【完結】ストロベリーチョコレート(作品231203)

菊池昭仁

ストロベリーチョコレート

第1話

 稲妻が走り、雷鳴が轟く酷い雨だった。

 

 「あっ、だめ、そこ、弱いの・・・」


 私の軽い抵抗も虚しく、それを楽しむかのように霧島は私の敏感なそこを攻め続けた。

 そこから溢れ出る蜜を、まるで熟した桃にしゃぶりつくかのように、淫らな音を立ててそこを霧島は吸っていた。

 普段の知的で物静かな霧島からは想像も出来ない行為だった。


 霧島のセックスは常に予測不可能だった。

 私には霧島の次の行為の展開がどうなるのか、全く予想がつかない。

 やさしく舌を絡めて来たのでそのまま顎、首筋、そして胸へと舌を這わせて来るのかと思えば、急に耳を甘噛みされ、更に触れるか触れないかのギリギリに背中を撫でて来たりする。

 それは実に巧妙で、器用に手や舌を使い、千手観音のようにピンポイントで私の性感帯を捉えにかかるのだ。

 クリトリスの扱いは自分よりもよく熟知していた。

 軽く息を吹きかけ、ねっとりと唾液を垂らし、私の反応を確かめながらチロチロと舌を動かす霧島。

 十分に潤った私の泉にゆっくりと中指を侵入させ、第二間接を折り曲げ、ザラついたGスポットを容赦なく攻撃して来る。

 私は遂にそれに耐え切れなくなり、最初のオルガスムスに達し、体を痙攣させるとビクンビクンと全身で跳ねてしまった。


 ようやく意識が戻りかけた時、霧島は私の足首を掴むと半ば強引にそこを開いた。

 露わになったそこへ自分自身を宛がうと、霧島はゆっくりとインサートを始めた。


 「あうっつ」


 突き抜ける快感が私を襲い、私は霧島に懇願した。


 「きょう、は、きょうはだいじょうぶ、だから、おねが、い、そのまま、中に・・・」


 だがその願いも虚しく、霧島は私のお腹にザーメンを放出した。

 クライマックスを迎えた私の頭の中は真っ白になった。



 いつも霧島はやさしかった。

 他の男性のように射精を終えるとすぐにカラダを離すことはなく、行為を終えた後もやさしく抱き締め、蕩けるような甘いキスをしてくれた。


 「みどり、人間が自分の意志を伝えるためにはどんな手段があると思う?」

 「文字とか言葉とか?」

 「じゃあそれが発明される以前は?」

 「テレパシー?」

 「それもあるかもしれない。第六感ってやつな?

 でも、もっと有効な手段がある」

 「それは何?」

 「セックスだよ。セックスは決して下品で卑猥なものではない。

 身体と身体のコミュニケーションだと俺は思う」


 霧島は私の額に軽いキスをした。

 私は霧島に頬を寄せ、弱々しい声で囁いた。


 「もうお迎えの時間だから、そろそろ行かないと・・・」


 私はベッドから起き上がると、脱ぎ散らかした下着を拾い、霧島に背を向けてショーツを履き、ブラのホックを留めた。


 「シャワーを浴びなくてもいいのか?」

 「いいの、あなたの香りが残ったままで」



 寒冷前線が通過したのか、さっきまでの土砂降りの雨はすっかり静かになっていた。

 

 私は自分が水中花なんだと思う。

 カサカサに干からびた紙の華。

 それがコップに注がれた水の中でゆったりと開く華だと。


 霧島といる、この透明な世界が私という華が開く唯一の時間だった。


 私は乱れた髪を整え化粧を直し、リップを引いた。


 洗面台の鏡に映る私の顔は、もう母親の顔になっていた。




第2話

 智樹のお迎えにはギリギリ間に合うことが出来た。

 クルマを降りると背後から桃花ママが声を掛けて来た。


 「智樹君ママ、今お迎え?」

 「うん、片付け物をしてたら遅くなっちゃって」


 桃花ママは私を舐め回すように見ると、


 「相変わらず智樹君ママ、凄く綺麗だけど何かやってるの? エステとか。

 今日もお肌が艶々してる」

 「ありがとう桃花ちゃんママ。お世辞でもうれしいわ。

 子育てで精一杯よ、綺麗にしている余裕なんてないわ」

 「そうかしら? なんだかとても輝いているわよ、特に最近の早川さんは」


 (それはそうよ、良いセックスは最高の美容ですもの)




 「恵美子先生、さようなら」

 「また明日ね? 智樹君」

 「今日もお世話になりました。明日もよろしくお願いします」

 「お気を付けてお帰り下さい」


 担任の恵美子先生に智樹と一緒に挨拶をしてクルマに乗り、エンジンを掛けた。


 「智樹、お腹空いてない? 何か食べて帰ろうか?」

 「いらない」

 「お腹空いてないの? お家まで我慢出来る?」

 「バアバ嫌い・・・」


 理由はわかっている。

 帰れば義母の鬼のようなピアノのレッスンが待っているからだ。


 「ピアノ、嫌いなの? 辞めてもいいのよ、嫌いなら」

 「好きだよ。でもバアバは嫌い。すぐに怒るから」


 義母の麗子の智樹に対する執着は尋常ではなかった。

 音大を出てピアニストになる夢を諦めた麗子にとって、智樹は自分の果たせなかったピアニストへの夢を叶えてくれる、最高の才能を持った孫だった。


 智樹のピアノは天才的だった。

 まだ5歳だというのに、ショパンの英雄ポロネーズを平気で弾きこなすレベルだった。

 殆ど毎日のように実家での義母のレッスンは続いていた。



 

 「何度言ったら分かるの! そこはそうじゃないでしょ! こうやるの! こう!」


 義母はまだ幼い智樹の頭に激しくピアノのタッチをした。

 堪り兼ねた私は義母に言った。


 「お義母さん、何もそこまでしなくても」

 「あなたは黙ってなさい! これは私と智樹の戦いなの!

 音楽はね? 「音我苦」なのよ! もっともっと自分を苦しめて苛めないと、立派なピアニストにはなれないわ!

 音楽は心から発して心に還るもの、素人のあなたが口を出さないで頂戴!

 智樹は早川家の宝なんだから!」


 私はそれ以来、義母に逆らうことを辞めた。


 

 義母は私のすべてが気に入らなかった。

 大切なひとり息子を寝取った女狐としか思っていない。


 出来婚など、私の策略だと勝手に決めつけていた。

 私がなぜ、息子の智之と結婚することになったのか、もちろん麗子は本当の理由を知らない。

 だがそんな麗子でも、智樹に対しては別だった。

 麗子は智樹の才能に惚れ込んでいた。

 



 夫である早川との生活は相変わらずだった。

 結婚を承諾する条件として寝室は別、私の事には一切干渉しないというのが結婚の条件だった。

 霧島との関係が深まるにつれ、早川とのこの暮らしに果たして意味があるのかと私は疑問を持ち始めていた。


 (こんな結婚生活に意味があるのかしら?)


 私は霧島に抱かれる自分を想像しながら自分を慰め、深い眠りに就いた。




第3話

 私には学生時代に付き合っていた、3つ年上の山下浩二という恋人がいた。

 半同棲のような学生生活を過ごしていたが、浩二が大学を卒業し、大手商社に就職すると大阪支社に配属となり、遠距離恋愛を余儀なくされた。


 私はバイトに明け暮れ、そのバイト代で毎月彼のいる大阪を訪れていた。

 それを苦痛に感じたことはなかった。

 浩二に会うことが唯一の楽しみだったからだ。


 

 「卒業したら私も大阪の会社に就職するね?」

 「そうなったらここを引っ越さないとな?

 1Kじゃ狭いから、2LDKのマンションで一緒に暮らそう。 

 それにここ、壁も薄いし」

 「やだもう、浩二のエッチ」


 ふたりの夢は広がるばかりだった。




 浩二が大阪に移り住んでから1年半が過ぎた頃、彼から電話があった。

 私は寝ぼけて携帯を取った。


 「どうしたの? こんな夜中に珍しいわね?」

 「碧、大切な話があるんだ。明日東京で会えないか?」

 「バイトが20時までだから、それ以降なら大丈夫だよ」

 「そうか? じゃあ東京駅のメトロポリタン・ホテルのレストランに21時でどうだろう?」

 「うんわかった。大切な話って何?」

 「それは会ってから話すよ」


 浩二はそう言って一方的に携帯を切ってしまった。

 私はいつもとは違う浩二の元気のない声が気になった。


 (何かあったのかしら?)




 翌日、バイトを終えるとトイレで入念にメイクを直し、汗で汚れた下着を替えた。

 久しぶりに浩二に会えるかと思うと、私の心は躍った。




 店に入ると窓際の席に浩二が座っていた。

 私に気付くと彼は軽く手を挙げた。



 「ごめん、急に呼び出したりして。バイト、疲れただろう?」

 「ううん、平気だよ。浩二に会えてうれしいよ」


 浩二はその言葉を無視した。


 「お腹空いただろう? 何がいい?」

 「そうねー、ヒラメのカルパッチョにウニと手長海老のパスタ、それから少しワインも飲んじゃおうかな? グラスワインを1つ、白で」

 「わかった。じゃあ俺はイカ墨のリゾットで」

 「やだあ、イカ墨のお口にキスするの? ふふっ」


 私は笑ったが、浩二は笑わなかった。




 私たちは当たり障りのない普通の会話をしながら食事を終えた。


 


 浩二と腕を組み、人気の少なくなった夜の東京駅の構内を歩いた。

 突然浩二が立ち止った。


 「碧、俺、子供が出来たんだ。

 相手は部長のお嬢さんだ。俺は責任を取らなければならなくなってしまった。

 ごめん碧、許してくれ。俺、寂しかったんだ」


 私は頭の中が真っ白になり、茫然とした。


 「子供が出来たってどういうこと?

 寂しいと子供が出来るの? ふざけないで!」


 浩二は黙ったまま俯いていた。


 「ねえ、どういうことなのって訊いているのよ!

 答えてよ! 早く!

 何がどうしたのよ! それって別れてくれっていうこと!」

 「ごめん、碧」


 私はグーで彼を殴った。

 何度も殴った。キックもしたが所詮は女の細腕、腕力など知れたものだった。

 浩二は抵抗もせず、私にされるがままになっていた。


 「気が済むまで俺を殴ってくれ。俺はクズだ、クズ男のロクデナシだ・・・」

 「浩二なんてだいっキライ! 死んじゃえバカ!」

 「碧・・・」

 「あなたなんか死ねばいいのよ! そんなダメ男!

 殺してあげる、そしてあなたを殺して私も死ぬから!」


 私はそのまま膝から崩れ落ちた。

 東京駅のコンコースのコンクリートの床が、とても冷たく感じた。


 「消えて! 今すぐ私の前から消えて!

 そんな浩二、二度と見たくない!

 すぐに消えてよ! 今すぐに!」


 浩二は返事もせず、ただ立ち尽くしていた。


 「聞こえてるの? 消えなさいよ早く! もう顔も見たくない!

 そうじゃないと、生まれてくる赤ちゃんも、そして浩二の奥さんになる人も憎むことになるから!」

 


 私は改札を抜け、山手線の階段を駆け上がり、そのまま電車に飛び乗った。

 浩二は追いかけては来なかった。


 都会のイルミネーションの銀河の海を、電車は滑るように走って行った。

 時折すれ違ういくつもの電車。

 私は誰に憚ることなく声を出して泣いた。

 メトロポリスの夜景が涙に沈んだ。




 今もその時の光景は頭から離れない、深い悲しみになっていた。


 


第4話

 大学を卒業した碧は、目的もないまま都庁の職員になった。


 28歳になった今も、東京駅での山下との別れが碧の心に消えぬタトゥーとなって残っていた。


 その後、何人かの男性とも付き合ったが長続きはしなかった。

 それほど山下のことが深い傷跡になっていたのだ。




 都庁の食堂で遅めの昼食を摂っていると、隣の福祉課の早川がやって来た。

 

 「隣、いいかな?

 僕も今、昼食なんだ。忙しかったんだね? 碧ちゃんも」


 早川は碧の許可を得ることなく、隣に座った。


 碧は早川が苦手だった。

 曇ったままの銀縁メガネを掛け、小太りで背は低く、しかも髪の毛はマッシュルームカットにしていた。

 ビートルズでもあるまいに。


 それでも話が面白ければまだ我慢出来る。

 だが、話の内容は自分の好きなアニメの話ばかりだった。


 地球に生き残った人類が、たとえ早川とふたりだけになったとしても、絶対に抱かれたくはない男だった。


 (折角のランチが台無し。なんで私の隣に座るわけ?)


