第45話 この街のために

 恵眞がよく通う近所の大きな書店。かつて涌井が勤めていたが、半年前のあの事件のあと彼は辞めたらしい。


 ここの駐車場はとても大きい。二百五十台は入る。今夜はもちろん書店は臨時閉店となっていた。


 駐車場の、オレンジ色の弱い照明はつけられていた。アスファルトにはうっすらと雪が覆っている。


 車は一台しかいない。黒いミニバン。


 きれいだけど、どこか現実味の無い不思議な光景だった。


 もう一台、シルバーのワゴン車がやってきた。しかし駐車場内をぐるぐると回って、黒いミニバン以外誰もいないのを確認すると、なーんだとでもいうふうに去っていった。


「なんですか、緊急会議って」

 黒いミニバンの中には六人乗っていた。


 恵眞と佐伯、それから、『彼ら』四人。この車は『彼ら』のリーダーのものだ。


 助手席の佐伯が後ろの恵眞に振り向いた。


「俺もさっきこいつらと遭遇したばかりさ」

 

 車内は暖房が効いているので暖かい。テレビが二台ある。運転席と助手席のあいだに一台。後部座席の頭上にもう一台。


「高級車だ。高給取りの高級車だ」

 恵眞はやっかみまじりの呻きをあげた。

 

 しかし、テレビ画面の中の出来事を目にした彼女は絶句する。

 

 津波。

 

 仙台空港が津波に飲み込まれていく。


 追いかけてくる黒い波から必死に逃げるトラック。


 燃え上がる気仙沼の町。


 爆発する千葉のガスコンビナート。


 いつしか恵眞は画面を見つめながら涙を流していた。


「恵眞」

「どうしよう佐伯さん。世界が終わってしまう。みんなが時間をかけて少しずつ積み上げてきたものが、全部流されてしまう」


 佐伯は恵眞の手を静かに握った。


 彼女が落ち着いた頃を見計らって、話が始まった。

 恵眞は窓の外の明かりを眺めていた。光は涙でぼやけて、まるで万華鏡を覗いているように彼女の瞳の中で虹を描いた。虹は集って、そして弾ける。

 

 雪がまた降り出していた。


 虹の中に、虎氏の姿が浮かんだ。学ランにリーゼント、シャープすぎるサングラス。彼は語り出した。

「世界が終わると君はいったね。俺も同じことを感じていた。大げさじゃない。これはこの街の存亡の危機だ」


 虎氏が消えて、すだれた彼が現れる。万華鏡の後光が差すその様は、とてもとてもそぐわない。

「町が不安に包まれている。地震がまた来るかもしれないし、明日からの生活がどうなるか見当がつかない。闇に乗じて犯罪が起きても不思議ではない」


 恵眞はうっすらと消えていくすだれた彼に向けて語りかけた。

「この町に住む人たちはのんびりした田舎者さんばかりです。きっと犯罪など起きない」

「俺もそう思いたいが」


 続いて、ドレッドの彼が現れた。こんな状況でも彼はギターを手に、自らの生み出すリズムに乗って揺らめいている。

「八山田の人々は自分自身に対して恐れを抱いているように思う。自分はこの状況の中で、いつまでまともでいられるのだろう。自分の安全よりも、人として大事なものを優先できるだろうか。恵眞、君のいうとおりだ。それを失った時、世界は終わってしまうんだ」


 ドレッドが光に還っていった。そしてその次の人物は、なかなか現れない。後ろから誰かに背中を押されるようにして、ようやく、涌井が現れた。

「人々はこの夜を乗り切らなければならない。明日から、きっと様々な苦難が襲うだろう。それに耐え切れるかどうかは、この夜をどう過ごしたかに懸かっていると俺は思う。それでだ」


 虎氏が涌井と入れ替わりに再び現れる。彼は去り際の涌井の肩をぽんと叩いただろうか。

「俺たちには為すべきことがある。それは俺たちにだけできることだ、そして佐伯、それをするためにはお前に許可を貰わなければならないと思う」


 恵眞は助手席の佐伯を覗き込んだ。うつむいて、厳しい表情。彼は言葉の続きがすでに分かっているかのようだった。


「佐伯、俺たちは不安な夜を過ごす人たちの前で、いまこそ正体を明かそうと思う」


 虎氏は決意をもって言葉を続ける。

「自分たちを過大評価はしていないが、音楽の力というものは強く信じている。凍える人々たちを俺たちの歌声で励ましてやるんだ。でも佐伯、これは今まで俺たちを守ってくれたお前に対する裏切りだ。過去には色々あったが、いまの佐伯には感謝している。俺の苦労はなんだったんだと言う権利がお前にはある。だから俺たちはお前に許しを得なければ今宵歌うことは出来ない」


「そんな言い方ずるいですよ」

 恵眞は揺らめくオレンジ色の光に向かって叫んだ。

「ずるい?」

「だってそうじゃないですか。断れるわけがない。あなたたちは佐伯さんをまた悪者に仕立て上げたいんですか? あなたたちにもし僅かでもプライドというものがあるのなら、なすべきことは、佐伯さんには相談せずに正体を晒して、終わった後で彼に土下座でも何でもして謝ることだったんです。それをこんな、楽な道を選んで神妙な顔をしてんじゃないわよ、白々しい!」


「えーま」

 佐伯の手が恵眞の頬に触れた。彼は嬉しそうに微笑んでいた。


「佐伯さん」

「言いすぎだよ」


「だってわたし」

「いい奴だな恵眞は」


「なに言ってんですか」

 恵眞はぷいっとそっぽを向いたが、いかんせん顔はまっ赤っ赤だった。照れを隠すように、さっき買ったマシュマロの箱を佐伯に差し出した。箱には大きくホワイトデーと書かれている。


「お腹すいてるんじゃないですか、よかったらこれどうぞ」

 佐伯は受け取った箱に書かれた文字を見て、何かいいたそうだったが、言葉にしたのは結局「ありがとう」だけだった。


「今年からイベントのルールが少し変わったんですよ。知らないんですか、佐伯さん」

「そうなのか」


 マシュマロを佐伯は一個飲み込んだ。


「さてと、みんなして俺の答えを待っているんだよね。うん、いいよ、やれば。お前らの好きなようにすればいいさ」


「ほら、そういうしかないわけじゃないですか」


「いいんだってば、恵眞。いい加減俺も疲れてきてたしね。これってバレ方としては考えうる限り最高のパターンじゃん。悪くないよ。ああ、でもさ。頼みがあるんだ。聞いてもらえるかな」


 彼が頼みごとを口にしたとき、恵眞は何も言わなかったが、ただ静かに目を閉じた。


「許可を取るべき人間はもうひとりいるだろ? 不来方を呼び出そう」


 『彼ら』は何故と尋ねた。その必要性を感じなかったし、それにケイによって病院送りにされた女性が、ここでマシュマロを食べながらふてくされているのだ。


 しかし佐伯が譲らないので、『彼ら』は恵眞にどうする? と訊ねた。恵眞は溜息をついた。


「いいですよ、わたしは気にしません。今度はケイさんの刃をひらりとかわして見せましょう」

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