すると門倉は反町を制した。


 「戦ってはいかん、淡々とやるのじゃ、やるべきことをな?」

 「インドのガンジーですな?」

 「そのとおりじゃ教授。やられてもやり返さない、やり返すことはさらなる憎しみや怒りを呼ぶからのう。

 これは「抵抗しないという抵抗」なんじゃ。そうじゃな? 教授」

 「アヒンサーというインド古来から伝わる「非暴力」の精神思想です。

 ガンジーは宰相の息子でいわゆるボンボンでした。 

 素行も悪く、ヒンドゥー教徒でありながら肉を食い、やりたい放題だったようです。

 イギリスへも留学し、弁護士となったガンジーは40歳位まで南アフリカでインド移民の人権擁護の仕事に携わり、その後、インドに戻ると政党を立ち上げ、イギリスの植民地解放運動のリーダーとなりました。

 ただ現実にはガンジーは無抵抗ではなかったのです。

 非暴力、非服従を貫くためにあらゆる手段を講じました。

 武器も持たずに」

 「じゃあ、やられちゃうじゃない」

 「その通りです。彼らは鎮圧しようとするイギリス治安部隊の前に立ち、射殺されます。

 そしてその前列が殺されると、また後ろの市民が前へ出る。

 そしてまた撃たれる」

 「壮絶じゃな?」

 「これはアヒンサーという戦いなのです。

 つまり捨て身で立ち向かうのです、自由のために財産も何もかも失う覚悟で。

 そして命さえも。

 自分の屍を超えて進めという強い信念がそこにあります。

 ガンジーに影響を受けた指導者は多い。

 キング牧師やダライラマ14世もそうです。

 暴力からは暴力しか生まれません」

 「ワシらにまかせなさい。ワシらはもう何も失う物はない。

 あんたら以外にはのう。ふぉっふぉっふぉっ」


 闇の支配者と門倉たちの壮絶な戦いが始まった。


 暴力と非暴力の戦いが。


第15話 折れそうな心

 数カ月後、柊坂メディカルセンター、HMCが完成した。

 マリアたちは感慨に浸っている間もなく、センターは大忙しだった。



 「これでは患者さんを捌ききれない。医者もスタッフも、今の倍の人員は欲しいわね?」

 「そう焦るなマリア。まだ始まったばかりなんだぜ、俺たちの描く理想郷は」

 「そうよね? これからなのよね?

 あの診療所の頃から比べれば、夢みたいだわ」

 「理想郷なんてものはな、永遠に未完成なんだ。

 それを完成させることはもちろん重要だが、みんなでその理想世界の実現のために行動し続けることが大切なんだ。常に100%を目指して進めばそれでいい。

 たとえそれが今、0.01%だったとしてもだ。

 のんびり行こうぜ、マリア理事長」

 「そうね? 反町院長」



 柊坂メディカルセンターはマリアが理事長で反町が院長だったが、彼らには個室も豪華な椅子も机もない。

 空いてるナースステーションのテーブルや医局、事務室がふたりの仕事場だった。

 そして少しでも多く病床を確保し、様々な設備やスタッフのために病院をフルに活用したかったからだ。

 ゆえにいつも病院には密約も秘密も無く、上下関係もなく、常にオープンな環境になっていた。


 ラグビーで言うところの、



     All for one One for all



 がこの病院の理念だった。

 病院で働くスタッフは多忙ではあったが、毎日が充実して生き生きとしていた。

 だから対外的な肩書はあっても、お互いを名前で呼び合っていた。



 ナースのベトナム人、メイが走ってやって来た。


 「ドクター・マリア、ソリマチ、急患デス! スグニERニオネガイシマスデス!」

 「わかったわ、メイ!」


 マリアと反町とメイは、ERへと駆けて行った。




 そんなHMCをクルマの後部座席から見ている老人がいた。

 帝、来島玄洋だった。



 「立派に出来たのう。大きな墓標が」

 「帝、では今夜からさっそく始めさせていただきます」

 「うむ、目障りな奴らを叩き潰せ。二度と立ち上がれないようにジワリジワリと、恐怖を与えながらな」

 「御意」




 HMCの看護部長は早苗で、総婦長は真由美だった。

 彼女たちも慌ただしくナースたちに指示を出し、自らも先頭に立って動いていた。



 病院が消灯になった頃、たくさんの消防車のサイレンが柊坂の街に鳴り響いた。

 早苗たちは5階の消化器病棟から街を見下ろし、驚愕した。

 