 碧のトンカツ定食を見て早川が言った。


 「あー、僕も碧ちゃんと同じトンカツ定食にすれば良かった。

 きつねうどんはいいとしても、迷ったんだよね? 生姜焼定食かトンカツ定食かで」

 

 早川は碧のことをいつも「碧ちゃん」と呼んでいた。

 それが碧には凄く不快だった。

 碧はこの空間が耐えられず、トンカツの端を一切れ残したまま、食事を中断して席を立った。


 「碧ちゃん、もう食べないの?」

 「ええ、今日中にやらなければならない仕事が残っているので」

 「大変だね? 食事もゆっくりできないなんて。

 その残ったトンカツ、貰ってもいいかな?」

 「私の食べ残しを早川さんに食べさせるわけにはいきません」


 (お前のせいだよ、このブタメガネ!)


 「碧ちゃん、今度の土曜日は忙しい?」


 (この私にデートのお誘い? 100年早いわ!)


 「なんでですか?」

 「課長から映画のチケットを貰ったんだ、2枚。

 ベタな誘い方だけど、どう? 僕と一緒に映画を観に行かない?」


 碧は笑いそうになるのを必死で堪えた。


 「私よりも同じ課の小野寺さんを誘ってみたらいかがですか?

 いつもお誘いいただくのはありがたいんですけど、私、恋愛に興味がないんで」


 碧は早川を軽くあしらった。


 「僕、彼女はちょっと苦手なんだ。タイプじゃないし」


 (向こうもそう思っているよ! 選べる立場か!)


 碧は何度か早川に食事に誘われたことがある。

 やれあそこのラーメンが美味しいから一緒に行こうとか、「今度渋谷に美味しいステーキのお店がオープンしたから食べにいかない?」とか、碧は辟易へきえきしていた。


 そして今度は映画・・・。


 碧は早川とはもう関わり合いにはなりたくなかった。

 そこで碧は早川から二度と誘われないようにと、早川から嫌われるようにすることを思いついた。


 (うんと嫌な女を演じて、これ以上相手にされないようにしよう)



 「うーん、映画は苦手なんですよ、すぐに眠くなってしまうので」


 早川は落胆した。


 「そうなんだ・・・」

 「でも、ディズニーシーは好きですよ」


 早川の顔が急に明るくなった。


 「えっ、ディズニーシーならいいの? ディズニーシーなら!」

 「いいですよ。どうせ土曜日は暇だし」

 「やったー! 碧ちゃんと初デートだ!」

 「勘違いしないで下さいね? デートじゃなくただのですから」

 「碧ちゃんと遠足、サイコー!」


 早川は小学生のようにはしゃいでいた。


 (最悪の遠足にしてあげるわ。うんとイヤな女になっていっぱい嫌われてあげる)



 碧はお盆を返却口に置き、不敵な笑みを浮かべ仕事に戻って行った。




第5話

 ディズニーシーに向かって電車は走っていた。

 空も海もグレーだった。そして碧の心もダークグレーだった。


 (折角のお休みなのに、私、バカみたい。 みんなあの豚メガネのせいだわ)



 東京駅から電車は混雑しており、碧も早川も立ったままだった。


 新木場に電車が停車すると、目の前の席がちょうど二席空いた。


 早川は素早く席に座ったが、碧は座らなかった。

 早川と体を密着させるのが嫌だったからだ。



 「碧ちゃんも座わりなよ」

 「私は大丈夫、もうすぐ舞浜だから」

  

 碧は隣にいた太ったオバサンに声を掛け、席を譲った。


 「私たち舞浜駅で降りますから、よかったら座って下さい」

 「いいんですか? すみませんねえ」


 早川とステラおばさんが並んで座っているとあまりにもお似合いで、碧は吹き出しそうだった。



 

 舞浜駅に着くと磯の香りがした。

 海が近い。碧の気分は少しだけ和らいだ。


 早川は小学生のようにはしゃいでいた。


 「ねえねえ、どっちにする? ランド? それともシー?」

 「シーの方だって言いましたよね? ガキはランド、大人はシー。常識でしょう?

 ランドはお酒飲めないし」

 「そうだよね? 僕たち大人だもんね?」


 (コイツ本当にこれで都庁の職員なの? まあ都知事があれじゃしょうがないか?)


 碧はこの時点で早川にブチ切れそうだった。




 碧たちはミッキーがかたどられた車窓のモノレールに乗った。


 「碧ちゃん、今日はいっぱい楽しもうね?」

 「そうですね? 私もワクワクします」


 (二度と私と関わりたくないようにお仕置きしてあげるから覚悟しなさい)


 碧はひとり、ほくそ笑んだ。



  

 ディズニーシーにはカンツォーネが流れ、イタリアの港町のような情景が広がっていた。

 だが残念なことに歩いているのは殆どがアジア人だった。



 「まずはこの『海底2万マイル』に乗りたい!

 でも120分待ちかあ? 早川さん、私ちょっとお手洗いに行ってくるから並んでて」

 「うん、わかった。並んでいるね?」



 碧の「嫌われ大作戦」が始まった。

 碧は早川を並ばせると、さっそく近くのカフェに入り、ビールを注文し、晴子にLINEを送った。


  

     作戦開始、今、ひとりで2時間並ばせ

     の刑に処しました。

     「バケツ持って廊下に立ってなさい!」

     ってか(笑)



                       ウケるー、マジうけるんですけどー。

                       見たい見たい、汗だくのデブ川。




 晴子は同じ保険福祉課の同期で、晴子も早川が嫌いだった。


 役所の女子トイレで早川と週末会うことを晴子に話すと、


 「今度の土曜日にさあ、デブ川とディズニーおデートなんだー」

 「うそ! マジで? いつからアンタ、珍獣ハンターになったわけ?」

 「だってしつこいんだもんアイツ。

 だからもう二度と誘われないように、うんといじめてやろうと思ってね?」

 「なんか楽しそう。私も行きたいけど土曜日は彼とエッチの日だからなあ」

 「LINEするよ、動画付きで実況中継」

 「それ最高!」


 晴子と碧はその話題で盛り上がった。



 早川から電話が来た。


 「碧ちゃん大丈夫? かなり進んだよ」

 「今日は女の子の日だから少し休んでたの。心配しないで。

 アトラクションを出てきたら電話して頂戴」


 女性経験のない男には生理の話をすれば黙るしかない。

 女の身体を知らないからだ。

 碧は晴子にLINEを送った。



         デブ川から電話あり。

         「だいぶ進んだけど大丈夫?」

         だって。

         ずっと並んでろっつ!(笑)


                        ごめん、彼が来たから

                        またね、楽しんでね。

                        デブ川の調教(笑)




 「彼氏登場でヒマ潰し終了かあ?

 すみませーん、ビールお替り下さーい」


 碧は昨夜の読みかけの文庫本を取り出し、読み始めた。




 90分が過ぎた頃、早川から連絡が来た。


 「今出て来たよ。どこに行けばいい?」

 「餃子ドッグが食べたいから買って来て」

 「それ、どこで売ってるの?」

 「うーん、どこだったかなあー。キャストさんに聞いてみてよ」

 「わかった。それってどんなやつ?」

 「大きな餃子みたいなヤツ。すごく美味しいんだよ、とにかくお願いね?」


 (そうねー? そこからだと400mはあるかしら? がんばって痩せなさい、おデブさん)




 1時間位して早川からまた電話が来た。

 

 「ようやく買えたよ、30分も並んじゃった。今どこ?」

 「うーん、なんだかぬいぐるみがたくさん売っているところ、早川さんは今どこなの?」

 「大きな船のところにいるんだけど、どうしようか?」

 「じゃあ私、ここで待ってるから早く来てね?」


 (さあデブ川、この広大なパークの中を私を探して走りなさい、クタクタになるまで)



 碧は早川の位置をGPSで確認していた。

 絶対に早川と会わないようにするために。




 4時間が経過した頃、碧は早川に電話した。

 碧はわざと携帯を切っていた。



 「ごめんなさい、救護所で休んでいたの。今どこ?」

 「心配したよ、今から救護所に行くからそこを動かないで待っていてね?」



 汗だくになり、ふらふらになった早川がやって来た。

 鼻をつく早川の体臭。


 「大丈夫? ハアハア、碧ちゃん、ハアハア・・・。

 こ、これ餃子ドッグ・・・」


 早川はとっくに冷めてしまった餃子ドッグを碧に差し出した。

 

 「もういらない、帰る」

 

 碧はトドメを刺した。

 碧は出口ゲートに向かってスタスタと歩いて行った。

 早川は無言で碧の後をついて歩いた。


 (ちょっとかわいそうだったかしら? でもこれだけやればもう諦めてくれるはず)



 碧は罪悪感と安堵感の混濁した気持ちだった。




第6話

 舞浜駅に向かって歩いていた碧が、ちょっとよそ見をした時、3人組のヤンキーのひとりとぶつかってしまった。

 だがそれは、明らかに故意的に男の方から碧にぶつかって来たように見えた。


 「ごめんなさい」


 咄嗟に碧は謝り、そのままその場を離れようとした時、

 ぶつかってきた男はそのままその場へ倒れ込み、叫び声を上げた。


 「ぐうっー 痛ってー、折れた! 骨が折れたかもしれねえ!」

 「大丈夫かマサオ? 今、救急車を呼ぶからな? やったのはこの姉ちゃんか?

 綺麗な顔してけっこうエグイことしてくれんじゃねえか!

 どうしてくれんだよこの怪我! 骨が折れてるってよー!」


 碧は怖くなり、早川に縋るしかなかった。

 

 早川が碧に追いつくと、間に分け入ってくれた。


 「どうしたの? 碧ちゃん」

 「何だテメエーは? この女の連れか?」

 「そうですけど彼女が何かしましたか?」

 「何かしましたかだあ? これを見ろ! 俺のダチがこの女に突き飛ばされたんだよ! 思いっきりな!

 どうしてくれんの? えっ! 落とし前つけろや! このメガネ豚!」

 「僕、見てましたよ。あなたたちが碧ちゃんにわざとぶつかって来たのを」

 「お前、俺たちに喧嘩売ってんの? この俺たちに?」

 「やられてえのかコラッ!」


 早川は怯むことなく淡々としていた。


 「言い掛かりは止して下さい。警察を呼びますよ」

 「警察でもなんでも呼べや! このブタ野郎!」


 早川がスマホに手をかけた瞬間、男がそれを取り上げ、アスファルトにスマホを叩きつけた。

 スマホのガラス面にひびが入った。


 するとその男が早川の腹を蹴り上げ、早川はそのままうずくまってしまった。

 サッカーボールを蹴るように、3人掛かりで蹲っている早川を蹴りまくった。

 早川は抵抗することができず、されるがままになっていた。


 碧は恐怖のあまり声も出せず、立ち尽くしたままだった。



 「碧ちゃん、ボク、ボクは大丈夫、だ、早く、早く逃げて!」

 


 それを見ていた周囲の人が警察に通報してくれたのか、パトカーのサイレンの音が近づいて来ると、男たちはたちまち逃げ去って行った。


 

 碧は早川に駆け寄った。


 「早川さん! 早川さん! 大丈夫ですか! しっかりして下さい!」

 「だ、い、じょう、ぶだから、さき、に、かえって、いい、です、よ・・・」


 やがて救急車も到着し、早川はストレッチャーに乗せられ、碧が付き添った。



 「ごめんなさい、ごめんなさい早川さん。私のために・・・」

 

 碧は顔を両手で覆って泣いた。


 「大丈夫、だよ、碧ちゃん、もう、泣かないで」

 



 病院に着くと、様々な検査が行われたが、特に異常はないということだった。


 会計の順番を待合所で待っていると、早川が言った。


 「大したことはないようだから、碧ちゃんはもう帰っていいよ、災難だったね? 今日は。ははははは」


 早川は笑っていた。



 「ごめんなさい。私のために。

 でもすごくうれしかった。早川さんが私を庇ってくれた時、胸がキュンとしちゃった。

 体がよくなったら、改めてデートして下さいね? お願いします」

 「遠足じゃなくて、デート?」

 「もちろんですよ、今度はデートでお願いします」

 「ヤッター! 碧ちゃんとデートだあ!」

 「そんなに喜ばなくても」


 碧はうれしかった。

 命懸けで自分を守ってくれた早川の行為が。



 しかし、その時の早川の目は冷酷に光っていた。


 (碧ちゃん、僕のことをそんなに甘く見ない方がいいよ。僕は狡賢いカジモドだから)


