第38話 二人は駆ける

 薄暗いなかにいたのは、鉄パイプのようなものを持った男性。


 あのCDショップの店員。涌井だ。


 もう一人いた。

 涌井の手首を大きな手でしっかり掴み、涌井がどんなに力をこめても離そうとしない。大きな背中。リーゼント。クラシカルな学ランの裏に覗くのは虎の刺繍。それは彼の生き様。


「虎氏!」

「よう、遅れてすまねえな。久しぶりじゃねえか、湧井。寂しかったぜ」


「相変わらず恥ずかしい格好をしてんな。よっと」

 二人はお互いを突き飛ばして距離をとった。


 涌井は鉄パイプを構えなおす。


「やめろ湧井さん。どれだけ罪を重ねるつもりだ」

「佐伯、心配してくれてありがとうよ。でも俺は違う方法を試しているだけなんだ。誠実に地道にどれだけやっても、俺はうまくいかない。それは十分確認できた。だから次は、ルールを無視することによって、自分の未知の可能性を切り開かなければならないんだ」


「敏、涌井は俺に任せてくれ。俺が成すべきことだ」

 近づこうとする佐伯を、成瀬は制した。


「佐伯さん、宇佐美くんがいなくなってる!」

「なに?」

 いつのまに消えたのだろう。


「追いかけろ、敏、恵眞!」

 成瀬の重低音の効いた声にはじきとばされるように、二人は走りだした。


「まったく格好いいよ、成瀬。おまえはいつまで格好よくいられるんだろうな」

「未知の可能性を切り開くといったな、湧井。ならば俺をぶんなぐって倒してみろ。そうすればおまえの望みはかなうだろう」


「へっ、それはいいこと聞いたぜ」

 二人は再び組み合った。


 フロアの真ん中にあるエスカレーター。もちろん動いてはいない。


 立ち入り禁止のロープが張られている。佐伯と恵眞はそれを飛び越えてエスカレーターを駆けあがる。わずかに漏れる光が二人の影を浮かび上がらせた。


 下のほうからは成瀬と涌井がぶつかり合う音が断続的に聞こえてくる。


 上るにつれ次々と現れるロープを、佐伯はハードルのようにバネの利いたジャンプで飛び越えていく。


 恵眞は彼を懸命に追いかけた。ロープを掴んで、両足をそろえてジャンプ。空中でかわいく回転して着地する。


 二人は踊っているようだった。行く先にのびるエスカレーターは、どこまでもどこまでも、永遠に続いているのかもしれなかった。


 こうしてずっと二人は、二人きりで、走り続けるのだ。


 ねえ、佐伯さん。

 うん?


 こういっちゃなにかもしれませんが、なんだか楽しいですね。

 うん、否定しない。


 ねえ、佐伯さん。

 何さ?


 佐伯さんはケイさんのことが好きだったんですよね。

 ああ、そうだよ。今は大嫌いだけどね。


 それを聞いて安心しました。


 外からは明かりだけではなくお神輿の囃し声も聞こえてきた。


 そして佐伯たちは追いついた。先を行った三人に。


「宇佐美、不来方!」

「ケイさんと亀山シチュー一号二号!」


「あーあ、来ちゃった」


 スポットライトの横に立つケイは口をとんがらせて、笑っている。


 あちこちに置いてあるライトは、おそらくラジオのスタッフが設置したものだ。上の階に仮のスタジオを設置する機材搬入を、安全に行う為だろう。


「ケイさん、大丈夫。俺が邪魔はさせませんよ」

「あら頼もしい。ねえ亜季ちゃん。弟さんががんばってくれてるんだからさ。いい加減腹をくくってよ。わたしがカメラを拝借してこの上にいる『彼ら』のところに飛び込めばそれですむところを、あなたと弟くんの顔を立てようって言っているのよ?」


「姉弟なのか」

「亀山姉弟、ですか」

 佐伯と恵眞は顔を見合わせて、それから亜希と呼ばれた女性を見た。彼女はカメラを手にうつむいていた。


 宇佐美のそれと同じ色合いの長い金髪。紅いカチューシャを身につけている。しかし、派手な印象を与えるのはそこだけだった。顔は青白く、やせていた。


 フレームレス眼鏡の奥の瞳は、おびえているようにも見える。黒いカーディガンにグレーのスカート。


 胸には銀の十字架。小振りなものでひっそりと輝いている。


 その風貌からは、ブログのなかで見せた、生き生きと日本全国を飛び回る、バイタリティの化身とでもいえる面影は、まるで感じ取ることができなかった。


「佐伯さん。わたし正直、この状況がうまく理解できません」

「不来方、俺には亜季さんが無理強いされているように見える。もしそうならお前を許すわけにいかないんだが」


「きゃー素敵。王子様ねえ、佐伯くんは。いいの恵眞? 亜季ちゃんに佐伯くんをとられちゃうよ」


「おい、不来方!」

 佐伯の怒声に、ケイから笑顔が消えた。


「ふん、ムキになっちゃって馬鹿みたい。わたしがいじめているみたいに言われても困るのよ。宇佐美くん、わたしの濡れ衣を晴らしてもらえるかしら?」


「姉は『彼ら』のすごいファンなんだ。彼女より深いファンであるといえる人間を俺は知らない。だから彼女は『彼ら』を壊さなければならない。この説明でわからないのなら、それ以上俺から言うことはない。ただ亜季は今日までそのつもりはなかった。俺の考えは定まっていたけど、彼女には伝えていなかったから。だからはじめ亜季は驚いていたけど、いまは納得してくれている」


「何を言っているの? 宇佐美くん」

 戸惑う恵眞。佐伯は宇佐美をじっと見つめている。

「俺には宇佐美の言う意味が少し分かる。不来方にも分かると思う。そうだろ? 不来方」


「馬鹿馬鹿しい。ねえ、悪いけど、もう時間切れってことでいいよね。さっさと行かないと、ラジオ番組が終わっちゃう。カメラをよこして」

 ケイは手を伸ばした。しかし亜季はカメラを放そうとしなかった。


「どうして? だったら早くあなたが行きなさいよ」

 亜季はうつむいて首を横に振るばかり。


「なんなのよ、うっとうしいわね」

 ケイは無理やりカメラを奪い取ろうとする。


「ケイさん乱暴はやめてください」

 宇佐美は静かに言い放った。手に持ったナイフの刃先はゆらりとケイに向けられた。


「あっれー?」

 ケイは両手を腰に当てて、ナイフを興味深げに眺めた。


 おどけているふうだが目は鋭い。


「宇佐美くんなぜわたしにそんなものを向けるの? あなただって分かってるでしょ。急ぐのよ」


「姉が決断しきれないのならば、この話はお流れです。他人が代わりをするのは僕が許しません」


「別にあなたが許す許さないの話しではないわよ。あなたたちはあくまでもわたしの手伝いをしているだけなんだから」


「あなたからの視点で語ればそうでしょう。でも俺にとっては少し違います。そもそも、このことが目的で俺はこの町に来ました。今日にかけている度合いでケイさんに負けているとは思いません」


「あのねー」

 ケイが宇佐美に向けて一歩だけ近づいたとき、宇佐美はケイに向けて五歩踏み出した。


「きゃ!」


「ケイさん!」

「不来方!」

 下から見ていた恵眞と佐伯の叫びは闇に吸い込まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る