『ハンナ』3

 ぜーぜーと荒い息のまま、二人はファミレスに入った。

 店員にぎょっとされる。

「何名様でしょうか」

「二名です。」

「おタバコはお吸いになられますか」

「いいえ……でいいよな?」

 いつものように否定しかけ、ハンナに確認をとる。

「禁煙で」

「お席にご案内します」

 席につき、無言でお冷を飲み干す。

 空になったコップを置くと、ハンナが申し訳なさそうに呟いた。

「ちょっと……やりすぎた、かも」

「これで『ちょっと』なのか!」

 机に突っ伏す。

「でも、私についてこられたんだから、ケンも足速いじゃない」

「そりゃ、どーも」

 ぐったりとしたまま、片手を挙げる。

 ハンナは直ぐに回復して、メニューを覗き込んだ。

「ケンは何食べる?」

「今は食いたくない」

「わかった」

 ハンナは自分の分のパスタを注文し、二人分のドリンクバーをとった。

 たわいのない話で盛り上がる。

 小腹が空いたときに俺もハンナと同じパスタを注文し、一応平らげた。

 コーヒー片手に会話は弾み、気づけば夜十時を回っていた。

「うわっ、もうこんな時間。ハンナは帰らなくて大丈夫?」

「一人暮らしだから、平気」

 平気、と言いつつ表情が陰る。

「本当に平気なのか?浮かない顔してるけど」

「もう直ぐ、今日が終わるなと思って」

 ハンナとの会話が楽しすぎて、俺は本来の目的をすっかり忘れていた。

 意味のある今日。

「今日も、虚しいか?」

「いつも以上に、ね」

 そんな……。

 楽しませようとしたはずなのに。

 自然と俯く。

「あ、違うの。いつもより充実していたって意味」

「充実してて、虚しいのか?」

 小さく頷く。

「今日という日が楽しかったのは、私一人だけだから」

「俺、すっごく楽しいよ」

「だからこそ。その記憶をケンが忘れてしまうのが悲しい」

「忘れないよ、俺」

「無理だよ」

 ハンナはきっぱり断言した。

「何でそうなんだよ。理由は。俺がハンナを忘れるって言う根拠はあるのか」

 コーヒーに口をつける。それをソーサーに戻すと、ハンナは決意の目で俺を見た。

「この話をしても、きっとあなたは忘れてしまう。それでも……聞いてくれる?」

「聞かせて欲しい」

 俺も、居住まいを正した。

「原因は私にもわからない。でも、産まれたときからそうだったみたい。私ね、家族以外には記憶されないの」

 ハンナは言葉を捜すように宙を見た。

「深夜〇時になるとね、全てが消える。記録にも残らない。戸籍さえも存在しない」

 腕時計を見ると、十時二十分を指していた。

「つまり、あと一時間半くらいで、俺からハンナの記憶が無くなるってことか」

「そういうこと」

 信じられなかった。

 信じたくなどなかった。

 けれど、それを嘘だと笑うには、ハンナは真剣すぎた。

「……本当、なんだな?」

 こくり、と首肯される。

 どうすればいい。

 こうしている間にも、タイムリミットは近づいている。

 その時、ふっと閃くものがあった。

「ハンナのことは、記録でも完全に消えるんだよな?」

「うん。私の名前は絶対に残らない」

「じゃあ、偽名だったらどうなる?」

 ハンナは目を瞬いた。

「ノンフィクションが消えるなら、脚色を加えてやればいい」

 リュックの中から、ノートパソコンを取り出した。幸運なことに、コンセントが自由に使えるレストランだった。

 手早くワードを開く。

「〇時まであと一時間半もあるんだ。実は俺、作家志望なんだよね」

 キーボードの上を、指が滑る。

 いつもより、軽い気がした。

 脳内に、次々とハンナと過ごした時間が蘇り、止まることなく打ち続けられた。

 向かいの席から隣に移動してきたハンナは、浮かない顔のままだった。

「名前を変えたくらいで、大丈夫なのかな……」

 一一時四十分。何とか、『現在』まで書き終えた。

「え……」

 ハンナが驚きの声をあげた。

 ここからが、腕の見せ所だろう。


 全てを書き終え、ハンナの方を見ると、静かに涙を流していた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 笑って見せると、ハンナも笑ってくれた。やっぱり、俺が今まであった誰よりも綺麗だった。

 急に、瞼が重くなる。

「あれ、おかしいな…いつも一時くらいまで、普通に起きてられる……の、に…………」

「記憶を消去するためだよ。次に目が覚めたとき、ケンは私のことを忘れてる。…おやすみ」

「俺…忘れないから。絶対に、俺が起きるまでここに………いろ」

 意思に反して、俺は深い眠りに落ちた。


 朝目覚めると、隣には見知らぬ女が寝ていた。

 焦った俺は、まわりを見渡す。どうやらレストランのようだった。

 テーブルの上に自分のパソコンがあるのを見つけ、エンターキーを押す。途端に、びっしりと文字が打ち込まれたワード画面が現れた。その文章を目で追ううち、徐々に昨日の出来事―――ハンナのことを思い出した。

「んんっ」

 声のした方を見ると、ハンナが丁度起きたところだった。

 不安で一杯なその表情が、ハンナが今までに受けてきた傷を物語っている。

 でも。

 もう、大丈夫だから。

「おはよう、ハンナ」

 彼女は目を大きく見開き、そして堪え切れずに後から後から、ハンナの頬を涙が伝う。

「おはよう。ケン」

 手を伸ばし、親指で涙を拭ってやる。

「……初めて、おはようって挨拶した。朝に名前呼ばれるなんて、夢見たい」

 二人の笑い声と共に、どこかで鳥がぴぴ、と可愛らしく鳴いた。





飛坂憲志 Hisaka Tadashi

 九月十六日生まれ。西邦大学在学。

 第三十二回長島文学賞にて、本作『ハンナ』で最優秀賞

 を受賞しデビュー。

 好きな食べ物は、焼肉。



ハンナ

  著者――飛坂憲志

    長島文庫

    平成三年十月一日  初版発行

  発行者――三上哲夫

  発行所――株式会社長島書店

        東京都千代田区富士見一―五―三

  印刷所――南印刷  製本――ACJ

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