第6章 祭り

第32話 朝帰りのケイ

 安積国造神社秋季例大祭三日目の朝を迎えた。


 まだ通勤の車も少ない早い時間。ケイと宇佐美はおぼつかない足取りで八山田の側道を歩いていた。


 立ち並ぶアパートやマンションの向こうから朝日が二人を照らす。天気の良い一日となりそうだ。


 二人は昨夜、ファミレスで佐伯たちと争ったあと、近所のスナックに向かった。そして思うような結果を得ることができなかった腹いせに、店の営業時間を無視して朝まで飲み続けた。


「ケイさんそっちは車道です。危ないですよ。ほらこっち」

 ケイはついさっきまでの酒のせいで酔っていた。それもかなり深刻に。


 手を引く宇佐美も、本人に酒量を抑えようという意思はあったのだが、勝手に彼の分のお替わりを注文してしまうケイのせいで、相当な痛飲をしでかしてしまった。


 彼は何度「アルコールハラスメント、略してアルハラ」という言い回しを口にしたことだろう。酒的いやがらせ。


 うつむいて歩いていたケイは、思い出したようにぴんと背中を伸ばし、宇佐美に向けて敬礼でもするように手をかざし『大丈夫大丈夫』の意を示した。


「しかしケイさん。あなたがいま踏んでいるのは、車道の中心線です。車来るから戻ってください、まったく。え、アイス食べたい? それよりも早く帰って休んだほうがいいですよ」


「でも今日は平日なのら」

 彼女はまるで回らない舌で、やっとこ言葉を搾り出した。


「だから仕事があるのら。ここまで飲むべきではなかったのら」

「僕もそう忠告したんですけどね。さあ、こっちに戻ってください」


 ケイは宇佐美ににっこり笑いかけると、「車線変更」といって彼からむしろ遠ざかった。

「いえ、それだと車線変更ではなく逆走ですから」


 宇佐美はケイのところにふらつきながらもどうにか駆け寄り、彼女のきれいな手をひいてまっとうな道へと引き戻した。


 犬の散歩をしていた近所の老人が、そんな二人を怪訝な表情で見ていた。


「ああマズイ。走ったら気持ち悪くなった。ケイさん、僕のアパートここなんで。すみません、あなたを送ってやるべきとは思うのですが僕ももう限界なんです。ここからそんなに遠くないですから、どうにか自力で帰り着いてください」


「お、分かった。あとで連絡すんね」


「ほんとに気をつけてくださいね」

「大丈夫だってば。心配するなら、今日わたしが受け持つ患者さんに対してすべきよ」


 宇佐美がアパートの門の向こうに消えていき、ケイは一人になった。


「わたしリカバリー能力は高いほうだから、ま、なんとかなるでしょ」


 しかし現時点では確かに苦しい。頭が痛い、気持ちが悪い、耳鳴りがする。


 太陽も、木々も、民家の屋根さえも、歪みながらケイを叱責してくる。おかげで彼女は浮かれた気分がどこかに引っ込んでしまい、気が滅入ってきた。


 スナックで飲んでいるとき、彼女は少し眠った。あれは何時ごろだったのだろう。窓の外は僅かに明るくなり始めていたように思う。


 そして夢を見た。昔の夢。


 また出てきた。あの女。幸せそうな笑顔。ケイに結婚式の招待状を嬉々として渡してきた。いけしゃあしゃあと。勝利宣言。


 全部知っているくせに。


 いけしゃあしゃあ、とはどういう語源をもつ言葉なのか。ケイはその女のせいで、興味を持ち辞書で調べてみたことがある。


 意味。憎らしいほど厚かましい様、憎らしいほど恥ずかしげのない様。


『しゃあしゃあ』が厚かましいとか、恥ずかしげないを意味していて、『いけ』が憎悪、非難、卑下を表しているのだそうだ。


 うむ、あの馬鹿女のせいで、わたしはひとつ利口になれた。良かった。


 でも分からない。何を間違えたがゆえにこうなってしまったのだろう。あの女とわたしは、立場が逆であっても良かったはずなのに。


 昨夜見た画像。あんなものまで夢に出てきた。

 ネット上の投票で争ったとき、後半佐伯たちを支援するために現れた連中は、結局いったい何者だったのだろう。


 顔の丸い正義の味方は言った。

『何のために生まれて何をして生きるのか分からないまま終わらせてやる』


 ファミレスで見たときはそこまで考えなかったのに、夢の中で思い出したとき、その言葉は自分に向けられていたのだと感じた。


 彼らはきっと知っていたんだ。わたしがバイキンマンだということを。


 彼らがケイに見せた色鮮やかな景色は幻だった。


 そして落ちていく猫。消えていく猫。


 わたしは自分の末路を見せられたのだろうか。


 ケイは泥酔して乱れた時でも、記憶はほぼ残っていることが多い。昨晩、彼女は宇佐美に随分からんだ。


「宇佐美くんも本当は思ってるんでしょ。こんなことして何になるんだって、もうつきあってられないって! いやならやめてもいいよ、わたしは一人でも続けるから。最後までやり遂げてやる。そしたらわたしにもきっといいことが巡ってくるはずだもの」


