『ハンナ』の真実 ハンナside4
十月一日に『ハンナ』が発売されることを知った。
もちろん、発売日に買った。内容は、あの日に読んだよりも整っていた。でも、確かにそこには帆波が存在した証があった。
ハンナは帆波ではないからこそ存在し得た。
同時に、帆波がいなければハンナは存在し得なかった。
ハンナはこの世でたったひとつ、瀬戸帆波がいたことを証明してくれるものになった。
本の売れ行きは、帆波の想像以上だった。ドラマ化したときに起用されたハンナ役の女の子は美人過ぎて、恥ずかしくなったりもした。今『ハンナ』という存在を知らない人はいないと言えるほどだった。
二〇〇一年十月一日。『ハンナ』の発売から丁度十年。
意を決して、帆波はもう一度だけ憲志に会おうと思った。
一言、お礼を伝えたかった。
憲志の家は、もぬけの殻だった。
表札も抜き取られていた。
「そっか。あんなに本売れたら、もっと豪華な家に住むよね……」
ずっと、ここに来ればいつでも会えると思っていた。
「あら、飛坂さんに御用?」
年配の女性に声をかけられ、帆波は慌てて首を縦に振った。
「どちらに引っ越されたか、ご存知ですか」
「失礼ですけど、飛坂さんとはどういうご関係かしら」
他人だとわかったら、教えてもらえないだろう。
どうせ明日になれば全てが消える。
「妹なんです。お兄ちゃん、転居先言わないで行っちゃって」
帆波は、心の中で目の前の女性に謝罪した。
「それは大変ねぇ。ちょっと待ってて、住所メモした紙持ってくるから」
親切なおばさんが教えてくれたのは、ここより小さなアパートの住所だった。
ここに大ヒット作『ハンナ』の作者がいるとは、到底思えなかった。しかし、教えられた部屋番号の横には確かに『飛坂』と書かれている。インターホンは無かった。
「すみません、飛坂憲志さんはいらっしゃいますか」
ノックして呼びかける。
息が詰まりそうだった。ドアが開くまでの間が、酷く長く感じる。
憲志の瞳に、帆波の姿が写し出されていた。
「はい。どちら様でしょうか」
慣れきっているはずのその言葉に、傷ついている自分がいる。
憲志は、十年のうちに見違えるほどやつれていた。
髭は伸びきり、髪の毛は肩についている。
「あの……?」
「あっ、ごめんなさい」
呆然としていた。
「私、飛坂先生のファンなんです。瀬戸帆波といいます」
「………なら、どの作品読んだことあるんですか」
氷のような眼差し。
ひるみながらも、正直に答えた。
「『ハンナ』と『チロル帽』です。どちらも好きで、何回も読み返しました。『ハンナ』はいつも持ち歩いてます」
身分証ももてない帆波にとって、『ハンナ』こそが自身の証明だった。
「ご愛読、ありがとうございます。……『チロル帽』読んでるだけましか」
ボソッと呟いた声を、帆波の耳はしっかり拾った。
「何かお気に触ることがありましたか?」
「いや、俺のファンだっていう大体の人間は、俺じゃなくて『ハンナ』のファンだから」
お世辞にも、『チロル帽』が売れているとは言えなかった。『ハンナ』の影響があってこの冊数なら、『ハンナ』がなければどうなっていたかは考えるだに恐ろしい。
「でも私、本当に『チロル帽』も好きなんです。最後に悪役も含めた皆が幸せになれる。すごいと思いました」
素直な感想だった。
「ありがとう。そう言ってくれたのは、瀬戸さんが初めてかもしれない」
憲志はそう言って破顔した。
「ぜひ、『雪女』も読んで欲しいな」
「『雪女』?」
「俺の三冊目」
作家飛坂憲志の動きは、注意深く追っていたはずだった。それなのに、取りこぼした。
「今日中に買って読みます」
「んー、あれ出版冊数少なかったからな。手に入りづらいと思うんだ。少し待ってて」
一旦中に入った憲志は、本を手に戻ってきた。
「これあげます」
水色の表紙をしたそれは、『雪女』だった。
「いいんですか!?」
「何冊も持っててもしょうがないし」
その後、帆波が『雪女』まで持ち歩くようになったことは言うまでもない。
「本当にありがとうございます」
それは、沢山の意味をこめた感謝の言葉だった。
「突然お邪魔して、申し訳ありませんでした」
踵を返すと、後ろから待ったがかけられた。
「また是非、来てください。この職業になって、ほとんど人と会ってないから。話とかできると嬉しくて」
想定外の言葉に、帆波はどう答えたものかと逡巡した。
「嫌、ならいいんです」
「違います!嫌なんてことは全然ッ」
両手をぱたぱたと振って、否定した。
〇時になったら忘れてしまう相手と、未来の約束なんて一生できないと思っていた。―――でも。
「わかりました。またいずれ」
たとえ憲志が忘れても。
それでもいいと、思った。
―――だって私は覚えているから。
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