第39話 ケイとナイフと
そのときビルの一階では成瀬のとどめの一撃が涌井のあごに打ち込まれた。
空のショーケースに腰を叩きつけた涌井。ショーケースのガラスは耳障りな音と共にくだけて、涌井は床に転がった。
「俺とやりあおうなんざ十年早いんだよ」
成瀬は乱れた学ランと、髪型を整える。息も乱れているところに多少年齢の影響が見られる。
涌井に背を向けた成瀬はタバコに火をつけ、大きく吸い込んだ。ちなみに、彼の持つ大きな金属製のライターにも虎の彫刻が刻まれているが、彼は恵眞にこのライターを見せまいとしていた。見たら彼女がまた虎氏虎氏とはしゃぐのは明確だったからだ。
「こうなるんだよなあ、やっぱり。わかってはいたんだが」
倒れている涌井は呆然としていた。虚ろな眼は黒い天井を見上げていた。
「いいか、よく聞け涌井。お前は二度と俺の前に姿を見せるな。俺は今後、お前の顔を見たらそのたびに理由など聞かずにぶん殴る。ただし、お前がこの俺の音楽に触れたいと願うならば、遠くからならば眺めることを許可する。俺は駅前広場で死ぬまで踊り続けるだろう」
涌井は一言、「世話になったな」とだけ返した。
宇佐美のナイフはケイの腕をかすめた。彼女は左手を押さえる。顔が真っ青になった。
「嘘でしょ。ほんとに刺そうとした。なんなのよあなた、どうしてそんな無造作に人に切りつけることができるのよ!」
「ケイさん、あなたは甘い。だから俺のことをそう感じるんですよ。でも俺だって、あなたをこれ以上傷つけずに済ませたい。だから、あとはもうどいていてください」
左腕を気にしていたケイは、ひとつ息をついた。白いスカートに血がついているのが伺える。
「わたしが、甘いだと?」
笑っているのだろうか、彼女は。
「ええ、まあ」
「シュークリームみたく?」
「いえ、そうは言ってません」
「こんな局面でさえも、あの人は」
恵眞は多少の感動をさえ覚えたように呟いた。
「ならば刺しなさい。こんなかすり傷ではなく、わたしをちゃんと刺して、実力でどかして、そしてあなたたち姉弟は去ってゆくのよ。わたしはただでどくつもりはない。わたしが甘くて、あなたが真剣だといったからには、それを証明してもらう。ご立派な覚悟に見合う罪を犯しなさい」
「いいんですか、そんな挑発をして」
「宇佐美、不来方を刺したら、俺がお前を殺す」
宇佐美は佐伯の言葉に鼻で笑った。
「ケイさん、あんなこといってますけど、どうですか。案外嬉しいんじゃないですか。でも俺は引き下がりませんよ。言ったでしょ? 佐伯には負けてられないって。あなたは自分に都合よく解釈したようでしたが。俺があなたに惚れているから尽くしているとでも思っていたんじゃないですか?」
「何度も言わせないで。宇佐美くん、わたしを刺せ」
「分かりました」
宇佐美が歩を進めた。ケイは逃げない。
佐伯は恵眞のそばを離れ、猛然と駆け出した。そしてケイの前に立つ。
「宇佐美やめろ」
「お前に俺は止められないよ」
宇佐美の冷たい目。
「佐伯さん、危ない!」
叫ぶ恵眞。
ケイは、ただ佐伯の背中を眺めていた。
「佐伯くん。この際二人で仲よく刺されちゃおうか」
「いいかもね、不来方」
「佐伯さん、逃げてよ!」
恵眞の声は誰も動かすことができなかった。もう一度彼女が呼びかけようとしたその時、とてもか細い声がした。
「涼ちゃん……」
亜季が初めて口を開いた。か細い声。宇佐美のシャツの裾を掴んでいた。
「亜季、大丈夫だよ」
「ありがとう、でもいいの。もう帰ろうよ……」
「怖い思いさせてすまない。でも、亜季にとってこれは必要なことだと信じているんだよ?」
「色んな面倒なことを今日までわたしの為にしてくれたのに、悪いと思ってる」