 何も知らない碧は、早川の背中を優しく摩り続けていた。




第7話

 生姜焼き定食のお盆を持ったまま、碧は都庁の食堂の中で早川を探した。

 早川は窓際の席にいて、いつものように大盛ランチを食べていた。


 「早川さん、ここ、いいですか?」

 「ああ碧ちゃん、どうぞどうぞ。

 今日は生姜焼きなんだね?」

 「土曜日はありがとうございました。

 まだ痛いですか?」

 「ううん、もう平気だよ。だからお腹も空いちゃって御覧の通りだよ」


 碧はホッとした。


 「それで先日のデートのお約束の件なんですけど、今度の土曜日はいかがですか?」

 「いいんだよ碧ちゃん、気を遣ってくれなくても。

 僕はエスメラルダには似合わない、カジモドだから。

 碧ちゃんのことはもう諦めるよ」

 「そんなことはありません! あの時の早川さん、とっても素敵でした! カッコよかったです!」

 「でもやられっぱなしじゃね? カッコ悪いよ」

 「いいえ、相手をやっつけるよりもカッコ良かったです。

 だって私を必死に庇ってやられたままだったんですから。

 ダメですか? 今度の土曜日は?」

 「本当に僕でいいの? じゃあ上野に美味しい鰻屋さんがあるんだけど、碧ちゃんは鰻って大丈夫な人?」

 「はい、私鰻、大好きです!」

 「良かった。凄く美味しい鰻屋さんなんだ、ご馳走するよ」

 「いいえ、私にご馳走させて下さい。せめてものお礼です」

 「じゃあどちらが払うかは当日、ジャンケンで決めようよ。それじゃあ土曜日の11時に上野駅の中央改札で」

 「はい、楽しみにしています!」



 

 その鰻屋は創業100年を超える老舗の有名店で、有名人の常連も多く、不忍池の近くにあった。


 「子供の頃からよくここに来ていてね? 生きた鰻をそのまま捌くから1時間位待つんだけど、とても美味しい鰻なんだよ。タレも甘すぎないし。

 その間、何か摘まみながら少し飲もうか?」

 「素敵なお店ですね? おすすめは何ですか?」

 「そうだね? うな重はもちろんだけど、おつまみは鰻の骨煎餅とか「う巻き」がいいかな? あと肝焼きも美味しいよ、ちょっとほろ苦くて」

 「じゃあ私はそれと生ビールで」

 「そう? 僕は日本酒にしようかな。すみません、注文いいですか?」


 すると女将らしき上品な老婆が現れ、


 「これはこれは早川の坊っちゃん、いつもありがとう存じます」

 「女将、綺麗な人でしょう? 同じ役所の同僚の人なんです」

 「そうでしたか? ではただいま準備をしてまいりますのでしばらくお待ち下さい」

 「凄いのね? 早川さん、ここのお店の常連さんなの?」

 「祖父の代からのね? だから小さい時から僕のことは知っているんだよ、あの女将さんは」


 早川はこう見えて、幼稚舎からずっと慶応で、法学部の出身だった。

 晴子たちが早川の実家は都内でも名の知れた開業医で、お金持ちだと話していたのを碧は改めて思い出した。


 

 碧と早川は役所での人間関係などを肴に、鰻が出来上がるまでの時間を談笑して過ごした。



 「へえー、早川さんってバイオリンもやっていたんですか?」

 「母親が音大出のピアニストでさあ、それで無理やりやらされていたんだけど、僕には才能がないから音大には行けなかったんだ。

 母には凄く怒られたよ」

 「厳しいお母様なんですね? 私にはちょっと無理かなあ」

 「碧ちゃんなら大丈夫だよ。厳しいのは僕に対してだけだから。碧ちゃんにはやさしいお母さんだから。

 そうだ、今度ウチにおいでよ、両親にも紹介したいから」

 「それじゃあ今度お邪魔させてもらおうかしら?

 後でお母様の好物を教えて下さいね? ご用意して伺いますから」

 「いいよ、その時は僕が用意するから」


 碧は考えていた。

 浩二のようなイケメンは浮気の心配が絶えないが、早川にはその心配はない。

 結婚相手の選択としては悪くはないかもしれない。

 男は顔ではなく、経済力とやさしさで選ぶべきだと。



 「ごめんなさい、ちょっとお化粧直してきますね?」

 「この先を右だから」

 「はい」



 それを待っていたかのように、早川はポケットから素早く薬瓶を取出し、周囲に気付かれないように碧のビールにそれを入れた。



 碧が化粧室から戻ってくると早川は言った。

 

 「鰻重の特上にしたんだ、さあ食べて食べて、それでは改めて、カンパーイ!」


 碧は言われるままにグラスを空けてしまった。


 


 お会計の時、碧が支払いをしようとすると早川がそれを制した。


 「僕はカジモドだからここは僕が払うよ」

 「そんな、私が誘ったのに悪いわよ」

 「いいの、いいの。こんなのを考えれば安いものだよ」

 「これからのこと?」



 碧はすっかり早川のことを見直していた。

 これから早川の酷い仕打ちが待っているとも知らずに。




 店を出ると、碧は激しい睡魔に襲われ、足元がふらついてきた。


 「大丈夫? 碧ちゃん?」


 早川のニヤケタ顔が見えたが、碧はそこから記憶が消えた。




 気が付くと、碧は全裸のままラブホテルのベッドに寝かされていた。


 そしてそこにはビデオカメラを構えた早川が立っていた。



 「素晴らしい作品が撮れたよ、碧ちゃん主演の凄いAVがね? うふふっつ」

 「私に何をしたの!」


 碧は叫び、早川からカメラを取り上げた。

 まだ意識が朦朧としていたので、碧は足がもつれ、床に倒れてしまった。


 すぐにトイレに駆け込み女性器に手をやると、精液のぬめりが残っていた。

 碧は青ざめ、何度もビデを使い局部を洗った。



 「警察に突き出すからね!」

 「いいよ、その代わりこの動画をネットに晒すから。

 すでに都庁のサーバーにはダウンロードしておいたから、それを壊しても無駄だよ」


 碧はカメラを床に叩きつけた。

 カメラのレンズがはずれて床を転がって行った。



 「どうして! どうしてこんな酷いことをするの!

 私に何の恨みがあるの!」

 「恨み? そんなのないよ。だから言ったでしょう?

 僕は醜いカジモドだって。

 でもあのカジモドは心のやさしい良いカジモドだけど、僕は心も醜いカジモドなのさ。

 ディズニーでのお礼だよ、僕からの」

 「まさかあの時の3人組って、お芝居・・・」

 「今気付いたの? もうバレているのかと思って冷や冷やしていたけど、本当に碧ちゃんてお人好しだね?

 だって顔とか蹴ったり殴ったりしていなかったでしょ?

 どこも怪我していないし。

 本当はもっとめちゃめちゃにしてくれって頼んでいたんだけどね? 手加減されちゃった」


 早川は不気味に笑っていた。


 碧は裸のまま、早川を殴り、蹴りつけた。

 何度も顔面を拳で殴りつけ、醜く突き出た腹を蹴り上げた。


 だが驚いたことに早川は寧ろそれにエクスタシーを感じているようで、射精までしていた。


 「この変態!」

 「もっと虐めてよ、碧ちゃん。もっと僕をお仕置きして。

 僕はいつもママにこうされて育ったんだ。

 女王様、悪い僕をもっと虐めて下さい。うへへへへ」



 早川のその態度に碧は嘔吐した。碧は絶望し後悔した。この男に騙された自分に。


 早川は涎を垂らしながら自分のペニスをしごき続けた。




第8話

 悪夢から2か月が過ぎた。

 早川を役所で見かける度、碧は殺してやりたい衝動に駆られた。

 だが早川は、逆に碧に小さく手を振る有様だった。


 

 生理が遅れていた。

 ドラッグストアで妊娠検査キットを購入し、トイレに籠った。

 

 陽性だった。


 あろうことか、碧はカジモドの子を身籠ってしまったのだ。

 碧は絶望した。


 レイプされ、それがあの早川の子供・・・。

 それでも碧は堕胎だけは考えることが出来なかった。


 (赤ちゃんを殺すなんて絶対に無理・・・)


 となると選択肢は2つ。


 ひとつはシングルマザーとして、自分が子供をひとりで育てること。

 そしてもうひとつは早川との結婚だ。


 鰻屋まではその可能性もなくはなかったが、あの事実の後ではそれを想像するだけで吐き気がし、鳥肌が立った。



 碧は念のため、産婦人科を受診した。



 「おめでとうございます、ご懐妊ですね?」


 白髪混じりの女医は、そう言って微笑んだ。


 「今日はおひとりで?」


 碧は無言で診察室を後にした。



 会計を待っていると、うれしそうに看護師と話をしている、40代位の女性がいた。


 「良かったですね? 赤ちゃんが出来て」

 「不妊治療をして5年よ、5年。

 主人とも諦めかけていたの。だからすごくうれしくて」


 感極まり、妊婦は泣いた。


 碧はその光景を複雑な心境で眺めていた。


 望まれて生まれてくる子供とそうでない子供。

 碧は自分のお腹にそっと手を置いた。


 あの日のことは早川と碧しか知らない。

 警察に被害届を出さなかったのは、その事実が職場に広がり、自分も好奇の目で見られることをおもんばかったからだ。

 両親のことや世間体を考えれば、早川との「出来婚」がこのお腹の子にとっても一番いい選択なのは分かっている。

 だがあの変態ドM男の早川が夫? この子の父親? それだけは絶対にイヤだ。

 99.9%、その選択はあり得ないと碧は思った。


 碧は父親が誰かを伏せたまま、この子を産むことを決意した。




 碧は新宿駅西口の喫茶店に早川を呼び出した。


 「どうかしたの? 碧ちゃんが僕に会ってくれるなんてうれしいよ」

 「私、妊娠したの。あんたの子供。

 どう責任を取ってくれるのよ!」

 「ホント? ホントなの?

 うれしいよ碧ちゃん、結婚しよう。結婚しようよ僕たち!

 そうなんだ、出来たんだ? 僕と碧ちゃんの赤ちゃんが!」


 碧は自分のお冷を早川の顔に掛けると、怒りに震え、言った。


 「アンタのお陰で私の人生は滅茶苦茶よ!

 誰がアンタみたいな変態と結婚なんてするもんですか!」


 碧はもしもここに拳銃があれば、間違いなくこの男を射殺していたはずだ。



 「どうしてくれるの? 私とこの子の人生!」

 「僕が責任を持つよ」

 「どうやって?」

 「僕が君たちの経済的な援助を一生約束する」

 「そんなの当然でしょう!

 それから撮った画像はすべて渡して!

 そしてもう二度と私たちの前に現れないで!」

 「わかったよ、そうするよ」

 「アンタはバカよ、あのまま鰻屋さんで別れていれば、そうなる可能性だって十分あったかもしれないのに! 

 どうしてあんなことしたのよ!」

 「僕は碧ちゃんと結婚したかったんだ。お嫁さんになって欲しかったんだ。

 でも、こんな僕じゃ相手になんてしてくれないと思った。だから、だから僕・・・」


 早川は泣いた。


 「僕がこんな大人になったのは、ママのせいなんだ。

 パパには愛人が何人もいて、ママは僕に異常なまでに執着したんだ。

 「智之さん、そんなことをしてはダメよ!」「智之さん、それは下等な人間のすることです!」そうして僕は育ったんだ。

 あれもダメ、これもダメってね?

 僕はママの大事なペットだったんだよ。

 教えてあげようか?

 僕の最初の相手はね? 僕のママだったんだよ。

 そして僕をあんな風に調教したんだ。

 だからいいんだよ、僕をうんと軽蔑してくれても。

 僕は正常な感情のない、お人形だから」


 すると早川はポケットから財布を取出し、アメリカンエクスプレスのブラックカードをテーブルに置き、さらにUSBメモリーを碧の前に置いた。


 「暗証番号は碧ちゃんの誕生日にしておいたから。

 そしてこれが例のものだよ、コピーはしてはいない、信じて欲しい。

 役所のサーバーにダウンロードしたというのは嘘なんだ。ごめんなさい」

 「私もバージンじゃないわ、別に自分の裸をネットに晒されても平気。

 それでアンタを豚箱に閉じ込められるのなら、それもいいと思った。

 でも、出来なかった・・・」



 碧はカフェモカをスプーンでかき混ぜながら、上目遣いに早川を見た。


 「ねえ、もしもよ、絶対にありえない話だけど、もしも私がアンタと結婚したとして、約束出来る?

