『ハンナ』の真実 作者side5

 入院生活は、暇で暇で仕方がなかった。テレビを観るのももう飽きた。

 コンコン。

「はいー」

 顔はテレビに向けたまま、生返事をする。

「失礼します」

 春樹か未来だと思い込んでいた憲志は、聞き覚えのない声にようやく顔を上げた。

 左目の下には泣き黒子。


「どちら様ですか?」


 彼女は、穏やかな笑みを浮かべて答えた。

。瀬戸です」

 話し相手が欲しかった憲志は、瀬戸に椅子を勧めた。

「もしかしてそれ、『ハンナ』『チロル帽』『雪女』ですか?」

「はい。飛坂先生の大ファンで」

 そこから会話が始まった。

 瀬戸と憲志は不思議なほど趣味が同じだったし、憲志が好きな本は瀬戸も大好きで、マニアックな話をしても通じた。

 打てば響く返答。それはまるで、憲志以上に憲志を知り尽くしているようだった。

「どうしてだろう。瀬戸さんをずっと前から知っていたような気がする」

 その瞬間、瀬戸から笑みが消えた。

 何かまずいことを言ってしまったのだろうか。

「―――そうですね。私も、飛坂さんを昔から知っている気がします」

 その応答に、ほっとする。

 しかし瀬戸はやっぱり、泣いているように見えた。

「そろそろ帰りますね。長居してしまってすみません」

「また来てくださいね」

 憲志は何気なく、声を掛けた。

「ありがとうございます。きっと、また」

 瀬戸の笑顔が、瞼の裏に焼きついて離れなくなった。


      ✻     ✻     ✻


「春樹、毎度ごめんな」

 持ってきた着替えを棚にしまい、洗濯物を鞄に詰めている春樹の背中に謝罪した。

「何だよ今更。困ったときはお互い様だろう」

「俺、何も返せてねーもん」

 拗ねた様に言うと、爆笑で一蹴された。

「わ、笑うなよ!」

「いやごめん。俺は憲志から沢山もらってるのに、何を拗ねてんだかと思って」

「あげたって何を」

「んー、未来とか」

 確かに、二人を結婚までもっていったのは憲志の功績が大きかった。

「私がどうしたって?」

 花瓶の水を替えに行っていた未来が戻ってきた。

「別に」

 真っ赤な顔で春樹が即答した。背を向けている未来は、その様子に気づいていない。憲志は必死で笑いを堪えた。

「あー!え、嘘、嘘でしょう!?」

 突然大声を上げて、未来は棚に乗っていた『ハンナ』を手に取った。

「どうした―――って、え!」

 金魚のようにぱくぱくと口を開閉させる春樹。

 憲志も『ハンナ』を覗き込んだが、どこもおかしなところはない。

「何で驚いてんの」

 春樹と未来は、顔を見合わせた。

「これ見て、どこもおかしいと思わない?」

 表紙を向けられ、憲志は首を捻った。

「別に、いつも通りじゃ」

「記憶が消失してる………」

 未来は、食い入るように表紙を見た。

 何度瞬いても、何度目を擦っても、やはりそこには何もない。

「お前、油性マジックでここに文字書いてたろう……?」

「は。本の表紙にマジックでなんか、ありえない」

 疑心難儀だった二人も、もはや信じるほかなくなった。

 記憶と記録の抹消。

「ここにはな、『ハンナは左目に泣き黒子がある、同年代の女性。』って書かれてたんだ」

「左目に泣き黒子……」

 どんなマニアックな話でも通じた。それはきっと―――。

 彼女は一体どんな気持ちで「はじめまして」と言ったのだろう。

 どんな気持ちで、次に会う約束をしたのだろう。

 ―――余命幾許もない俺が、彼女にできること。

 久しぶりに脳がフル回転しているのがわかる。

 かちり、と最後のピースがはまった。

 親友の目を真っ直ぐ見つめる。

「春樹、一生のお願いってやつ、使ってもいいか?」

 憲志の願いを聞き、春樹は確かに頷いた。

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