『ハンナ』の真実 作者side3
花瓶の水を取り替えながら、春樹が笑った。
「それでその女の人、走って出てっちゃったのか」
ぶすっとしたまま、頷く。
お偉い社長さんに世話してもらうのは申し訳ないと思いつつ、実家はかなり遠いところにあるため頼れるのは春樹だけだから仕様がない。
「ハンナに本当に心当たりないのか?」
「ない」
即答する。
「可能性として、ハンナって、偽名なんじゃないの」
「は?」
「いやさ、『ハンナ』に出てくるケンはお前――ただしにそっくりじゃん。で、多分シュンは俺――はるき。ハンナって人物はいなくても、ハンナのモデルになった奴がいるんじゃないか」
その可能性は考えたことがなかった。主人公が自分に似ているとは憲志自身は感じていなかったし、シュンを春樹と思ったこともない。
でも、少なくとも春樹にはそう捉えることができた。ならば、他にも憲志が見落としていることがあるのかもしれない。
「なぁ春樹、頼みがあるんだけど」
「何だ。」
「今度来るときさ、『ハンナ』持ってきてくんない?」
「りょーかい」
向き合わなくてはいけないと思った。
憲志は、ずっと『ハンナ』から逃げていた。
一人歩きして有名になっていく『ハンナ』を重く感じ、押入れの奥に封印した。最後に読んだのは何年前だろう。
あと二ヶ月。
思い残すことがないように。
―――『ハンナ』の真実を突き止めよう。
✻ ✻ ✻
今日お見舞いに来てくれたのは、春樹ではなく
「
「いーのいーの。旦那の親友かつ私の親友でもあるんだから。堂々とお世話になっときなさい」
未来の笑顔は、歳を重ねることでさらに魅力が増していた。
彼女は春樹の最愛の人だ。結婚して『橘未来』になったが、憲志は未だに旧姓の『七海』で呼んでいた。
「あ、そうそう。春樹から預かったものがあるよ。憲志君に持ってきて欲しいって言われたって」
差し出されたものに、憲志は目を点にした。
「―――何故に、今更『ハンナ』?」
それは、憲志の処女作だった。
「何故って、憲志君が頼んだんじゃないの?」
首を横に振る。
憲志にはそんな記憶は一切なかった。
「おっかしいわねぇ……」
未来は何気なくぱらぱらとページをめくった。
ひどく懐かしい。
憲志に親しい人ほど、憲志の人生を狂わせた『ハンナ』を好まない。憲志自身も未来も、『ハンナ』を近くで見るのは久しぶりだった。
「あのさ、前から聞きたいことがあったんだけど、いい?」
「何、聞きたいことって」
未来はあるページを開いて、指差した。
「この合コンってさぁ、私と春樹が出会った合コンをモチーフにしてるでしょう?」
「え」
憲志は『ハンナ』を読み返し始めた。
「多分、ミライって私でしょう。あの時憲志君は序盤でいきなり飛び出してっちゃって」
当時を思い出し、未来はくつくつと笑った。
「じゃあ、ハンナは誰だよ。女子集めたのは七海だし、運命の人と出会った合コンだし、覚えてるだろ」
眉間にしわを寄せて考え込む。
「あの時は……女子一人足りなかったよね」
「嘘つくな。男の人数が足らないからって、俺が無理やり連れてかれたのに」
「あーそういえばぞうか。じゃあ、誰がハンナだったんだろう。憲志君と一緒に飛び出しってった子は……」
必死で考える。
しばらく二人して呻っていたが、ついに未来がポツリと呟いた。
「……もしかして、本当にこの子のことだけ皆の記憶から抹消されてたりして」
沈黙。
「なーんてね。ありえないわよね……?」
「そうそう。現実にあるわけがない……よな?」
再びの沈黙。
一縷の可能性を打ち消す要素を探そうと思考すればするほど、全く思い出すことのできないハンナに、その可能性を肯定したくなる気持ちの方が膨らんでしまう。
「まぁ、俺たちが忘れっぽいだけかもしれないし」
「そうね。今度、その合コンに参加した友達たちに電話して心当たりないか聞いてみる」
「何かわかったら教えてくれな」
「了解」
何かがある。
そう思わずにはいられなくなった。
「とりあえず、『ハンナ』は置いて帰るね」
こくりと頷く。
命数尽きるまで、あと一ヶ月と数週間。
思い残すことがないように。
―――『ハンナ』の真実を突き止めよう。
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