「それは別にいい」
「でもわたしは別の方法を捜したい。それとも、もう遅いのかな」
「亜季はいまの自分を変えたいんだよね。学校へも、今からでも通いたいんだろう。でも勇気を出して社会に戻ったところで、また同じことを繰り返すことが怖いんだよね。だからこれは、違う結末を導き出す為の儀式のようなものなんだ。今までの自分が一番好きだったものを自分の手で壊すんだ」
「でも涼ちゃん。壊すことでしかわたしたちは前に進めないの?」
「犠牲の分だけ、幸せになることで、報いるんだ」
「加奈子ちゃんのこともそう思えるの、涼ちゃん?」
宇佐美の目に苦いものが浮かんだ。
「あれは……、彼女は確かに俺が壊した。でもいまの話と同じだろうか。いや、俺は違うと思うよ、亜季。だって俺はあの子のことをそこまで大事にしていたわけじゃない」
「わたしに嘘をつくの? 涼ちゃんは、わたしが陥っている牢獄からかつて飛び出して自由になった。だからわたしとは違う角度から世界の姿が見えているのかもしれない。でもわたしじゃ涼ちゃんの気持ちが分からないと、どうして思うの? あなたの新しい人生が始まって、そしてあろうことか、自分を好きになってくれる人が現れた。なのに涼ちゃんは自分の手でそれを粉々にしてしまった。それでも平気だなんて、わたしにだけは言わないで」
亜季は必死に言葉を吐き出した。宇佐美は何も応えない。ただ、石のように硬い表情で姉を見つめるばかりだ。
亜季は佐伯のほうを向いた。
「あなたがD90さんでしょ。そして『彼ら』の幻の初期メンバー。こんなのが正体でごめんなさい……。でもわたしがシチューです」
小さな声で、恥ずかしそうに、それでも一語一語しっかりと伝えようとする亜季。佐伯は親しげな笑みを見せた。
「こちらこそ、こんなので悪いね。歓迎するよ。よく来てくれた」
亜季の不器用ながらも柔らかな笑顔。
「たぶんあなたがずっと思いつづけてきたことを、わたしもこれから考えていこうと思います。手の届かない大事なものをどう自分の中で咀嚼して、納得させて生きてゆくべきなのか」
「うん、それがいいと思うよ。壊してしまえば全ての決着がつくとは思わないし、やっかいだけどね」
「ええ、本当に」
こんどの笑顔は少しだけ上達していて、そしてとても可憐だった。宇佐美は止まっているエスカレーターを、一段一段下り出した
近づいてくる宇佐美に、恵眞は身構えたが、宇佐美は手にしていたナイフをからんと落とした。
「ケイさん。怪我させてすみませんでした」
「謝るくらいならこんなことをするな」
「俺はもうこの件から手を引きます。上に行きたいのならば、好きにしてください」
「そう。頼もしい仲間を失うことになって残念だわ」
「身に余るお言葉です。でも俺がいないことに早く慣れてください。どのみち今迄だって、俺が側にいたところであなたはずっと一人だったんですから」
虚ろな表情の宇佐美は去って行った。恵眞はエスカレーターをのぼり始めた。立ち尽くすケイの横で佐伯は大きく息をついた。
「お前が刺されたらどうしようかと思った」
「嘘ばっかり。わたしの心配なんてしていないくせに」
「ああ、もちろん。嘘だよ」
佐伯の言葉に、ケイは何も応えない。
そして佐伯と恵眞は亜季に一瞥して、最上階へとゆっくり向かった。
ひとつフロアを登ったところで階下からケイの悲痛な声が響いた。
「あのころのわたしはもういないの。なのにあなただけがそれを許してくれない!」
彼女の言葉はそれっきりで、あたりに再び静寂が戻った。
「佐伯さん」
「いいから、行こう」
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