『ハンナ』の真実 ハンナside2

 いつのまにか、周りの風景はアパートの並ぶ住宅街になっていた。

「ここが俺の家。狭いけど、どうぞ」

 息切れして声も出せない帆波は、玄関にへたりこんだ。

「はい、水」

 差し出されたコップを遠慮なく受け取って飲み干すと、大分落ち着いてきた。

「ありがと」

 空になったコップを返す。

「ああ。―――ちょっと……やりすぎた、かな」

「これで『ちょっと』なわけ!」

 可笑しくなった。笑みが零れる。

 はっとした。

 感情が、一気に冷えていく。

「駄目。もう一歩も動けないから。飛坂君のせいだから。あーあ。飛坂君にせっかくの合コンから退散させられて。どうしてくれるわけ」

 そっぽを向く。

 無意識に、憲志に嫌われるための言動を探していた。

 どんなに取り繕っても、次の日には忘れられている。

 正直、それがとても辛くて……気づけば自ら周りに壁をつくるようになっていた。

 深く関わろうとしなければ、忘れられたときに痛くない。

 それは、心を守るための防衛本能だった。

 不自然な沈黙が横たわる。

「ごめん」

 ポツリと降ってきた謝罪。

「は、それだけ?散々走らせて、引っ張って」

 そっぽを向いたままだから、憲志の様子はわからない。

 嫌われたい。忘れられてよかったと思えるような、最低な関係がいい。

 ―――心からそう思っていたはずなのに。

 何故だか無性に、泣きたくなった。

「……って、うわぁっ!?」

 視界が突然上昇した。

 膝裏と背中に、熱を感じる。

「何すんの!」

 抗議の声を上げると、直ぐそばにあった顔が不思議そうに傾いだ。

「一歩も歩けないって言うから。晩飯食うだろ。食卓へゴー、だ」

 憲志の思考回路が、全く意味不明だった。

 唯一帆波が理解したのは、今自分が俗に言う“お姫様抱っこ”とやらをされているということだけだった。

「何食べたい?」

「……」

「わかった」

「………………はぁ!?」

 シカトしたのに、受け流された。

 食事中も、帆波が嫌われるためにつく嘘をことごとくかわされ続けた。帆波が一切反応しなくても憲志は気にも留めず、不思議と会話を成り立たせてしまう。

 無駄な抵抗を続けているうちに、気づけば十時を回っていた。

「うわっ、もうこんな時間。瀬戸さんは帰らなくて大丈夫?」

「飛坂君が引き止めてたんでしょうが」

 こめかみをぴくつかせる。

「あ、それもそっか。でも、帰りたくなさそうな顔してるから」

 もう、ここまでくるとどうでも良くなってきた。

 そう割り切って改めて考えてみると、ここまで深く関わってきた他人は、憲志が初めてだ。

 魔が差した。

 どうせ相手は綺麗さっぱり帆波のことを忘れる。だったら、話したいことを話したいだけ、話せばいい。

「もう直ぐ、今日が終わるね」

 帆波は、自分から話し掛けた。驚いた憲志の顔に若干ムッとする。

「今日も、虚しいか?」

 何気なく口にした言葉さえ覚えていてくれたことも、癪だった。

「いつも以上に、ね」

 だから、棘のある言い方をした。

 悲しげに俯く憲志を見て、少しかわいそうかもと感じた。

 投げやりに、手を横に振る。

「違う違う。いつもより充実していたって意味」

 見ず知らずの他人にいきなり手を掴んで駆け出され、何故か晩御飯をもてなされている。

 ここまでわけがわからない充実した一日も、そう無いだろう。

「充実してて、虚しいのか?」

「今日という日が楽しかったのは、私一人だけだから」

「俺、すっごく楽しいよ」

「だからこそ。その記憶を飛坂君が忘れてしまうのが悲しい」

 ―――悲しい。

 久しぶりの感覚。忘れられることに慣れきり、擦り切れ、麻痺していた感情だった。

「忘れないよ、俺、」

 また夢を見てしまいそうで、怖くなった。

 一生叶うことのない、とっくに諦めたはずの夢を。

「無理、だよ」

 それは、自分に言い聞かせるための台詞。

「何でそうなんだよ。理由は。俺が瀬戸さんを忘れるって言う根拠はあるのか」

「聞いても、絶対信じられない。馬鹿にするに決まってる」

「聞かせて欲しい。信じるから」

 試してみたくなった。

 憲志が帆波の話を聞いて、どんな反応をするのか。

「原因は私にもわからない。でも、産まれたときからそうだったみたい。私ね、家族以外には記憶されないの」

 帆波は、何度かこの話をしたことがあった。誰にも信じてはもらえなかった。次の日には、結局全てを忘れられた。

「深夜〇時になるとね、全てが消える。記録にも残らない。戸籍さえも存在しない」

 ちらりと壁掛け時計を見ると、十時二十分を指していた。

「つまり、あと一時間半くらいで、俺から瀬戸さんの記憶が無くなるってことか」

「そういうこと」

 時計を見つめたまま、目が離せなくなった。

 憲志の反応を知るのが、怖くなった。割り切っていたはずなのに。

「……辛かったな」

 それは、とても優しい声色だった。

 視線を前に戻すと、憲志が梅干を食べたかのような顔をしていた。

「辛、かった」

 その言葉は、すとんと胸の奥に下りてきた。

「瀬戸さんのことは、記録でも完全に消えるんだよな?」

「うん。私の名前は絶対に残らない」

「じゃあ、偽名だったらどうなる?」

 帆波は目を瞬いた。

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