第43話 2011年の大地震
交通事故やスポーツ中の事故などで、大怪我をして意識を失った場合、後から聞いても事故の前後の記憶はすっぽり抜け落ちているということがよくあるそうだ。身体に強いダメージを受けて、脳のメモリー機能が一時的に馬鹿になってしまうのだろう。
それとも、こうも言えるだろうか。あまりにショックな出来事、強すぎる恐怖を記憶しておくということは、それだけで精神に負荷がかかるので、脳が記憶することを拒否しているのかもしれない、と。
なにせ人間とは、夢のなかでがけから落ちたり車にはねられたりすると、そのショックで死んでしまうこともあるらしい。脳がああ死んだ、と判定すると死んでしまう、扱いの難しい生きものなのだ。
ということは、逆のことも言える。
怖くて、心細くて、現実とは思いたくないような夜の記憶。それがどんなに時が過ぎても薄れないということは、人は心のどこかで、その記憶が今はまだ自分に必要なものだと判断しているのではないだろうか、と。
その日の午後2時46分に東日本を包んだ大地震。
始まったとき、ずいぶんとゆっくり揺れる地震だなと、まず人々はそう思った。
携帯電話の地震速報が気持ちの悪い音色を響かせたので、ある程度大きなやつがくるのだろうとは思ったが、あくまでも想像したのは、ある程度のものだ。
マグニチュードの数字が大きくなるほど、地震はゆっくりとしたゆれから始まる。そんな知識はまだ持ち合わせていなかった。
窓ガラスが悲鳴を上げた。建物の柱がねじれ、不吉な音を立てて歪む。人間はむしろ、声を上げることも出来ずにいた。
突然、死を身近に意識したあの瞬間のことを、そしてあの永遠とも思えた長い夜を、この街はいつまでも鮮明に覚えていることになった。
原口恵眞は地震が発生した時、自分のアパートにいた。大学は春休みなので、実家の会津若松市と学校のある郡山市を数日置きに行き来するような日々を送っていたが、この日は郡山にいた。
「……えーと?」
長いゆれがようやく収まった。部屋の中は暗い。停電になってしまったのだ。
倒れた本棚。テレビがもとの場所からだいぶずれた場所にある。食器棚がぱかーっと空いて、中のお皿が一斉に飛び出して粉々に割れてしまった。
飾ってあった貝殻の置物や、木彫りの人形も全て落ちた。
片付けようとそのなかの一つを手にしたが、割れて変わり果てた姿の置物を見たら悲しくなって、すぐにやめてしまった。
恵眞はひどい有様の部屋で数分ぼーっとして突っ立っていた。
千年に一度レベルの天災だとは後から知ったが、取り急ぎ言われるまでも無く、それは彼女にとって人生トップクラスの惨事だった。
トップクラスという言葉を使ったのは、少なくともダントツの一位ではないからだ。
半年前、不来方ケイに刺されたことに比べれば、まだ冷静さを保ちうる余地があった。
あのときデパート跡地の床にうずくまり、生暖かい自分の血が、手や服をぬらしていく。激痛の中『なんでわたしだけこんな目に。今夜は楽しいお祭りなのにぃ、いやまじで痛い』と思った。
それに比べれば、みんなで渡れば怖くない、というやつである。
テレビが付かないので状況は分からなかったが、相当に広い範囲に住む人々が被災しているはずだった。
実家が心配だったので電話してみたが、つながらない。大きな地震のあとに電話回線が飛んでしまうことは前にもあった。仕方がないので『会津は大丈夫? わたしは生きてます』というメールを打っておいた。
安否を確認したい人間がもう一人、本当は親よりも先に顔が浮かんだのだが、連絡することがためらわれた。佐伯敏雄とはしばらく会っていない。
電気ばかりでなく、ガスも水道も止まっていた。
恵眞は床をかき回して、散乱した雑誌やCDの下敷きになっていた愛機PENを取り出した。
そして濃い緑色のパーカーを着て外に出てみた。周辺の様子が気になるし、コンビ二に行って食料の確保をしておいた方が良さそうだった。