「あなたがなんと言おうと、僕は怒りません。手伝いをやめることもしません」


「どうして」

 ケイは机に突っ伏した状態で訊ねた。


「教えません」

 ケイは宇佐美の手が自分の髪の毛に触れるのを感じた。


 よくもまあ、どうして、なんて訊ねることができたものだ。ケイは自分に感心した。


 宇佐美のアパートとケイのマンションは歩きで十分ほどの距離のはずなのだか、なんだか、彼と別れてから二十分くらい歩いているような気がする。自分で思っているよりも、はるかに歩みがたどたどしいのだろう。


 ケイは長い直線になっている歩道の向こうから女性が一人、こちらに向かって歩いてくることに気付いた。


 忘れようのない顔だ。


 ケイは朝帰りの帰宅途中。向こうはさわやかな朝のお散歩。


 ケイは一人。向こうは小さなわが子と手をつないでいた。

 あの人の子供。


 親子は道端に咲く花に目を留め、二人で笑う。花は太陽の光を受けて白く輝き、まるでその親子を祝福しているようだ。


 ケイは最短距離で家に帰りつき、一刻も早くベッドに飛び込みたかった。


 しかし彼女は遠回りをしてしまった。


 長い歩道のその先にある我が家から遠ざかるにも関わらず右に曲がって、細い道へと迷い込んだ。そして元の歩道を子連れの女性が通り過ぎていった。


 きっと彼女はわたしに気付いたろう。それでもこうして逃げるほかなかった。


 彼女の視界に入った瞬間、わたしは丸まった背中をしゃんと伸ばし、まっすぐ前を見て、自分が世界で一番強い人間であるかのように振舞おうとした。


 でもできなかった。自分の弱さが悔しい。


 それでもわたしは信じている。虚勢に過ぎなくとも、自分のなけなしの意地を見せる気力が残っている限り、いつか自分にもいいことが巡ってくる。その権利はかろうじてつながっている。


 だから、少し休んだら、今日の職務をきっとやりとげる、そして夕方にはまた佐伯たちとの争いに身を投じる。


 キレイごとに浸る愚か者たちを、わたしが汚してあげるのだ。


 現実を見せ付けてやることがわたしの役目である。


 まわりが何と言おうが構わない。自分を否定した、受け入れなかったものたちと戦い、そして倒すのだ。


 やつらは。


 他人を蹴落として陥れて、汚い駆け引きの末にピラミッドの一番上まで上り詰めたくせに、まるで清らかに誠実に音楽とただ向かい合ってきたような顔をして、だからこそ今があるのだと聖人の如く言ってのける。


 そして自分たちが誰よりもどっぷりと浸かって利用してきた世俗の物事に対して、自分たちの安息をそんな汚いものに乱されたくはないと、いまさら被害者側にまわってみせた。


 そうやってあいつらは美しい秘密を作り上げたのだ。


 偽善に満ちたその秘密を、お前らは馬鹿だと罵りながら暴いてやったらきっとすっとする。


 そして自分は、あいつらを越えた存在に進化するのだ。


 すばらしいじゃないか。これが無意味だというのなら、世の中に意味のあるものなどない。


 こんなシンプルで痛快なことってないだろう。それがわたしの望みなのだ。


 向こうは平気な顔で、こっちだけコソコソ逃げるなんて状況は面白くない。


 どうせならこっちの顔を見たとたんに『てめーこのやろー、あのときはよくもやりやがったな』とひどい形相で追いかけてこられたほうがまだいい。


 そしたらわたしはあかんべーでもして、笑いながら逃げていくのだ。うん、悪くない。


 ともすれば胸にすきま風が吹いて、心が自分を信じることをやめてしまいそうになった。でも彼女は、恐れを振り払うようにもう一度背筋を伸ばした。

 

 大丈夫。今度こそ、きっとわたしの番なんだ。

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