 1つはセックスはしない、寝室は別にすること。そして私が何をしようと干渉しない。

 つまり私が誰と寝ようが文句を言わない。

 そして私たち親子のために一生、私たちの奴隷になるの。どう? 出来る?」

 「約束するよ! どんなことでもする! 碧ちゃんと赤ちゃんと一緒に暮らせるならそれでいい!」


 碧は自分でも信じられない事を口走ってしまったと驚いていた。


 「じゃあいいわ、あんたと結婚してあげる。

 その代わり、口約束じゃダメ、誓約書を書いて頂戴」



 0.1%の奇跡が起きた。

 碧は早川との結婚を決めた。 




第9話

 碧の気持ちは鉛のように重かった。


 今日はこれからお互いの両親へ、結婚の報告に行くことになっていたからだ。

 クルマのハンドルを握りながら早川が言った。


 「僕。今日、碧ちゃんのご両親に会うのが楽しみだよ」


 後部座席の碧は早川の頭を拳で叩いた。


 「浮かれてんじゃないわよ! この豚メガネ!

 よくもそんなことが言えたわね! ひとの気も知らないで!」

 「ごめんなさい」


 うれしそうにしている早川を見て、碧は呆れた。


 「この変態ドM!」



 だがその罵倒は早川には逆効果だった。

 彼はより一層、悦に入っていた。


  


 碧の実家に着くと、父も母も玄関で碧たちを出迎えてくれた。

 ふたりとも凄くうれしそうだった。


 もちろん結婚については事前に母にだけは話しておいた。



 「良かったじゃないの碧! 同じ都庁の人ならお母さんも安心よ。結婚するには公務員が一番!」


 母はそう言って喜んでくれた。



 

 「ようこそいらっしゃいました! さあどうぞどうぞ、おあがり下さい!」


 碧は思った。


 (私のことをこんなにも心配してくれていたのね?)




 出前の寿司桶を中心にして、母の自慢の手料理が並んだ。


 それをブタのように食べている早川。

 


 「この筑前煮、お母さんが作ったんですか! すごく美味しいです!

 いいなあ、碧さんは毎日こんなに美味しいご飯を食べて育ったんですね? 羨ましいなあ」

 「たくさん食べて下さいね? 早川さんのお母さんに比べたら私のお料理なんて田舎料理ですけど」

 「とんでもありません! 母は料理をしない人なんです。

 ピアノを弾くので料理とか家事は一切しないんです。

 だから僕は「おふくろの味」を知りません。食事はいつもお手伝いさんが用意してくれます。

 いいですね? これが家庭の味なんですね?」

 「そうでしたか? お手伝いさんがお食事を」


 父も地方公務員だったので、早川との結婚には大賛成だった。

 

 「お父さんのお仕事は何をされているんですか?」

 「都内で開業医をしています」

 「それは大したものですね? お医者さんなんですか?」

 「ただの産婦人科医です」

 「碧、お式の準備は進んでいるの?」


 早川にお茶を注ぎながら母が言った。


 「これからよ、向こうのご両親とも相談しないと」

 「それもそうね? 早川さんのところはお付き合いも広いでしょうしね?」


 碧の気持ちは複雑だった。

 

 すると突然、早川は箸を置いて両親に頭を下げた。



 「お父さん、お母さん。僕は碧さんを必ずしあわせにします。

 碧さんを僕のお嫁さんに下さい」

 「娘をよろしくお願いします」


 父は少し寂しそうだった。

 これが娘を嫁がせる父親の気持ちなのだろう。





 早川の実家へ移動のクルマの中で碧は思った。


 (これで良かったのよ、親孝行が出来たんだから)


 碧は自分にそう言い聞かせた。

 これがお腹の子の父親を伏せたまま、シングルマザーへの道を選んでいたら、間違いなく両親は落胆しただろう。

 「私の選択は間違ってはいなかった」と、碧は思った。



 「碧ちゃん、本当に赤ちゃんのことは言わなくて良かったの?」


 碧は後部座席から早川のシートを蹴った。


 「「私はこの男に無理やりレイプされて妊娠してしまいました」って言うのかコラ!

 殺すぞテメー!」

 「ごめんなさい」


 流石の早川も、今度ばかりはシュンとしていた。




 早川の実家に着くと碧は驚いた。


 「ここが僕の実家なんだ」


 そこはまるでヨーロッパの貴族の館のような屋敷だった。



 「お前、こんな家に住んでいるのか?」

 「大きいだけの人形のお家だよ」


 早川は寂しそうに言った。



 両開きの大きな玄関扉を開くと、12帖ほどの吹き抜けがあり、そこは大理石が敷き詰められたエントランスホールになっていた。


 天井からはスワロフスキーのシャンデリアが吊るされ、コンソールには壮麗な華が生けてあった。



 「土足なんだ、そのままどうぞ」

 「なんて広い玄関ホールなの?」

 「よく人を呼んでパーティーをするからね、ここはその時のウエイティングエリアでもあるんだよ」



 すると50歳台くらいの能面のように無表情な顔をしたお手伝いさんが現れた。

 彼女はニコリともせずに言った。


 「お帰りなさいませお坊っちゃま。奥様たちがお待ちです」

 「ただいま早苗さん。こちらが僕のお嫁さんになる碧さん、よろしくね?」

 「かしこまりました。北村と申します」

 「碧です、こんにちは」


 

 早川の両親はサロンにいた。


 「ようこそ碧さん! 智之の父です。

 凄い美人じゃないか! 智之。

 良かったな? こんな素敵な人が我が家にお嫁に来てくれて!」


 早川は黙ったままだった。


 「はじめまして、碧と申します」

 

 義母は憮然としていた。



 「智之の母、麗子です。

 どうぞこちらへ。お茶の用意が出来ておりますので」


 夥しい高価な調度類、美術品の数々。そして中央に置かれたグランドピアノはスタインウエイ製のピアノだった。



 「このお紅茶はロンドンの友人から贈っていただいた物なの。

 ご存知かしら? ハロッズの『アフタヌーン・ティー・ドリーム』を。

 私、これが大好きなの」

 「お母様はピアニストをされていると伺いましたが、素敵ですね? いつもお家にピアノの音が流れているなんて」

 「私のピアノはそんなレストランで弾くような、下劣なものではありません。

 私は音楽家なのですから。

 言葉を慎みなさい」

 「失礼いたしました」


 すると早川の父親がフォローしてくれた。


 「うちのヤツのピアノは凄いんですよ、私は音楽のことは全然ダメなんですが、まるでクラッシックのCDを聴いているのかと思うほどです。

 まあプロだから当たり前なんでしょうけどね?」

 「プロとはいってももう昔のことですけれどね? 碧さん、お紅茶のお替りをどうぞ」

 「ありがとうございます。すごく芳醇で上品な香りがします」

 「昔はこのお紅茶も三越にもあったんですけどね? 今は国内では手に入らなくなってしまって。

 ところで碧さん、お式のことはこちらで段取りいたしますから、もちろん費用は全額こちらで持たせていただきます。

 招待客もかなりな方々がおいでになりますので、いろいろと細かいもありますので」

 「お任せいたします」


 碧にとっては式などはどうでもよかった。

 もちろん結婚式自体もあくまで形式だけのことだったからだ。



 「まさかとは思いますけど、赤ちゃんがお腹にいるなんてことはないわよね?」

 

 麗子が碧のお腹を見て言った。

 碧は黙っていた。


 すると早川が言った。

 

 「ママ、碧ちゃんは妊娠しているんだ」


 すると義母の麗子の瞳が冷たく光った。


 「まったく最近の若い人たちは物事の順序というものをわきまえないんだから。

 私たちの頃には考えられないことだわ。恥ずかしい、結婚式もまだだというのに何をしているのあなたたちは!」


 碧はその時、真実を暴露しようとしたが我慢した。



 「まあいいじゃないか、それだけ早く孫の顔が見れるんだから。

 今、何週目だね?」

 「12週目になりました」

 「そうですか? 大事にして下さいね?

 ところでどこのクリニック?」

 「伊藤咲江先生のクリニックです」

 「ああ咲江先生ね? 咲江先生なら大丈夫だ、優秀な先生だから安心だよ。僕もよく学会でご一緒するんですよ」

 「そうでしたか? とても親切な女医さんです」


 碧は安心した。

 義父に自分の股を見られることには抵抗があったからだ。

 

 だが義母の麗子だけは呆れ顔のまま、それ以上何も言わなかった。


 碧は先が思い遣られると思った。


 碧は姑の麗子とは距離を置くことを決めた。




第10話

 結婚式は椿山荘で行われた。

 数人の音楽仲間の招待客を前に、麗子はボヤいていた。


 「本当は帝国か、リッツカールトンにしたかったんですけれど、急なことでしたので予約が取れなくて。

 ごめんなさいね? こんなところで」

 「仕方がありませんわよ麗子様。

 私も主人に頼んでみたんですけれど、お役に立つことが出来ずに申し訳ありませんでした」


 (国会議員の三峰みつみねさんならそんなことは造作もないはず、本当は何もしてはくれていないくせに、よくもいけしゃあしゃあと)


 麗子は三峰夫人の話を無視した。



 「今の若い人たちは物事には順序というものがあるのをご存知ないようですわ。

 大切な第一楽章を飛ばして、いきなり第二楽章ですもの。何を考えているのやら。お恥ずかしい限りですよ、まったく」

 「いいじゃございませんの早川様の奥様。

 早くお孫さんのお顔が見れるんですから。

 うちの幸次なんてまだお付き合いしているお嬢さんもいないんですのよ、毎日研究ばかりに没頭して。

 誰か素敵な方、ご存知ありません?」

 「碧川様の奥様、イケメンで頭脳明晰、幸次さんは将来の医学部教授を約束されたような方じゃありませんか?

 あの若さで医学部の准教授ですもの、 お母様がご存知ないだけじゃございませんの? 世の女性たちが放っておくわけがございませんわ。今はどちらに?」

 「ペンシルバニア大学の方に勉強に行っているんですけど、日本に帰って結婚をして、早く親を安心させてくれないと。

 長男ですからね? 幸次は」



 麗子はそんな女たちの自慢話にうんざりしていた。


 (何よ偉そうに。 所詮は地方出身の田舎成金のくせに)


 「早川さん、お孫さんにはやはり音楽を?」

 「まだわかりませんわ、半分は早川の血ですけれど、もう半分はお嫁さんの血ですから」

 「いずれにせよ、麗子様がご指導されるのであれば楽しみですわ。

 将来はきっと世界的なピアニストになるはずですわ」

 「そうですよ麗子様! 間違いなく天才ピアニストになると思いますよ! だって私たちの憧れ、麗子様のお孫さんですもの! オッーホッホッホッ」


 麗子は笑わなかった。


 「天才は努力でなれるものではありませんからね? それは神様がお決めになることですから」


 (あんなふしだらな嫁の子が天才? 冗談でしょう?)




 「はい碧! こっち向いて。

 とっても綺麗、今度はこっち、はいポーズして。

 いいわ、すごくいい!」


 純白のウエディングドレスを纏った碧はとても輝いていた。


 「でもまさかお相手があの・・・。

 ごめんなさい、男は顔じゃないわよね? まさに『美女と野獣』、しあわせになってね、碧」


 親友の晴子は涙ぐんでいた。


 (晴子、ゴメンね? これだけはたとえあなたでも話せないの。早川にレイプされて子供が出来て、それで仕方なく結婚したなんて・・・)



 椿山荘のチャペルのバージンロードを父親にエスコートされ、碧は祭壇に向かって歩き出した。


 そして祭壇の前で神父の誓いの言葉を聞いた時、碧は嗚咽した。


 それはこの結婚が、碧にとって望んだ結婚ではなかったからだった。

 だが、列席者たちの多くはそれが碧のうれし泣きだと勘違いし、もらい泣きをしている者もいた。


 その時、お腹の子供が碧のお腹を蹴った。

 碧はそっとお腹に手を当て、心の中で呟いた。


 (大丈夫、あなたはママが守るからね?)


