『ハンナ』の真実 作者side2

 コンコン。

 ドアがノックされた。

「どうぞー」

 看護師だろうかと思いつつ、適当に返事をする。

「失礼します」

 緊張した面持ちで入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。色素の薄い髪はふわふわとカールし、肌は透けるように白い。しかし一番に目を引いたのは、左目の泣き黒子だ。

「どちら様?」

 見覚えのない顔なのは確かなのに、憲志がそう聞いたとたんに彼女は泣きそうな顔をした。

 慌てて記憶を探りだしたときには、もう笑顔で。

「初めまして」

 ぺこりと頭を下げた。

 さっきの表情はきっと思い過ごしか見間違えだろう。

「私、瀬戸せとといいます。あの、えっと……飛坂先生の大ファンなんです」

 憲志はげんなりした。作家としての飛坂憲志を恨み続けて一ヶ月。今更、ファンなんて。

「俺がここに入院していること、どこで調べたんですか」

「ごめんなさい。ご迷惑、ですよね。―――帰ります」

 ふと、彼女の鞄の中に目が留まった。

「おい、それって……」

 指さすと、恥ずかしそうに三冊の本を取り出した。

「常に持ち歩いてるんです。お守りみたいに」

 それぞれの表紙に書かれている文字は、『ハンナ』『チロル帽』『雪女』。それは、憲志が作家として世に出した本の全てだった。

「君が好きなのは、『ハンナ』だけしゃないの」

「私はちゃんと、飛坂先生のファンだと言いました。『ハンナ』のファンだなんて、一言も言っていません」

 嬉しかった。

 初めて、自分が認められたような気がした。

「まぁ、その、せっかく来てくれたわけだし。そこ、座りなよ」

 手で椅子を示す。

「―――はい!」

 たわいもない話をした。こんなに自然に笑えたのは、久しぶりだった。

「あの、飛坂さん」

「何?」

 瀬戸はしばらく視線をさまよわせ、言葉を探していた。

「『ハンナ』を書こうと思ったきっかけとかって、教えていただけますか」

 これまでにも同じ質問をいろんな人にされてきた。インタビューでは定番だ。

 でも憲志は、これに対する答えを持ち合わせてはいなかった。

 朝起きてメールをチェックしようとパソコンを立ち上げたら、ワードが開きっぱなしだった。そこに書かれていた文章が『ハンナ』の元だ。

 あえて考えないようにしてきたが、もしかしたら『ハンナ』は、憲志が書いたものではないのかもしれない。

 憲志は、『ハンナ』を執筆したときの記憶が酷く曖昧だった。確かにその前夜、キーボードを叩き続けていたと思うのだが、その時何を考えて、どうして『ハンナ』を書こうと思い至ったかが思い出せない。

 マスコミには嘘を吐いてきたが、飛坂のファンだと言ってくれた瀬戸には、そうしたくなかった。

「正直言うと、自分でもわかんない。気づいたら書けてたっていうか」

「そうですか」

 曖昧な答えに対し疑問を持った様子もなく、あっさり納得されてしまう。

 もっと食い下がられると思い込んでいたので、憲志はうろたえてしまった。

「普通、そこで納得しちゃう?」

「だって、覚えていないことを問い詰めても仕方ないじゃないですか」

 瀬戸の言うことはもっともで、反論のしようがなかった。

「そろそろ、お暇させていただきます」

 時計の針は無情に進み続けていた。

「また、よかったら来てくれないかな」

 それには答えず、瀬戸はただ切なく笑った。

「失礼しました」

 最初同様頭を下げる。

 何となく、もう二度と瀬戸に会えない気がした。

「「あのっ!」」

 二人の声が重なる。

「あ、お、お先にどうぞ」

 瀬戸に先を譲られてしまったが、憲志には言いたい言葉などなかった。ただ呼び止めてしまっただけで。

「俺は何でもないです。瀬戸さんどうぞ」

「……あと、二ヶ月なんですよね?」

 憲志はそのことを瀬戸に教えてはいない。一体情報の入手先は誰なのか。

「何で知ってるの」

 顔を俯けた。憲志の問いに答えることへの拒絶。瀬戸の口をついたのは、それとは全く関係のないことだった。

「………ハンナ、を」

 搾り出すような声。

「思い出してください」

 憲志には瀬戸が何を言いたいのか理解できない。

「どういう意味?」

 意を決したように、勢いよく顔を上げた。

「ハンナは―――実在します」

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