 「たいへん! 診療所が燃えている!」




 みんなが慌てて診療所に駆け付けると、すでに診療所は火の海になっていた。

 HMCが完成したので、診療所は医療倉庫として使われていたのだった。


 燃え盛る炎に包まれる診療所。

 マリアは呆然としていた。


 「診療所が・・・、父と母の残してくれた診療所が・・・」

 

 反町は拳を握りしめていた。


 「なんて酷いことを・・・」


 ジュンと早苗も泣いていた。

 そこへ門倉たちもやって来た。


 「マリア、気を落とすでない。ケガ人がなかったのがせめてもの救いじゃ。

 それにここは障碍者支援のためのパン工場を作る予定だったわけじゃからのう。

 火災保険も下りて解体費も浮いた。何事も良い方向に考えることじゃよ」

 「門倉会長・・・」


 マリアは門倉にすがって泣いた。

 門倉は娘を労わるように何度も頷いていた。


 「わかる、わかるぞ、お前の気持ちは。だが耐えろ、挫けちゃいかん。

 挫けたら負けじゃ」


 どんな時も涙を見せなかったマリアが、泣きながら頷いていた。

 するとそこへ教授が息を切らせて走ってやって来た。


 「大変です! だるま食堂が!」




 だるま食堂に行くと、大型ダンプが店に突っ込んでいた。



 「お客さんや子供たち、おばちゃんは無事なの!」

 「クラクションを鳴らしながら突っ込んで来たようで、みんな無事だったようです。

 それが不幸中の幸いでした」


 

 警察が現場検証をしていると、そこへあの時のチンピラたちがやって来た。


 「あーあー、こりゃ大変だあ」

 「アニキ、いつからこの店、ドライブスルーになったんでしょうねえ?

 ダメだなあ、こんなとこにダンプで来ちゃあ」


 そこへ山岡もやって来た。


 「これはほんの挨拶代わりだ。警告したはずだ、余計なことはするなと。

 さっさとこの街から手を引け。そうじゃなければ、次はお前たちの中から棺桶に入る奴が出るかもしれん」


 反町が山岡の胸倉を掴もうとした時、黒田がそれを制した。


 「反町先生、止めておきな。こいつらは殴る価値もねえよ」


 男たちは笑いながら去って行った。



 「黒田さん、なんとかならないの! 警察で捕まえてよ!」

 「ダメなんだ、警察組織の上の連中の仕業ですから」



 その日を境に街のいたるところで市民に対する嫌がらせが始まった。

 そして遂に、門倉たちの身内にも予告通り被害者が出た。

 それはナースの真由美だった。


 真由美が夜勤を終え、自転車でアパートに帰ろうとした時、後ろから走って来たクルマに当て逃げされてしまったのだ。

 幸い命は取り留めたが、数日間の昏睡状態が続いていた。



 みんなが真由美の病床に集まり、悲痛な面持ちだった。


 「ここまでされて、黙っているしかないんですか!

 これが無抵抗主義というやつなんですか!」


 反町はそう叫んで泣いた。

 みんなも泣いていた。


 その時、長老が穏やかに言った。


 「耐えるのじゃ。ただ耐えるのじゃ。

 あいつらが音を上げるまで。

 暴力に暴力で対抗したら、ワシらの理想郷の実現は汚されてしまう。

 それではテロリストと同じゃ」


 マリアたちは、遂に出口のない迷宮へと迷い混んでしまった。


第16話 頂上決戦

 HMCの待合場所で暴れるヤクザたち。ナースたちにセクハラ行為をしようとする者など、嫌がらせは日増しにエスカレートしていった。


 そして反町医師も襲われた。

 反町が診療を終えて帰宅しようと、病院の駐車場に停めてあるクルマに乗り込もうとした時、目出し帽を被った連中に金属バットで襲撃され、右の鎖骨を折られ、左腕、そして肋骨に2本、ヒビが入ってしまったのだ。


 もはや限界だった。

 門倉はついに来島玄洋と直接会うことを決断した。



 