 

 神父が早川に訊ねた、


 「あなたはこの女性を、妻として一生愛し続けますか?」

 「あ、は、はい。ち、誓います」


 と、早川は泣きながら言った。


 「碧さん、あなたはこの男性を、生涯夫として愛し続けることを誓いますか?」


 碧は即答することが出来ず、少し間を置いてから答えた。

 自分を納得させる時間が必要だった。


 神父は聞き取れなかったのかと思い、再び訊き直した。


 「はい・・・、誓います」


 (神様、ごめんなさい。私はこの男を愛することは出来ません)



 碧が神に誓ったのは、このお腹の子を守り育てるということだった。



 「それでは指輪の交換を」



 早川の誓いの口づけの時、碧は吐き気がするのを必死に堪えた。

 それはまるで「セカンド・レイプ」のようだったからだ。



 聖歌隊の歌う讃美歌が流れ、碧と早川、そしてお腹の子供との三人の、奇妙な共同生活が始まった。




第11話

 新居には海の見える汐留のタワーマンションを義父が買い与えてくれた。


 「碧ちゃん、この段ボールはどこに置けばいいの?」

 「それはキッチン、そしてこの段ボールは私の部屋へ持っていけ」

 「はい、わかりました」



 碧が早川の部屋を覗くと、たくさんのヱヴァンゲリヲンのフィギュアが見えた。



 「なんだこれ? おまえ小学生か?」


 碧が綾波レイのフィギュアを掴んだ時、早川が叫んだ。


 「僕のレイちゃんに触らないで!」

 「だったら鍵でもかけておけ! この変態ドMブタ!」



 碧はそれを早川に向かって投げつけた。


 慌ててそれをキャッチする早川に碧は呆れた。




 掃除や食材の買い出し、食事の後片付けはすべて早川にさせたが、料理と洗濯だけは碧が自分でした。


 料理に何を入れられるかわからないし、洗濯は下着などを早川に触らせたくはなかったからだ。


 もちろん寝室は別々。リビングは碧が占領し、早川は6帖の自室に籠っていた。



 碧はこのタワマンが気に入っていた。

 東京駅や銀座にも近く、新橋、ゆりかもめにも便利で、都庁への通勤へも楽だったからだ。

 職場の同僚も比較的少ないこともあり、碧にとっては都合がよかった。




 臨月になり、碧の出産が近づいていたが初産ということもあり、予定日からはすでに1週間が経過していた。

 碧は多少の運動も兼ねて自室の片づけをしていると、突然陣痛に襲われた。

 すぐにタクシーで病院へ向かった。



 一応、早川にはラインをし、母には電話をした。



 「お母さん、これから病院に行くね?」

 「そう、がんばるのよ碧、私たちもすぐに行くからね!」


 早川も息を切らせて病院にやって来た。



 「碧ちゃん大丈夫! 痛いよね? 痛いよね?」

 「痛いに決まってんだろう! お前が代われよ! このブタ野郎!」




 破水するまでにはかなりの時間を要したが、碧は無事、男の子を出産をした。

 早川の喜びようは異常なほどだった。


 「かわいいね、かわいいね!

 ありがとう、碧ちゃん! 産んでくれて、本当にありがとう・・・、ううううう」


 そう言って早川はわが子を抱いて泣いた。


 

 「とてもきれいな顔の赤ちゃんね? バアバとジイジですよー。

 早く一緒にお散歩しましょうねー?」


 初孫ということもあり、両親もとてもうれしそうだった。




 晴子もすぐに来てくれた。


 「すっごくかわいいねー⁉ ジャニーズに入れちゃおうよ、碧。

 ああ~、私も早く子供が欲しくなっちゃった!」

 「結婚すればいいじゃない、あのハイスペックな彼と」

 「それがさあ、色々とあるのよ私たちも。

 ウチの親が中々許してくれなくってねー。

 彼、弁護士志望で未だに司法浪人中でしょう? 

 就職もしないでバイト生活だから、私の親の受けが悪いのよ。

 結婚したら私が彼を養ってあげて、司法試験に集中出来るようにしてあげたいんだけどね?」


 晴子は真面目にそう言った。




 翌日、義母の麗子もおっとり刀でやって来た。


 麗子は真っ先に子供の小さな指に触れ、うっとりとしてこう言った。



 「まだ小さいけれどいい指をしているわ、これはピアニストの指よ」


 名前を智樹と名付けたのは義母の麗子だった。


 

 「孫の名前はもう決めていますからね?

 大事な早川家の跡取りですから、智之の智と大樹のような大物に育つようにとの願いを込めて、智樹にしましたから異存はないわね? 碧さん?」


 麗子は「智樹」と書かれた命名書を息子である早川に渡した。



 碧は名前などどうでもよかった。

 ただうれしかった。自分の子供が無事に生まれて来てくれたことに。

 碧はそれを承諾した。



 「智樹、私がママよ」


 智樹を抱いた碧は、慈愛に満ちた母親の顔になっていた。




第12話

 このおかしな家庭の中で、智樹は5歳になっていた。

 麗子は智樹の才能に歓喜していた。


 「智樹は神の子よ! まだ5歳なのよ! たったの5歳!

 この子は間違いなく世界的なピアニストになるわ!

 碧さん、これは凄いことなのよ! もう私では手に負えないから黒川先生にプライベートレッスンをお願いすることにしましたからね?

 月曜日と木曜日は黒川先生のところに智樹を連れて行って頂戴。

 ねえ碧さん、この家で一緒に同居しない? そうすればわざわざ通うこともないし、私も智樹のピアノをもっとよく指導することが出来る。

 ねっ? そうしなさいよ。それが智樹の将来の為になるんだから」


 いくら智樹のピアノの才能を開花させるためとはいえ、この義母との同居などあるわけがない。

 碧はきっぱりと言った。


 「私の仕事のこともありますし、それはいたしかねます」

 「じゃあ智樹だけでもここに住まわせたらどうかしら? 私はそれでも構わなくてよ」

 

 麗子は完全に智樹の才能に狂喜していた。

 母親の碧と引き離してまでも、ピアニストに育て上げたいという我儘な執念に碧は困惑した。


 「ねえ智樹? このおウチでバアバと寝んねしましょうね?」

 「イヤ・・・」


 智樹ははっきりとそれを拒否した。

 それは幼児の言葉ではなく、しっかりとした大人の口調で。


 義母はがっかりしていた。




 智樹はピアノに向かい、いつの間に覚えたのか? ベートーベンの『月光ソナタ』を弾き始めた。


 ベートーベンが叶わぬ恋のために書いたというこの切ないソナタ。

 羽毛のようなタッチで鍵盤に触れる智樹、スタインウエイのピアノはそれに応えた。


 瞳を閉じると月の光が窓から差し込み、ピアノを弾く智樹を照らしているかのようだった。

 麗子は恍惚とした表情を浮かべ、碧に言った。


 「すばらしい・・・。碧さん、いいわね? 同居の件。

 もしダメなら、智樹は責任を持って私が育てますから」


 碧は自分の耳を疑った。


 (義母は完全に狂っている。この母親が智之という異常な精神を持った大人を作り上げてしまったのだ。

 智樹を絶対に早川のようにはさせない)


 碧は黙っていた。

 それは姑の麗子に対する無言の抵抗であった。




 その夜、自宅に帰ると碧は今日、麗子から言われたことを早川に話した。


 「同居なんて絶対にありえないからね! お前の親だろう? お前がなんとかしろよ!」

 「碧ちゃん、そんなの無理だよ。ママは言ったら絶対に聞かない人だから。

 碧ちゃんだって分かっているでしょう? ママはモンスターなんだよ」

 「わかった、じゃあ離婚しよう離婚。

 私と智樹でここに住むから、お前は実家に戻ってママのオッパイでも吸ってろ!」


 早川は泣きそうな顔をしていた。


 「なんとかしてみるよ・・・」

 「当たり前だ、バカ!

 智樹は私の子供なのよ! 確かに智樹にはピアノの才能があるけど、あの人のじゃないんだから!」


 (義母の好き勝手には絶対にさせない。智樹は私の大事な息子なんだから)



 碧の膝で眠る、智樹のサラサラな栗毛を撫でながら、碧はそう誓った。




第13話

 同居の件はひとまず有耶無耶になった。


 碧は早川の嫁になるために結婚したわけではない、レイプ犯の親に気を遣う筋合いなど何処にもないのだ。

 それで本当に揉めるのであれば、真実をぶちまけるしかない。

 碧はそう考えていた。



 碧は自由だったが、かと言って奔放に遊び歩くでもなく、普通に仕事と育児を両立して過ごしていた。

 そして智樹の成長が碧の喜びであり、生き甲斐だった。


 まるで貴族のような知性のある顔立ちとずば抜けたピアノの才能。

 母親として碧の期待は高まるばかりだった。


 そんな碧ではあったが、唯一の楽しみがあった。

 それは智樹のお迎えを早川にやらせる金曜日、仕事帰りに立ち寄るポルトガル・バルでのひと時だった。


 店内にはポルトガルの民族音楽、ファドが流れ、そこは日常を離れた別世界だった。



 「セルベッサー、ポールファボーレ(ビールを頂戴)」

 「シー、セニョリータ!(はい、お嬢様)」

 「セニョリータじゃないけどね?」


 碧とオーナーのロドリゲスは笑った。



 ハモンセラーノにフェジョアーダ、そしてサフランの効いたパエリアを注文し、お酒はシェリー酒の「ドン・ゾイロ」にした。


 碧が食事を楽しんでいると、テーブルの横をスーツ姿の男性が通って行った。


 碧の食事をする手が止まった。それは別れた浩二がいつもつけていた、「マキュワベリ」のムスクの香りだったからだ。

 日本では販売されていないはずの特異な香り。

 それは浩二がヨーロッパに出張した際に買って来たコロンだった。



 「この香り、いいだろう? ムスクだからムラムラするか? 碧?」

 

 浩二はそんな馬鹿げた話をしていたが、欲情したのは事実だった。

 不思議な香り。


 「これがフェロモンという物なのかしら? この獣臭のような独特の香り・・・」


 碧は浩二に抱かれる度にこの香りに酔いしれた。

 あの時のセックスの情景がこみあげて来る。


 もちろんもう浩二には何の未練もなかったが、なぜかあの香りからの呪縛が未だに解けていないことに碧は戸惑った。

 碧はその男性を目で追い続けた。



 彼は50代の白髪混じりの紳士で、スポーツジムにでも通っているのか、背広の上からでも鋼のように鍛え抜かれた肉体が想像できた。


 鼻が高く、気品のある顔立ち。

 彼は一番奥のテーブル席についた。



 その男性も碧と同じものを注文しているようだった。

 



 1時間ほどして、その男性が伝票を持ってレジへ向かう途中、碧のテーブルで立ち止まった。


 「あなたも同じものを? ここのハモンセラーノとフェジョアーダ、そしてパエリアは最高ですよね? そしてこれにはドンゾイロがよく似合う」


 それだけ言うと、彼はそのまま会計を済ませ、ロドリゲスとスペイン語で何か話した後、そのまま店を出て行った。


 

 碧は会計の時、ロドリゲスに訊ねた。


 「さっきのお客さんはどなた?」

 「ああ、霧島社長さんね? たまにフラッと寄ってくれるんだけど、貿易関係の仕事をしているらしいよ。

 はい、おつり」


 それが碧と霧島の初めての出会いだった。




第14話

 あのムスクの香りが碧を支配していた。


 もう一度あの香りに会いたい。

 霧島のムスクの香りに。



 毎週金曜日、碧はロドリゲスの店に通った。

 だが霧島と遭遇することはなかった。


 


