『ハンナ』の真実 ハンナside1
携帯電話を肩にはさんで通話したまま靴を履く。
『今日も、気をつけるのよ』
心配そうな母の声に、
「わかってます。大丈夫。浦女は警備が薄いし生徒数が多いから」
―――簡単に紛れ込める。
名簿からも名前が消えてしまうから、正規の手続きを踏んだところで、受験すらできなかった。
高校までは諦めて自宅で勉強していたが、一度学生になってみたかったから、大学に通うことに決めた。籍はないから、卒業の資格はもらえないし、テストも受けられない。それでも良かった。
「瀬戸さん」
―――同姓の子がいたんだ。
帆波の名前は誰も知らないはずだった。
「ねぇ、瀬戸さんだよね」
今度は肩を叩かれた。驚きすぎて、声が出なかった。
「私は、七海未来。よろしく。突然だけど、今晩空いてる?」
無意識に、首肯してしまった。
帆波に話しかけ肩まで叩いたらしい女性は、破顔した。
「今日ね、西邦大学と合コンするんだけど、一人足りなくて。瀬戸さん、来てくれない?」
合コンどころか遊びの約束すら、したことがなかった。
「行きます」
やっぱり無意識に、帆波は返事をしてしまったのだった。
カラオケ店への道すがら、隣を歩く未来に訪ねた。
「どうして私の名前を知ってたんですか?」
朝起きてから、誰にも名乗っていない。
―――もしかしたら呪いが解けたのかも。
「あぁ。配られたプリントに『瀬戸帆波』って名前書いてるのが見えたから」
わかっている。未来に悪気は一切ない。
それでも、帆波は泣き出したい気分になった。
今更帰るとも言い出せず、店に着いてしまった。
異様に高いテンションについていけない。ついていくきもさらさらなかった。
隣の子からマイクが回ってきた。
「瀬戸帆波」
愛想なく、不機嫌さを隠すこともなく。
自身の周りに壁を張った。
―――もう帰りたい。
ふと顔を上げると、目の前に座っていた男子と視線が合ってしまった。
「合コン、初めて?」
面倒なことになったと思いつつ、合コンで女に話しかけるのは当然のことで彼に非がないのも事実なので、それなりに相手をしてやることにした。
「こうやって遊ぶのも初めて」
「何で。友達少ないとか?」
随分とはっきりものを言う人だと思った。裏表のない人間は、嫌いじゃない。
「確かに友達いないけど。……虚しくなるのが嫌だから」
「虚しい?」
「そう。朝になって昨日のことを思い出すたびに、虚しくなる。あぁ、また全てが無駄だったな、って」
昨日親しくなった人とも、今日はまたはじめましてから始めなくてはいけない。
でもそのことには、とっくの昔に絶望しきって、今更傷つくも苦しいもない。
「皆、いつかは全てを忘れるの。今日という日も、皆忘れてしまう。意味のある行いなんて、何一つありはしない」
そうひたすら自分に言い聞かせて。
「じゃあどうして今日、瀬戸さんは参加したの」
「気まぐれ。一度くらい、経験してもいいじゃない」
彼は探るように、顔を覗き込んできた。
「信じたいんでしょ」
「え?」
思わず、顔を上げてしまった。
「意味のある今日があるって、信じたいんでしょう」
とっくの昔に、諦めたはず。
でも未来に名を呼ばれたとき、舞い上がった自分が確かに存在したのだ。
「すみません。俺ら抜けまーす」
いきなり手を引っ張られ、席を立たされた。
状況が、全く理解できない。
「おい憲志、何考えて―――」
誰かの声が背中に突き刺さったが、後ろ手に叩き閉めた扉が遮った。
「何処に行くのよ?」
帰りたいと思っていた帆波は、これ幸いと憲志にされるがままになっていた。
「どうしようかな、田舎だからこの時間までやってるお店なんてそんなないし」
「無計画なんだ」
ここまで派手なことをしておいて。
不思議と、悪い気はしなかった。
「それなら、飛坂君の家にでもおじゃましようか」
憲志がつんのめるように止まり、後ろに向き直った。
「自分が何言ってるか自覚してる?」
―――何って。
家族以外とは初対面としてしか接したことがない帆波は、憲志の言いたいことがさっぱりわからなかった。
すなわち無自覚。他意無し。
「……まぁ、いいよ。俺んち、ここから近いし」
ひとつ頷いて、憲志が走り出した。それはあまりにも速くて。
「ちょっ、速いよ」
夜の街を手を繋いで走っている大人。
周りの視線が突き刺さるのを感じる。
「飛坂君、明日には変人扱いされてるよ」
前を行く大きな背中に、非難する。
「その時は、瀬戸さんも噂の渦中だぞ」
瞬く間に帆波の表情が陰る。しかし、前を向いたままの憲志はそれを知らない。
「噂になるのは飛坂君だけだから。だって飛坂君は、一人で走ってたんだから」
「はぁ?」
怪訝な声を聞いてから、帆波は自分が失言していることに気づいた。
「………何でもない」
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