 山口県にある玄洋の屋敷に行くと、100畳敷きの大広間に案内された。



 「10年前になるかのう、あんたと会ったのは? 田島を総理にする時には世話になった」

 「とんでもありません。ご無沙汰しております、帝」

 「日本人とは実に扱い易い民族じゃ。白人からすれば、犬みたいなものじゃて。

 賢いが利口ではない。

 何か新しい物を1から生み出すことも出来んくせに、アイツら白人が考えた物を小賢しく改良し、それ以上の物にしてしまうことには長けておる。

 だが、人生を楽しむすべを知らん。

 ディズニーにマクドナルド、ハリウッド映画に英語の音楽。

 英語を話せるというだけで一目置かれる国何じゃよ、日本は。

 所詮、言葉など道具にすぎんのにじゃ。

 愚かなことよ、ロクに伝えることもないくせに英語などとうつつを抜かしおって。

 「日本が世界に誇る文化は何か?」と訊ねられても、それを正確に答えることも出来ぬ。

 英語が話せる、理解出来るエリートがじゃ。

 日本のことも知らんくせに、白人のことばかり知ろうとする。

 実に滑稽じゃよ。

 知らず知らずのうちに、日本人はあやつらに洗脳されておることに気付いてもおらん。

 戦争は日本が勝手に始めた侵略行為か?

 真珠湾には退役間近の老朽艦しか存在しなかったのは誰の策略じゃ?

 秀吉の朝鮮出兵は彼が考えたものなのか?

 キリスト教が愛の宗教?

 誰じゃ、そんな話をしておるやつは?

 惨たらしい拷問は誰が考えた?

 魔女狩りは? 魔女裁判は?

 ヒロシマ、ナガサキの原爆投下。それでも日本人は自分たちを責める。

 「あの戦争は間違っていた」とな?

 そして核兵器を日本に持たせようとはしない。

 何が非核三原則じゃ? 日本はどうかしておる。

 アメリカの忠犬として、今や日本は世界中からレジャーとグルメに訪れる観光の国となった。

 そしてスパイ天国。

 捕まっても拷問されることも殺されることもない日本。情報も科学技術も駄々洩れじゃ。

 そして優秀な科学者たちを引き抜いてゆく。

 外交でもバカにされ、散々他国から莫大な金を毟り盗られていく。

 時の総理は煽てられ、もてはやされて、挙句はその金を掠め取る。

 勝手に駐留している在日米軍にくれるカネがあるなら、自衛隊にくれた方が余程の守りになる。

 日米安保? 誰がそんな絵空事を信じておる?

 白人は自分たちに都合が悪くなれば平気で約束を破る連中じゃ。それはすでに歴史が証明しておるではないか?

 ヒットラーは600万人以上のユダヤ人を虐殺した。

 だがそれは、ヒットラーがドイツ国民のユダヤ人に対する憎悪を具現化したにすぎぬのじゃ。

 ではアメリカやイギリス、あやつらはどうじゃ?

 アメリカ人はいつから勇者になった?

 日本人は忘れやすい民じゃ。そして批判はするが行動はしない。陰でボヤくだけじゃ。

 小さなしあわせで十分に満足しておる。

 この日本には優秀な指導者などおらん。

 アメリカに都合が悪いやつはその舞台から引き摺り降ろされるからじゃ。

 だがそれゆえ、日本には暴動が起こらないのも事実。

 すばらしい国じゃないかね? 日本は?」

 「この国には見えない階級社会が存在しています。貧富の差がない、本当の平等社会ではありません。

 今、日本は変わるべきなのです。

 チカラある者は弱い者を助け、労わり、尊重する社会に。

 正しい教育、統制された経済。家庭という閉鎖された個々から、より思い遣りのあるコミュニティの形成。 

 なぜそれを目指してはいけないのでしょうか?」


 玄洋は静かに立ち上がった。

 本来、小柄であるはずの玄洋は、2mもの大男に見えた。


 「この日本には平等などいらん。あってはならんのじゃ。

 無能な者は無能のままでよいのじゃ。

 支配する者とされる者。

 世の中はそれで均衡が保たれておる。

 無能で幼稚な人間に、自由と平等を与えて何になる?