 8月に入り、霧島のことを諦めかけていた時、店のドアが開き、霧島が店に入って来た。


 「また例のやつですね?」


 碧は飛び上がりそうになるくらいうれしかった。

 霧島はほんのりとあのムスクの香りを纏って、碧の前に再び現れたからだ。


 「こんばんは。やっぱりこの組み合わせになっちゃいました。

 でも今日はドンゾイロではなく、なんとなくマテウスのロゼの気分でした」

 「マテウスも合いますよ。おひとりですか?」

 「ええ」

 「そうですか? では、ごゆっくり」


 そう言って霧島が碧のテーブルを離れようとした時、碧は思わず霧島を呼び止めた。


 「もしご迷惑でなかったら、一緒にどうですか?」


 ワインの酔いも手伝って、碧は勇気を出して自分から霧島を誘った。


 「よろしいんですか? 私のようなオヤジが御一緒しても?」

 「話し相手になって欲しいんです。ひとりで飲んでいるとやるせなくって」


 霧島はテーブルにつき、ロドリゲスを呼んだ。


 「僕にも同じものを」

 「シー、セニョール!(はい、旦那!)」



 碧は胸の鼓動が霧島に聞こえるのではないかと思うほど、緊張していた。

 やさしく、そして淫靡に襲い掛かるマキュワベリ・ムスクの香り。

 今すぐにでも抱かれたいと思うほど、碧は欲情していた。


 それは並みの男では決して似合わない香りだった。

 謎めいたダンディな霧島にしか合わない香り。


 香りとは不思議なもので、それは服にも似ている。

 どんなに素敵な香りでも、香りが人を選ぶからだ。


 マリリン・モンローがつけるからシャネルの5番が栄えるのであって、渋谷の女子高生がつけても似合うものではない。

 このムスクは霧島のためにあるような香りだった。

 それは若い浩二にも似合わない、魅惑の香りだった。



 「今日はツイているようだ。あなたのような美人とお話が出来るなんて」


 霧島は碧に名刺を渡した。



 「初めまして、霧島と言います。

 あっ、初めてじゃないですよね? これで2度目だった。あはははは」


 霧島は楽しそうに笑った。



 「早川碧です。人妻です、一応」


 碧は結婚指輪を見せた。


 「わかってました。左手の薬指に指輪があるのは。

 それで声をかけるのを躊躇いました。美人な人妻さんに不謹慎だと」


 碧がいつも指輪をしていたのは、変な男に関わりたくないのと、くだらない男にナンパされても「これなんで」とあしらうことができたからだった。

 もちろん早川を愛しているわけではない。



 「霧島物産? 社長さんなんですね?」

 「社長と言っても渾名みたいなものですよ。ウチの連中はみんな有能なやつらなんで、私はこうして遊んでいられるワケです。

 所詮、社長は交通整理のお巡りさんのようなもので、社員が楽しく、自分の能力を開花してもらう環境を作るのが私の役目です。

 彼らには感謝していますよ、会社というよりも家族かな?」

 「いい会社ですね? 家族だなんて」

 「碧さんは専業主婦といった感じには見えませんが、銀行とか役所とかですか?

 どうです? 当たっていますか? 僕の推理は?」

 「そんな風に見えますか? 真面目なお仕事をしているように?

 私はただのですよ。クスッ」

 「そうは見えないなあ?」

 「霧島さんの推理、当たってますよ。

 公務員です、これでも」

 「やっぱり。僕は人を見る目はあるんです。特に女性に関しては」

 「霧島さん、ご家族は?」

 「いません、今は。

 家族から愛想をつかされてしまい、今は独り暮らしです」

 「霧島さんって、女性にモテそうですもんね?」

 「いえいえ、そんなことはありません。

 ただ私の思い遣りが家内に足りなかっただけです。悪い事をしたと反省しています」


 霧島はそう言って、寂しそうにワインを飲んだ。


 碧は話題を変えた。


 「霧島さんはスペイン語も出来るんですか?

 先日、ロドリゲスとスペイン語でお話ししているところを見ていたもので」

 「ああ、仕事でスペイン語圏に行くこともあるので、いつの間にか覚えました。

 でも僕のスペイン語なんて適当ですよ、適当。

 スペインに行ったのはマドリードとかではなく、ジブラルタル海峡のセウタですから。

 それからカナリヤ諸島のラスパルマスにも行ったかな? 

 いいですよね? ラテン系の国は明るくて陽気で。人間的にはかなり適当ですけどね?

 一緒にビジネスはしたくはないですが、友人としては最高です」

 「海外といったら、私はハワイとオーストラリアくらいしか行ったことがありません。

 いいなあ、スペイン。行ってみたいなあ」

 「早川さんはまだお若いから、何度でも行くことが出来ますよ、スペインなんて」


 霧島はパエリアに添えられたレモンを絞った。


 「本当はレモンより、僕はライムの方が好きなんですけどね? 苦みが強くて」

 「私もそうです。私もライム派です。

 私と霧島さんって、気が合いますね?」

 「そうですか? それは光栄だなあ」


 そう言って霧島がワイングラスを口に運んだ時、再びあのムスクの香り漂って来た。



 「霧島さん、この後は何かご予定でも?」

 「いえ、家に帰って寝るだけです。古いイタリア映画でも見ながら」

 「よかったらジャズでも一緒にどうです? 久しく行ってないんですけど、近くに素敵なジャズ・バーがあるんです」

 「そうですか? ジャズかあ」

 「お嫌いですか? ジャズ」

 「いえ、好きですよ、懐かしいなあと思ってね? 最近聴いていないから。

 是非ご一緒させて下さい」


 碧は考えていた。もっと傍でこの香りに包まれたいと。

 碧はグラスに残ったワインを一気に空けた。




第15話

 「素敵なお店ですね? 久しぶりです、ジャズを聴くのは」

 「私もです。もう7年くらい前になります、このジャズ・クラブに来たのは?」

 「ご主人と?」

 「いえ、前に付き合っていたポンコツ、ロクデナシとです」


 霧島は笑った。


 「いいんですか? そんな想い出の場所に僕なんかと来ても?」

 「寧ろ助かりました。女性ひとりで来るには少し抵抗がありますから」

 「ビル・エヴァンスですか? 好きですよ、彼のジャズは」

 「私もです。

 決してでしゃばらない、押しつけがましくない自然な音。

 それでいて、ないと寂しい。

 そんなビル・エヴァンスの音楽のような男性がいるといいんですけどね?」


 碧は挑発するように霧島を熱く見た。


 「ご主人はそういう男性じゃないんですか? このビル・エヴァンスのような?」

 「全然・・・」


 碧はライム・ソーダの入ったグラスを見詰めた。

 気泡が氷の海を駆け上がって行くようだった。


 「それは寂しいですね? でも夫婦なんてそんなものかもしれません。

 自分の想いは中々相手には伝わらないものですから」

 「霧島さんの奥さんはどんな女性だったんですか?」

 「できた女房でしたよ、奥さんの鑑のような女性でした。

 料理はプロ級、家事全般はすべて完璧、子供の教育もきちんとしてくれていました。

 ただ・・・」

 「ただ何ですか?」

 「ベクトルが同じ方向に向いてはいなかった。

 私の生き方のベクトルと、彼女の人生のベクトルが・・・」


 霧島は遠い目をして、カナディアンウイスキーのクラウンロイヤルを喉に流し込んだ。



 「おそらく女房は普通の暮らしを望んでいたんだと思います。

 一般的な家庭の暮らしを。

 悪い事をしたと今でも反省しています。

 それは撚りを戻したいということではありません、私のような自分勝手な男が夫だったということに対してです。

 わかりますか? こんな男の気持ち?」

 「わかりません。私は女ですから。

 わかるのは奥さんの気持ちだけです。

 霧島さんを愛していたんだなあということだけはわかります。とても・・・」

 「どうしてですか?」

 「女だからわかるんです、男の人にはわからないでしょうけど?」

 「碧さんはご主人を愛しているんですか?」


 碧はライム・ソーダを呷った。


 「一度もありませんよ。

 私、夫にレイプされたんです。

 それで子供が出来て、止む無く籍を入れました。

 愛なんてあるわけがないじゃないですか!

 一緒に住んではいますが、寝室はもちろん別々、愛の欠片もありません」


 霧島は黙ってしまった。


 「ヘンですよね? 私」

 「いえ、それは辛いですよね? そんな男と一緒に暮らすのは」

 「辛くはないんです、アイツは私の召使ですから」


 碧は寂しそうに笑った。

 碧は霧島に体を寄せた。


 「今日は帰らなくてもいいんです。今度は静かな所で飲みませんか?」


 霧島は静かに碧の肩を抱いた。



 

 霧島の裸体から直に香るムスクの香りに碧は狂い、自ら霧島の上に跨り、腰を振っていた。

 忘れかけていたセックスの快感。碧は我を忘れた。


 霧島の巧みなリードにより、自分でもわかるほど、碧のそこは潤んでいた。


 喘ぎというより、絶叫がホテルの部屋に響いていた。

 男女が交わる淫らな音とムスク・ローズの香り。


 ふたりはほぼ同時に絶頂を迎え、バックスタイルの体位だったので、霧島はその直前でそれを抜き去り、碧の背中に射精した。

 そして霧島は優しく碧にキスをした。



 「後悔はしません。初めてあなたを見た時から、碧さんに心が奪われていました。

 僕はどんな罰も受ける覚悟です」


 碧は黙って頷き、そして言った。


 「私、霧島さんに初めて会った時、目が醒めたんです。この香りに。

 これってムスクですよね? マキュワベリ・ムスク。

 昔の彼がつけていましたが、彼にこの香りを纏うには若すぎました」

 「そうでしたか? この香りが。

 僕もこの香りが好きなんです。

 そして名前もいい、目的の為には手段を選ばないというマキュワベリズムにも。

 シャネルのエゴイストのようには甘くはないが、このムスクは「征服者の香り」です。

 「我儘な男」よりも「戦う男」、そんな感じがするんです、このコロンには」

 「危険な香りですよね? この香り・・・。

 女を狂わせてしまう・・・」


 碧は霧島の胸を指でなぞった。



 ホテルの窓に朝の気配が近づいていた。

 始発電車の音が聞こえていた。




第16話

 碧はどんどん霧島の中に落ちていった。

 碧は初めて男の魅力を知った。


 早川との結婚の条件からすれば、それは許される関係ではあったが、碧の気持ちは揺らいでいた。

 碧は毎日のように、霧島と一緒にいたかったからだ。

 そして碧は不倫を軽蔑していた。

 

 (不倫は夫や妻への裏切りよ、けっして許されるものではないわ)



 碧の周りにも、それを自慢げに話す者も多くいた。


 「彼には家庭があるの、でも別れられない。

 だって好きなの、理屈じゃないのよ。

 いけないとはわかっているの、だから燃えるのかもしれない。

 奥さんに悪いなって思う自分と、奥さんから奪いたい自分が共存しているの。

 不倫の愛は辛いものよ」


 彼女たちは「恋に恋しているだけ」だと碧は思っていた。

 浩二に浮気された自分は惨めだった。

 不倫は愛じゃない、娯楽だ。

 満たされない寂しい自分にとって、その相手は誰でもいいのだ。


 こっそり隠れてする秘密の恋だからこそ、ドキドキがあり、スリルがある。


 彼が離婚してすべての障害が消えた時、その燃えた恋の炎は下火になり、やがて消える。


 霧島は独身だから、この恋愛は不倫ではないとも言えるが、早川に籍がある以上、この恋も不倫と定義付けられることになるのだ。


 早川は単なる同居人、召使だ。

 ここで早川と暮らして霧島に会いに行くことなど馬鹿げた話ではないか?

 碧の気持ちは決まりつつあった。




 シティホテルでの行為の後、碧は霧島に訊ねた。


 「ねえ霧島さん、私のこと、好き?」


 霧島は碧を抱き寄せ耳元で囁いた。


 「もちろんだよ。どうしてそんなことを訊くの? そんな決まり切ったことを?」

 「私もあなたが大好き。

 3人で暮らさない? 智樹も一緒に?」


 霧島は少し間を置いて言った。


 「実は僕も同じことを考えていたんだ。

 いくら君をレイプしたとしても婚姻関係は存在している。 

 だから僕からそれを言い出すことはできなかった。

 君を苦しめることになるかもしれないと思ったからだ。

 碧がそう考えてくれるなら、僕もそうしたい。

 どんな罰も受けるつもりだ。

 智樹君と3人で暮らそう、僕の屋敷で」

 「霧島さん・・・」


 碧の心は決まった。



 家に帰ると早川がひとりで食事をしていた。

 碧は言った。


 「離婚しない? 私たち」


 早川の食事をする手が止まった。



 「イヤだよ、僕はこのままの生活がいい。

 碧ちゃんが誰と付き合おうと構わない。でも離婚はしないよ、絶対に」

 「どうして? こんな夫婦生活なんて意味がないでしょう?」

 「僕はこのままでいいんだ、このままで。

 僕は碧ちゃんと智樹の傍にいるだけでしあわせなんだ!

 離婚なんて絶対にしないからね!」


 意外だった。

 碧は早川が離婚をあっさりと受け入れると思っていたからだ。

 早川がこの「愛のない生活」に未練があるとは思いもしなかった。


 「とにかくそういうことだから。

 おまえ、忘れたのか? お前は私をレイプしたんだぞ?

 犯罪者のお前に、そんな権利があるわけがないだろう!」

 「僕は碧ちゃんが欲しかったんだ。

 僕は智樹と碧ちゃんと離れたくない。

 だから僕は碧ちゃんの要求は何でもそのとおりにしてきたじゃないか?