近所の民家の瓦屋根が、まとめて崩れて、道路に散らばっていた。
倒壊している家屋は、見える範囲ではないようだった。
写真を数枚撮りつつ、恵眞は歩く。
雪がちらついてきた。
大通りに出ると、交差点の信号機が消えていることに気付いた。車は交差点でお互いに止まり、恐る恐る通過していく。
近くのコンビ二についた。ここには思い出がある。去年の春に、佐伯からビートルズ研究会の仲間にと誘われ、『彼ら』の姿を始めて見たのがこの場所だった。
店の中に入ると、電気がついていないので暗く、そして人々でごった返していた。今までに見たことが無い異様な光景。
商品棚はすでに在庫が切れ始めていた。床に落ちてそのままの商品も多い。
狭い店内におそらく百人近い人々が詰め掛けていて、しかもこの暗さなので万引きをしようと思えば簡単に出来た。でも恵眞はそれをしなかった。
ミネラルウォーターはいの一番に売り切れてしまったようだ。仕方がないので、恵眞はアイスコーヒーとか、スポーツドリンクとか、とにかく水分をカゴに入れた。
食べ物も、弁当やサンドイッチはなくなっていたので、お菓子類を片っ端からカゴに入れた。
空調が切れていて、そのうえこの人口密度なので、三月なのに、自動ドアはあいたままなのに、とても蒸し暑い
レジに並ぶ長い行列の一番後ろについた。レジはひとつしか稼動していない。
バイトの女の子が休むことなく必死にレジを打ち続けていた。
顔にはバケツで水をかぶったかのような汗。さぞ苦しいだろう。それでも彼女は笑顔を絶やさない。あかるい声掛けをやめない。袋一杯に買い物をしたお客を笑顔で見送る。
そのバイトの女の子はこのコンビ二でしょっちゅう見かけていた。健康そうではあるが特別かわいいと思った記憶はない。
でも今こうして鬼神の如く働く彼女を目の当たりにして、これほど美しい女性をかつて見たことが無い、と恵眞は思った。
十五分ほど並んで、恵眞はようやく会計をすることができた。
店員の笑顔。何か声をかけるべきだったかも知れないが、恵眞はすぐに後ろの客にはじき出されてしまった。
買い物が終わってからも、恵眞は店内の混雑振りを眺めていた。一枚だけ写真も撮った。恵眞の見ている範囲では、だれも万引きをしているものはいないようだった。
そして恵眞の二人後ろのお客が会計を終えた時、ビーっと大きな、聞いたことの無いアラーム音が店内に流れた。
「申し訳ありません」
バイトの女の子の大声。
「レジの非常電源を使い切りました。もう会計することが出来ません。店を閉めさせていただくことになります」
こりゃつらい立場だ、と恵眞は思った。まだ品物は残っていた。そしてそれをどうしても必要なお客がこんなにいるのに、彼らに向けて売れませんと言い放たなければならないとは。
その心中を慮ると、胸が痛む。
しかしその後起こったことは、恵眞の想像と違っていた。
「えー、まじかよ」という不満の声が僅かに上がったが、それだけだった。人々は困ったなあという顔をしつつ、品物を戻して溜息と共に店をでた。
恵眞の知る限り、お金を払わずに品物を持ち出すものはいなかった。
この人たちは。
苦しい時ほど人間は本性が出てしまうものというが、律儀なこの行動がいいか悪いか、一概には言えない状況だった。
ルールを守って飢え死にしても、誰も誉めてくれない。
自分だけならまだしも、家で子供が待っていたり病気の年寄りがいたりする場合だってある。いや実際そういう人がここにはたくさんいたはずだ。
それならば、家族を守るためになりふり構わない行動をするべきなのかもしれない。
でも彼らはそれをしなかった。この極限の状況のなかで、八山田に住む人々は愚かにもルールを守りとおした。
それが彼らの本性だった。
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