 日本が混乱するだけじゃ。

 この安定した日本を崩壊させてはならんのじゃ。

 国民を「考え、行動する人間」にしては絶対にいかん!」


 玄洋はそう言うと、後ろに飾ってあった日本刀を引き抜き、門倉の鼻先にピタリと刃先を向けた。

 微動だにしない門倉。


 「さすがは一代で巨大企業を作り上げた漢よ。 

 命もいらんというわけじゃな?」

 「その覚悟で参りました」

 「お前のような漢は、あやつらには一番目障りじゃろうなあ?

 『神風』があやつらには恐怖じゃった。

 何よりも大切な自らの命をぶつけて来るのじゃからな? 命が兵器、白人には考えもつかんことじゃ。

 今のイスラムの『ジハード(聖戦)』の手本は、日本の特攻じゃ。

 あやつらには理解できん行為じゃ。

 自分の命を捨ててまで、守りたい物など白人社会では考えられんからのう。

 『腹切り』もそうじゃ。

 仕事の失敗で自らの命を皆の前で絶つ。

 日本人にとって「恥」より重い物など無いんじゃ。

 日本人をコントロールすることは実に簡単。

 「みんなそうしているよ」

 これだけで十分なのじゃからのう。これこそが日本人を操る「魔法の言葉」なのじゃ。

 人と同じでなければ不安なのじゃから。

 お前はすでに神の考えに至っておる。

 欲しい物はなんでも手の中にある。それなのに何故、下等な者たちに加担しようとするのじゃ?」

 「私はカネを追いかけ、この歳になりました。

 カネは残りましたが、心が満たされませんでした。カネ以外、何も残りませんでした。

 その原因が人生の終盤に差し掛かった時、気付いたのです。

 自分に何が足りなかったのか、そして何が一番人間にとって大切なのかを」

 「それは何じゃ?」

 「愛です。それを私に教えてくれたのが柊坂の人たちでした。

 帝、どうかお力をお貸し下さい。

 本当の日本を、神の国「日本」を取り戻すために」


 玄洋は刀を鞘に納めた。


 「それはあやつら白人を敵にするということをわかって言っておるのか?」

 「敵にするのではありません、仲間にするのです。

 全人類の共栄共存を願うのです、共に手を携えて。

 それには途方もない時間がかかるかもしれません。

 人間は神の前では皆、平等であるはずです。

 どうかお許し下さい、帝」


 すると玄洋は大きな声で笑った。


 「わっーはっはっはっ! 実に愉快!

 今日は屋敷に泊まってまいれ。

 久しぶりに面白い話を聞いた。

 おぬしの戯言がもっと聞きとうなったわい!

 酒宴の用意をせい! この客人のために!」



 来島玄洋。帝と畏れられるこの男は、ただのフィクサーではなかった。


 そして柊坂にやっと平穏な日々が戻った。


最終話 希望

 柊坂メディカルセンターの屋上では合同結婚式が挙行されていた。


 ジュンと早苗、教授と森山さん、それにマリアと反町医師の三組の結婚式だった。



 うららかな春の日だった。


 「わあ、なんだか私も結婚したくなっちゃった! 早苗もマリア先生も森山さんもみんなキレイ。

 ハーイ、笑って笑って!」


 真由美もすっかり回復して後遺症もなく、元気に笑えるようになって写真を撮って回っていた。



 「門倉会長、これでまた、柊坂に小さな灯りが3つ、灯りましたなあ?」

 「この小さな灯が、ロウソクの灯りのように広がっていくといいですな?」

 「一灯照隅 万灯照国ですな?」

 「みんなが明日への希望を持って、思い遣りのある生き方を心掛ける。

 弱い人たちを支え、子供がやさしい大人に成長していく環境を作る。

 愛のある世の中にしたいものじゃ。

 ワシはしあわせじゃよ、長老。あんたのお陰じゃ」

 「何をおっしゃる門倉会長。ワシらを救ってくれたのはあんたじゃありませんか?

 見てご覧なさい、この人たちのしあわせそうな明るい笑顔を。

 あなたはワシらに生きる希望を与えて下すった。

 本当にありがとうございます」


 だが、門倉からの返事はなかった。

 

 「よほど疲れたのかのう? いい顔して眠っておる」



 どこからか、桜の花びらが飛んで来て門倉の顔に落ちた。


 門倉は微笑んで眠っていた。

 もう目を覚ますことのない笑顔のままで。


               

                 『柊坂のマリア』完 


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【完結】柊坂のマリア’(作品230428) 菊池昭仁 @landfall0810

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