 僕は君への償いをしながら生きて来た。

 それは碧ちゃんが僕のアイドルだからだよ。

 僕と別れて霧島さんと暮らすの?

 霧島 悟48歳。霧島物産社長、離婚歴あり。

 東京大学経済学部卒、趣味はゴルフとピアノと料理、それとクルージング。

 小型船舶1級操縦士の資格を持ち、クルーザーを葉山マリーナに所有している。

 自宅は三軒茶屋5丁目・・・」

 「止めろ! 止めろブタ!

 お前、知っていたのか!」


 すると早川は自室からたくさんの写真を持ってきて、それを1枚ずつダイニングテーブルの上に並べ始めた。



 「こんな幸せそうな碧ちゃんの顔、見たことないよ」


 碧は鳥肌が立ち、吐き気がした。


 「この変態ドMブタ!!」


 ニターッと笑う早川。

 早川の闇はまだ存在していたのだ。



 「絶対に別れないからね?

 その時は碧ちゃんを殺して僕も死ぬから」


 早川の目は焦点のない、ワニのような、冷たい目をしていた。




第17話

 「智之さん! あなた、何をしているの!」


 早川は麗子が大切にしていたベゴニアの花壇を踏み荒らしていた。

 そして今度はその花壇に這いつくばり、片っ端から花を抜き去っていった。



 「止めなさい! やめなさい智之!」


 麗子は早川を押さえつけようとした。



 早川はやっと大人しくなり、麗子に抱き付いて泣いた。



 「ママがいけないんだ! ママが悪いんだよ! 僕がこんなポンコツになったのは!」

 「一体どうしたの? 何があったの? ママに話してごらんなさい」

 「碧ちゃんから・・・、碧ちゃんから離婚して欲しいって言われちゃったんだ・・・」

 

 その時、麗子の口元が綻んだ。


 「智之、ママによく話してみなさい。どうしてそうなったのか? その経緯を」


 麗子は早川をやさしく抱き締め、頭を撫でた。



 「碧ちゃん、霧島という人と浮気してたんだ。酷いよね? ママ。

 僕はどうすればいいと思う? 僕、碧ちゃんと別れたくないよ」

 「酷い嫁ね? 智之さんという素晴らしい夫がいながら不倫だなんて。汚らわしい。

 智之さん大丈夫よ。ママに任せておきなさい、ママが碧さんと話をつけてあげるから。あなたは何も心配しなくていいのよ」

 「僕、碧ちゃんと別れたくないよママ」

 「わかったわかった。ママが解決してあげるからね? 大丈夫よ智之。大丈夫」


 


 麗子は碧を屋敷へ呼んだ。


 「あなた、浮気しているそうね? それで智之と離婚したいんですって?」


 碧は怯むことなく、毅然と麗子に言い放った。


 「浮気じゃないわ! アンタのバカ息子がそれを容認していたのよ!

 それが結婚の条件のひとつだったから。

 教えてあげましょうか? 何で私があんなブタと結婚したか?

 私はアンタの息子にレイプされたの!

 そして生まれたのが智樹なの! もうたくさん! 私はすべてを警察に話すわ!」


 ところが麗子は冷静だった。

 実は早川は大学生の時にも、そのような事件を起こして、金で解決した過去があったからだ。


 「智之が碧さんをレイプしたですって? どこにそんな証拠があるの? それにそんなの、もうとっくに時効でしょう?

 そんなこと言って、本当は早川家の財産が目的だったんじゃないの?

 本当にあなたは女狐ね?

 どうせ嘘を吐くなら、もっとマシな嘘を吐きなさいよ」

 「だったらアンタの変態息子に訊いてみればいい!

 そして証拠もあるのよ! アンタの息子が撮影した、私を犯している動画がね! それを私に差し出したのよ! あなたの大切なバカ息子は!」


 それでも麗子は眉一つ動かさなかった。

 そして麗子は静かに話し始めた。


 「勘違いしないで頂戴ね? 私は離婚には賛成なの。

 あなたが誰と寝ようがそんなことはどうでもいい。

 仮に智之があなたを犯したというのなら、それはお金で解決させてもらうわ。

 でも、離婚には条件があるの、智樹を置いていきなさい。

 あの子だけは絶対に渡さない。

 智樹は必ず世界的なピアニストにするんですから」


 碧は愕然とした。

 

 (やはりこの親子は完全に狂っている)


 麗子の狙いは分かっている。智樹を自分の傍に置きたかったのだ。

 義母は智樹のピアノの才能に魅了されていた。



 「智樹は私が産んだ、私の命です」

 「早川家の跡継ぎでもあるわ。

 冷静に考えてみなさいよ、あなたはお金を持ってその男と暮らせばいい。

 子供は私が引き取ると言っているのよ。こんなにいい話は他にないと思うけど?

 それに子供がいない方が何かと身軽でしょう?

 また作ればいいじゃない? その男の子供を。

 大丈夫、智樹は私が立派に育ててみせますから。

 だって智樹は早川家の宝ですもの」

 「智樹は絶対に渡しません!」


 すると麗子は叫んだ。


 「そんなことは私が許さない! 智樹を置いて、今すぐ出て行きなさい!」


 話は決裂した。





 役所から帰った早川が麗子に尋ねた。


 「ママ、碧ちゃんは何て言ってた?」

 

 すると麗子は思い切り早川を平手打ちした。


 「智之! あなた碧さんをレイプしたって本当なの!

 またあの時と同じように!」


 早川は黙って俯いていた。


 「あの女とは別れなさい! 後はママが始末するから! あなたは口を挟まないで!」

 「イヤだ、イヤだよ、僕は碧ちゃんと絶対に別れないからね!

 ママの馬鹿!」


 

 早川はそのまま実家の屋敷を飛び出して行った。


 早川はどうしても碧との生活を諦めたくはなかった。




第18話

 碧はホテルのベッドの上で喘ぎ、激しく霧島との行為に及んでいた。

 

 麗子から浴びせられた罵詈雑言を払拭するかのように、碧は女性上位の体位を取り、霧島のそそり立った男根に自分を打ち付けていた。


 

 「ハアハア、冗談じゃ、ない、わよ。

 私は、被害者、なのよ、それなのに! あっ、イキそう、イキそうよ、あなたも、あなたも、一緒に、中に、中に、そのまま、出し、てえっ・・・」


 

 碧は小刻みに痙攣しながら、そのまま霧島の胸に倒れ込んだ。

 少し遅れて霧島も、そのまま碧の中に放出した。

 霧島のペニスが碧の中に留まったまま、ドクンドクンと精子を碧の中に送り込んでいた。



 霧島は自分の律動が収まると、それを抜き去り、ティシュボックスからティシュを三枚引き抜き、愛液と精子に濡れそぼったペニスはそのままに、碧のそこから流れ落ちる、白濁したザーメンを丁寧に拭った。



 碧は霧島に抱き付き言った。


 「私、明日、家を出ることにします」

 「僕の屋敷で暮らせばいい。何も心配しなくていいよ、碧と智樹君は僕が必ず守るから」

 「ありがとう、悟さん・・・」



 身支度を整え、碧と霧島はエレベーターでホテルのロビーへと降りて行った。

 エレベーターが開いた瞬間、碧の身体が石のように硬直した。


 「・・・!!」


 そこには早川が立っていた。


 早川は碧の手を引き、エレベーターから引き摺り出した。



 「碧ちゃん、さあ帰ろう。僕、ここで3時間も待っていたんだよ。

 この人が霧島さんだね?

 はじめまして、碧ちゃんの夫の早川です。

 いつも碧ちゃんがお世話になっています」


 そう言って早川は霧島に深々と頭を下げた。

 重い沈黙が流れた。


 「では霧島さん、今日は僕の妻がお世話になりました。

 碧ちゃんは僕が連れて帰りますので失礼します。

 さあ帰ろう、碧ちゃん。

 今日はたくさん霧島さんにしてもらったんだね? よかったね、碧ちゃん。

 また明日もしてもらえばいいよ。

 さあ、一緒に帰ろう」


 碧は早川の腕を振りほどいた。


 「私に触らないで!

 私はもうお前とは暮らせない!

 私はこの人と暮らすの、智樹と一緒に!」


 すると早川は鞄からサバイバルナイフを取出し、静かに構えた。


 

 「酷いよ。酷いよ碧ちゃん。どうして? どうして僕をそんなに嫌うの? 僕がカジモドだから?

 僕は君との約束をちゃんと守っているよ。

 仕方がない、一緒に死のうか? そうすれば僕は碧ちゃんとずっと一緒だから。

 永遠の愛が叶うんだ。

 君は僕のエスメラルダだ!」


 早川が碧に襲いかかろうとした時、霧島が碧の前に立ちはだかった。


 「止めなさい! 君の行為は間違っている! それは愛ではない!」


 ホテルの警備員が駆け付けたが遅かった。

 早川はナイフを腰に当て、体ごと霧島に体当たりした。

 

 身長差があったので、ナイフは霧島の大腿部を貫通した。

 霧島は早川を放さなかった。

 その手を離せば碧が襲われると考えたからだ。


 すぐに早川は警備員とホテル関係者、そして周りの客たちに取り押さえられた。


 

 「ちくしょー! ちくしょー! ちくしょうーっつ!

 碧ちゃんを、碧ちゃんを返せー!」



 早川は駆け付けた警察官らによって連行されて行った。



 「大丈夫! 霧島さん!」

 「大丈夫だ、筋肉の繊維に沿って刺されたからね?

 誰から教わったのか、明らかに殺意があったようだ。

 きちんとナイフの刃を上向きにして、柄を腰に当てていた。

 そのまま刺すと、自分の手が返り血で滑り、自分を傷つけることも知っていた。

 彼の身長が低くて助かったよ」

 「ごめんなさい、私のために・・・」



 碧は冷たい大理石の上に崩れ、両手で顔を覆って泣いた。

 救急隊もやって来て、霧島は止血され、ストレッチャーに乗せられた。


 「ナイフは病院で抜いてもらおう、出血が多くならないように。

 痛いでしょうけど我慢して下さい」


 碧も霧島に付き添い、救急車に同乗した。


 


 早川の屋敷では警察の家宅捜索が行われていた。


 麗子は放心状態のままピアノの前に座っていた。

 そしてゆっくりと立ち上がると、キャビネットからウオッカの瓶を取出し、ピアノの鍵盤にそれを注いだ。

 そしてダンヒルのライターでピアノに火を放った。


 あっという間に鍵盤は青い炎に包まれ、ピアノの塗料の燃える匂いがした。

 


 「何をしている!」


 それに気付いた捜査員が上着を脱ぎ、火を消し止めた。


 麗子はそれを、ただ笑って見ていた。


 麗子は息子の智之のことなど頭にはなかった。

 孫の智樹を失った悲しみに、麗子は絶望していた。




第19話

 警察の事情聴取も終わり、碧は徐々に平穏な生活を取り戻していった。


 幸いなことに、霧島の傷は急所を外れており、順調に快方へと向かっていた。


 後になって冷静に考えると、空手二段の霧島が早川の攻撃を躱すのは容易なはずであり、どうやら太腿への傷もそこへ早川のナイフを誘導したかのようにも思えた。

 つまり霧島は、あの時の状況を瞬時に冷静に判断し、最善の方策を取ったと言える。

 正当防衛は敢えて行わず、状況証拠からも殺意があったことは検察によって立証されるからだ。


 碧は強姦罪も主張することが出来たがそれはしなかった。

 それは智樹への配慮と、早川家に対する碧の最後のやさしさでもあった。

 思えば早川家は可哀そうな家族だったからだ。

 ピアニストの夢を絶たれ、夫からも愛されず、そして早川もあんな大人になってしまった。

 社会的制裁は計り知れないものがあり、それ以上の罪を与えることを碧は躊躇った。


 

