『ハンナ』の真実 作者side4
ノック音が聞こえ中に入ってきたのは、憲志と同年代の女性だった。
「どちら様ですか?」
彼女は泣きそうな顔をした。
「瀬戸といいます。橘さんの部下で、代わりに見舞いに行って欲しいと頼まれて、来ました」
素性を明かし終わったときには、既に笑顔になっていた。
きっとさっきの翳った表情は、泣き黒子のせいで見間違えたに違いないと憲志は確信した。
「どうぞ、椅子に」
「ありがとうございます」
もう起き上がる力すらなかった憲志は、ついと視線を横に向けた。
「あれ?」
見間違えだろうかと、目を瞬く。
視線に気づいた瀬戸は、鞄からそれを取り出した。
「あ、これですか?飛坂さんはあの作家の飛坂憲志先生だと窺ったので」
見間違えではなく、確かにそれは憲志の三冊の本だった。
「『チロル帽』と『雪女』まで」
「はい。私、飛坂先生のファンなんです。―――あっ!」
突然、瀬戸が大声を上げた。
「どうしましたか?」
ついと指差され、机の上に『ハンナ』を開きっぱなしにしていたのを思い出した。
「『ハンナ』、お読みになるんですか……?」
「え、ええ。まぁ。実を言えばつい最近まで逃げてたんですけど。でも死ぬ前に、ハンナの正体つきとめたいなぁと思いまして。」
「正体、ですか?」
「友人に言われて気がついたんですけど、『ハンナ』の登場人物にはみんなモデルがいたんです。だけど、どうしてもハンナだけは、誰をモデルにしたのかを思い出せなくて」
瀬戸は身じろぎした。
「あ、あの、そろそろ帰らないとなので」
立ち上がって、ドアに向かってしまう。
「引き止めちゃってごめんなさい。ぜひまたお会いしたいです」
慌てて背中に呼びかける。
振り返った彼女は―――泣いていた。
「きっと、また」
涙を拭うことなく綺麗な笑みを閃かせた瀬戸は、憲志がかけるべき言葉を探しているうちに、帰ってしまった。
残された憲志は、呆然と卓上の『ハンナ』を見つめていた。
どれくらいそうしていたのだろう。
コンコン。
再びの訪問者。
―――もしかして、瀬戸が戻ってきたのだろうか。
淡い期待を胸に、返事をする。
「どうぞ」
空いた隙間から現れたのは―――春樹と未来だった。
「あれ。今日は来られないんじゃなかったの?」
「誰がそんなことを言ったのさ」
春樹が不思議そうに尋ねる。
「たった今、お前の部下が俺の見舞い頼まれたって。俺のファンで……」
「そんなこと、誰にも頼んだ覚えないぞ」
「私もないな」
それでは、瀬戸は一体。
「もしかして、左目に泣き黒子のある女性か?」
春樹の問いに目をむく。
「どうして知ってんの」
「いや、二週間くらい前もファンが来たって言ってたから、その子かなと思って」
「二週間前?俺のこと見舞いに来たのは、家族以外じゃ春樹と七海だけだぞ」
憲志には、それ以外の人物が来たという記憶が全くなかった。
「でも確かにお前は会ってるはずだ。『ハンナ』を持ってきてくれって言ったのだって、その子がきっかけだし」
「は?」
―――俺が『ハンナ』を持ってきてくれと頼んだ?
そういえば未来もそんな風に話していたが、憲志はそのときの春樹とのやり取りが酷く曖昧だった。
「じゃあ、私にハンナについて調べて欲しいって頼んだのは覚えてる?」
窺うように顔を覗き込まれ、憲志はしっかりと頷いた。
「覚えてるよ」
春樹と未来は、安心したように微笑んだ。
どうやら、憲志の記憶が不確かなのは病気のせいだと思われていたらしい。
「あれから全員に電話してみたんだけどね、皆ハンナに当たる人はわからないって言うの」
「俺も、バスケ同好会の奴らに電話したけど、女子は四人だったと思うって」
憲志は少しほっとした。
ハンナは始めから現実にはいないのだと。
憲志が生み出した、物語の中だけの存在なのだと。
「でも、ひとつ引っ掛かることがあってね」
未来が真剣な面持ちになった。
「あの日使ったカラオケに行ってみたの。あそこの店長さん超几帳面でね、お客の記録細かくとって保存してるから。あの日のデータを見せてもらってきた」
二十二年前の予約記録を見せて欲しいという無茶苦茶な願いに、壮年の店長は嫌な顔ひとつせず調べてくれた。
「一九九〇年の六月二十三日、午後六時から予約した、たち―――じゃなかった、七海未来です」
パソコンをぽちぽちと操作する。
「んーと、七海七海………あった。四時間フリードリンク、十名様でご予約いただいてます。当日いらっしゃったのもぴったり十名」
未来は、息を呑んだ。
「本当に、十人でしたか?」
「はい。……あ、でも、途中で二名様が帰られてますね」
未来の話が、憲志には信じられなかった。
「私だって、びっくりしたよ。頑張ったけど、ハンナのこと全然思い出せないもの。でも確かに、ハンナは実在するんだと思う」
日付を跨ぐと、全ての人の記憶と記録から消去されるハンナ。
「俺、ハンナの正体がわかったかもしれない」
憲志の言葉に、二人が驚嘆した。それに構わず、黒の油性マジックに手を伸ばす。
「ちょっと、何してるの!」
あろうことか、憲志は『ハンナ』の表紙に文字を書き出してしまった。
「お前の突拍子もないところは、昔のままだな」
耐性のある春樹は動じない。
「これでよし」
憲志は満足げに、何度も頷いた。
『ハンナは左目に泣き黒子がある、同年代の女性』
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