『ハンナ』の真実 ハンナside3

 考えたこともなかった。

 第一、消えるのは何も名前だけではないのだ。瀬戸帆波に関係したこと全てが根絶やしにされる。

「ノンフィクションが消えるなら、脚色を加えてやればいい」

 偽名の次は、脚色ときた。

 帆波が戸惑っている間に、憲志はノートパソコンを取ってきた。

 何やら操作をする。

「〇時まであと一時間半もあるんだ。実は俺、作家志望なんだよね」

 子気味いいタイプ音が聞こえてきた。

「瀬戸さんの下の名前、漢字どう書くんだ?」

「え。船にある帆に、海の波―――だけど」

「オッケー」

 隣に移動して、画面を覗き込む。

「ハンナ?何でまたそんな、外国人みたいな名前なの」

「漢字を別読みしてみた。帆波と書いて、ハンナと読む」

「そんなんで、大丈夫なのかな……」

 膝を抱えて、見守っていた。

 内容は事実とところどころ違っていたが、それこそが憲志の目的だろうから、口は挟まなかった。

 物語は現在へ。

 再び時計を見ると、一一時四十分をさしていた。

「え……」

 終わりを迎えたと思っていたのに、憲志はまだ書き続けていた。

「何書いてるの」

「瀬戸さんが望む未来」

 そこには、幼い頃に描いた未来が確かにあった。

 叶わないと諦めて、捨てようとして―――捨て切れなかった夢。

 帆波は憲志に語っていない。それなのに、最後の一文は正に帆波が切に願ったささやかな夢そのものだった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 優しい笑顔を向けられて。

 心から笑った。今までで一番、嬉しかった。

 憲志の首が、かくっと下がった。まどろみ始めている。

「あれ、おかしいな…いつも一時くらいまで、普通に起きてられる……の、に…………」

 もう、十分だった。

 これ以上を求めたら、もう戻れなくなる。

「記憶を消去するためだよ。次に目が覚めたとき、飛坂君は私のことを忘れてる。…おやすみ」

「嫌だ。俺…忘れないから。絶対に、俺が起きるまでここに………いろ」

 頑張って抵抗しているのが伝わってくる。でも、駄目なのだ。呪いはそんなに甘くはない。

 しばらく、深い眠りに落ちた憲志を見つめていた。

 次に、もう一度憲志が帆波のためだけに作り出してくれた物語を読んで、心に刻んだ。

 ―――「おはよう、ハンナ」

 そうやって、名前を呼んでくれる。

 私が最も望んだことを“フィクション”として“現実”にしてくれた。

 いつか本当に、こんな朝が来るのではないか。

 もう一度そう思わせてくれた。

「本当にありがとう」

 パソコンをシャットダウンして、憲志の家を出た。

 起きるのを待つつもりなんて無かった。

「あなたは、誰?」

 そう言われることをわかっていたから。

 もう少しだけ、夢を見ていたかった。

 憲志が取り戻してくれた夢を、憲志の言葉で潰されるのだけは嫌だった。

 会わなければ、勝手に自分の都合のいい想像をすることができる。朝になって、いなくなった帆波を必死で探している姿とか。合コンに出席した人たちに、帆波を覚えていないのかと問い詰める姿とか。

 想像して創造するのは自由だ。

 憲志が作ってくれた可能性という希望が、帆波を支え続けた。

 

 あっという間に半年が過ぎ、季節は冬になった。

「寒っ」

 本屋に入ると、暖かい空間が出迎えてくれた。

 新刊に手を伸ばす。ただの時間つぶしだった。ぺらぺらとページをめくる。チラシにぶつかった。

『第三十二回長島文学賞 受賞者発表』

 さして興味もなかった。―――その名前を見つけるまでは。

『最優秀賞 ハンナ 飛坂憲志』

 どうして。

 疑問符が舞った。

 消えるはずだった文章。

 それが、応募され、受賞している。

 『ハンナ』は、消えなかった。

 帆波は、希望が膨らむのを自覚した。

 ―――もしかしたら、憲志はまだ私を覚えているかもしれない。

 本屋を飛び出して、電車に乗った。まだ、憲志の家の位置を正確に覚えていた。

 扉の前に立つと、緊張して足震えた。

 チャイムを鳴らす。

『はい』

 懐かしい声。

「あの、瀬戸帆波です」

 高鳴る鼓動。

『せと、ほなみさん……?』

 その瞬間、全てを悟った。

 嗚咽を堪えるので、精一杯だった。

 何処をどう歩いたのかわからないが、気づけば自分の家の前だった。

 逃げた。

 憲志から。夢から。現実から。

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