 病院のベッドで霧島は笑っていた。


 「殺されるかと思ったよ」

 「ごめんなさいね、私を庇ってくれたばっかりに。

 まだ痛いでしょ?」

 「平気平気、あと三日程度で退院出来るそうだ。

 碧も色々と大変だったろうが、すべては終わったことだ。

 僕のところに来週にも引っ越してくればいい」

 「そうさせてもらうわ。

 あのマンションは私名義だから、賃貸に出すことにしたの」

 「それがいい。

 それから役所は辞めて、僕の専業主婦をしてくれると助かるんだけど、どう? 給料は払うから。あはははは」


 碧は今回の事件で役所を依願退職するつもりだった。

 見世物になるは嫌だったからだ。

 霧島のやさしさが身に沁みた。




 碧と智樹は三軒茶屋の霧島の屋敷を訪れて驚いた。

 その屋敷は高い塀で囲まれた薔薇の庭があり、気品に満ちたアンティークな邸宅だったからだ。


 「すごいお屋敷ね? 悟さんはこんな大きなお屋敷にたったひとりで住んでいたの?」

 「祖父の代からの家でね? 僕は結構気に入っているんだ。

 さあ中へどうぞ」




 屋敷の中は絵画や骨董、多くの美術品が飾られていた。

 智樹が叫んだ。


 「うわあ、バアバのピアノと同じピアノがある!」

 

 智樹は真っ先にリビングの中央に置かれたグランドピアノに走り寄った。



 「智樹君、弾いてごらんよ」

 「弾いてもいいの? 霧島さん」

 「もちろん」


 智樹はベートーベンの『テンペスト』を弾き始めた。

 とても6歳の子供の演奏とは思えなかった。

 智樹はさらにピアノの腕を上げていた。

 義母の麗子に感謝するべきだと碧は思った。



 「霧島さんもピアノ、弾くの?」


 演奏を終えた智樹が霧島に尋ねた。


 「昔、ちょっとね? でも凄いな、智樹君のピアノは。

 君は才能があるよ、本当に嵐の海にいるようだった。

 シェイクスピアもベートーベンも喜んでいると思うよ」

 「ありがとうございます、褒めてくれて」

 「よかったわね? 智樹」

 「うん!」



 すると霧島はタバコに火を点け、咥えタバコでピアノの前に座った。

 霧島がピアノに手を置いた。

 すると霧島はあの超絶技巧の代名詞とも言える、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を弾き始めた。

 


 智樹は目を皿のようにして霧島のピアノ演奏をじっと見ていた。



 演奏が終わると智樹は興奮して叫んだ。


 「霧島さん! すごい! すごいよ!」

 「僕のはピアノは自己流だけどね? いつでも自由に弾いていいからね?

 知り合いに藝大の教授がいるから今度、紹介してあげるよ」

 「ありがとう霧島さん。ボク、もっとピアノを上手くなりたい! 霧島さんみたいに!」

 「よかったわね? 智樹」


 碧は智樹を強く抱き締めた。

 3人の親子の新しい生活が始まった。




第20話

 3人で暮らし始めて3年が過ぎていた。

 智樹は霧島にすっかり懐いて、霧島のことを「お父さん」と呼んでいた。


 碧は今まで何をしていたのかと思えるほど、しあわせな日々が続いていた。



 早川と離婚して半年後、碧と霧島は正式に夫婦となり、智樹も霧島の養子となった。

 碧にはすべてが輝いて見えた。




 智樹は9歳になり、益々ピアノの才能を開花させていった。


 智樹を指導してくれていた音大の立石教授から、コンクールへの出場を勧められた。



 「霧島、そろそろいいんじゃないかなあ? 天才ピアニストのデビュー。

 今度、私も審査員を務めるピアノコンクールのジュニアの部に、智樹君を出してみないか?」

 「よろしく頼むよ、立石」

 「楽しみだよ、度肝を抜かれた聴衆の顔が目に浮かぶようだ」




 コンクールの曲はリストに決まった。



     「ハンガリー狂詩曲 第2番」





 コンサート会場には2,000人以上の聴衆で埋め尽くされ、天才たちの演奏に興奮と溜め息が続いていた。


 

 「智樹、ママは楽しみよ。こんなに大きなコンサートホールで智樹のピアノが聴けるなんて」

 「智樹、最初の1音がすべてだ。

 それさえ上手く弾けたら後はお前は何も考えなくていい。

 後は勝手に指が音楽を奏でてくれる。

 音楽とは瞬間芸術なんだ。

 心から解き放たれ、そして心に帰って行くものだ。

 しかもそれは一瞬の出来事だ。

 美とは、芸術とは人を感動させるものなんだ。

 音楽はその滅びゆく1音の儚さにこそ、その美しさがある。

 音を楽しんで来い、智樹。

 それが音楽なんだから」


 霧島も我が事のように珍しく興奮していた。



 智樹は楽屋へと向かい、霧島と碧は智樹の小さな後ろ姿を一緒に見送った。

 その背中はとても大きく、頼もしく見えた。




 どの子供たちの演奏もすばらしいものだった。

 だが碧は智樹を信じていた。智樹の素晴らしい才能を。


 (入賞させてあげたい!)


 それが親心でもあった。


 それを見透かしたかのように霧島は碧の手を握って言った。


 「大丈夫、智樹は僕たちの子供だ、智樹の演奏を楽しもうじゃないか? すべてを忘れて」

 「そうね? 私たちの子ですものね? 智樹は」

 

 碧はバッグからハンカチを出して強く握り締めた。

 手には汗をびっしょりとかいていた。



 聴衆のまばらな拍手の中、智樹が壇上に上がって挨拶をした。


 智樹がピアノに向かい、演奏が始まると、少しざわめいていたホールが深い森の中に沈んだかのように静まり返った。


 随所に溢れる難しい指使い、観客の視線は智樹に集中した。


 一心不乱に鍵盤を叩く智樹、次第に曲は壮大な主題へと導かれて行った。

 とても9歳の子供が弾いているとは思えない演奏だった。



 智樹の演奏は完璧だった。

 智樹が鍵盤から手を離すと、スタンディングオベーションが湧き起こった。

 突然降り出した夏の夕立のような拍手が、いつまでも鳴り止やまなかった。

 もはやこれは子供のピアノコンクールではなく、天才ピアニストのコンサートに変貌していた。



 霧島に強く手を握られ、碧は涙が止まらなかった。

 碧は自分の顔を霧島の肩に乗せた。


 「小さな巨匠の誕生だね?」


 霧島が言った。



 智樹は金賞になり、審査員からも絶大な評価を得た。

 立石教授も喜んでくれた。


 「智樹君、これから忙しくなりますよ」




 碧と霧島がホールに出ると、背後から呼び止められた。


 「碧さん」


 聞き覚えのあるその声に、碧は凍り付いた。

 その声はまぎれもなく、義母の麗子の声だったからだ。


 恐る恐る振り返った碧は、その麗子の変わり果てた姿に言葉を失った。


 美しく染められた髪は真っ白な白髪となり、肌も血色が悪くガサガサになっていた。

 あの美魔女の面影はすっかり消えていた。



 「金賞、おめでとう。

 とても素敵なリストだったわ。智樹のピアノ。

 ごめんなさいね、あなたには意地悪ばかりして。

 私は智樹を、智樹の才能を独り占めしたかった。

 あなたは素晴らしいピアノの巨匠を産んでくれた。

 心からお礼を言うわ。ありがとう、碧さん。

 智樹は人類の宝よ」


 それだけ言うと、麗子は智樹には会わずに去って行った。



 そこへ智樹がやって来た。


 「ママ、お父さん!」

 「おめでとう智樹!」

 「智樹、凄いな金賞だなんて!」


 碧と霧島は智樹を強く抱き締めた。


 

 「ママ、お腹空いた」


 碧と霧島は顔を見合わせて笑った。

 三人は手を繋ぎ、音楽堂の階段を降りようとした時、突然霧島が胸を押さえて階段を転がり落ちた。


 「キャーッ! あなた、あなた! 救急車! 誰か救急車を早く!」



 急性心筋梗塞による心不全だった。

 霧島はそのまま病院で息を引き取った。




最終話

 「ママ、ただいまー」

 「お帰りなさい、チーズケーキを焼いたから、手を洗って来なさい」

 「うん、ママのチーズケーキ、ボク、大好きだよ」


 霧島が急逝してから半年が過ぎていた。

 だが碧にはその実感がまだなかった。

 碧には霧島の死がどうしても受け止められなかった。

 碧は化粧も忘れ、ずっと喪服を着て過ごしていた。


 大きな橋の上から川面を眺めていると、碧は橋の欄干から身を乗り出しそうになって、智樹に幾度も止められた。


 「ママ! 危ない!」


 そんな毎日だった。

 今日は気分転換に、智樹の大好きなチーズケーキを焼いてみた。


 碧はケーキを三等分し、ひとつを仏壇の霧島に供えた。


 智樹がそれを見て言った。


 「お父さん、ママのチーズケーキだよ。好きだったよね? お父さんも」



 夫の初七日で、弁護士の磯村が夫の遺言状と手紙を持ってやって来た。



 「霧島からこれを預かっていました」


 磯村は夫の大学時代の親友で、夫の会社の顧問弁護士もしていた。

 手紙にはこう書かれてあった。




    大好きな碧、智樹へ


     もし自分が死んだら、君たちに渡してくれと、この手紙を

    磯村に預けておいた。

   

    今、その手紙を読んでいるということは、そういうことなん

    だろうな?


    不思議と私は後悔はしていないんだ。

    自分の人生は少し短いような気もするが、充実した人生だった。

  

    人生はどれだけ生きたではない、いかに生きたかだ。

    碧と智樹との暮らしは、何よりも私を幸福にしてくれた。


    初めて碧をロドリゲスの店で見た時から、私は運命を感じた。

    そして君と愛し合うことができた。

    あの頃の私は人生を半ば諦めかけていた。

    自暴自棄になっていた。

    それを救ってくれたのが碧だ。

    大げさかもしれないが、君は私にとって砂漠に湧いた、突然

    のオアシスだった。

  

    人は必ず死を迎える。

    死ぬのは私だけではない。君も、そしてこの世に生きるもの

    すべてに平等に訪れる。

    死は定めなんだよ。絶対に避けることは出来ないんだ。

    絶対という言葉は「生まれた者は必ず死ぬ」という現実なんだ。

    それは王様だろうと大統領であろうとも避けることは出来ない。


    だからお願いだ、私のために涙を流して大切な人生の時間を無駄

    にしないでくれ。

    

    なぜなら私の生き甲斐は、君たちの笑顔だからだ。

    君たちの悲しみの涙で私が浮かばれることは絶対にない。

    私が天国で安心して暮らせることが出来るとすれば、それは君たち

    が幸福で、満足な毎日を感謝と喜びで生きてくれることなんだ。

  

    智樹、君のピアノは素晴らしい。それはお父さんの誇りだ。

    いいピアニストになれよ、智樹。

    そしてママのことをよろしく頼む。

    いつもお父さんは君を空から見守っているからな。


    最期になるが、君たちのお陰で私はすばらしい人生を過ごすことが

    出来た。

  

    本当に感謝している。ありがとう。


                         霧島 悟





 ポタポタと涙が便箋に落ちて、マリンブルーのインクが滲んだ。


 「馬鹿じゃないの? 死んで「ありがとう」だなんて。

 私はあなたのいない人生なんていらないわ、生きてゆく自信がない。

 私はあなたがすべてなの。

 それなのに「ありがとう」だなんて、ズルいわよ。

 これからだったじゃないの、私たちのしあわせな人生は。

 幕が開いたばかりなのよ、どうしてくれるのよ、この払い戻しのできないチケットは?

 いきなり閉幕だなんてことある?

 カーテンコールもないままに・・・。

 アンコールに応えてよ、私のアンコールに!

 もう一度、私たちの前に現れてよ! そして笑って強く抱き締めてよ!

 いつものように!」

 

 碧は手紙を握りしめて泣いた。

 智樹は何も言わず、碧の傍に寄り添っていた。


 


 それから夏も終わり、智樹と碧は花びらの落ちた庭の薔薇の剪定をしていた。


 「パパはこの薔薇が好きだったよね? ママ」


 碧は剪定ハサミの手を止めた。


 「そうね? この庭のキオスクで薔薇を見ながらブランディーなんか飲んで・・・。 

 落ちた薔薇の花びらを浮かべて。

 そんなところが気障で、絵になる人だったわ・・・」

 「今日のママ、とっても綺麗だよ」

 「ありがとう、智樹」


 碧が枯れた薔薇を切ろうとした時、薔薇の棘が指に刺さり、血が滲んだ。

 指にぽつんと小さな米粒くらいの血が浮き出た。


 碧はその血を見て、自分が生きているということを実感した。



 秋の風が庭の木々を揺らし、やがて訪れる冬を予告していた。


 碧はその風に吹かれ、声を上げて泣いた。  



                     『ストロベリーチョコレート』完




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【完結】ストロベリーチョコレート(作品231203) 菊池昭仁 @landfall0810

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