第22話 青い光

 佐伯はしばらくケイの背中を眺めていた。


 彼女の白いコートは椅子にかけられていた。赤い薄手のセーターが映えて、より人目を引いている。


 佐伯は、ちらちらと彼女を見て連れとささやくほかの男たちと、自分が同じ種類と分類されるのが嫌で、ついっと目を逸らした。


 そしてグラスを掲げ、マスターにおかわりの催促をした。


 ほかのカウンター客と話をしていたマスターはそれに気付かず、佐伯が「マスター」と小さく声をかけると目線だけこちらに向けて、頷いた。


 佐伯はケイのほうを見た。彼女はただ、グラスのふちを白い指でなぞっていた。


 お客の一人が立ち上がり、ケイのほうへ歩き出した。

「隣座ってもいい?」


 薄いピンクのジャケットを着たその男はグラス片手で、ケイに声を掛けた。

 声の低さ加減も、笑顔の質も、悪くはなかった。


 自分だけの世界の奥底で膝を抱えていたケイは、その急な呼びかけに、シャボン玉が一つ目の前で弾けたかのようなわずかな戸惑いを見せた。


「こんばんは」

「俺、この店にはよく来るけどさ。君のことは初めて見るよ」


「そう? 確かに久しぶりだけど、何度か来てるよ」

 佐伯はカウンターで並んで話す二人を眺めながら酒をすすり、それから壁にかけてあった都会の町並みをシンプルな図形で書き表した絵画に目を移した。

 そして残っていた酒を全部喉に流し込んだ。


 グラスをテーブルにとんと置いて、佐伯は立ち上がった。


「不来方」

 佐伯は気付くとケイの横に立ち、話しかけていた。

 躊躇した覚えもあやふやに、いつのまにか移動していた。


「佐伯くん」

「久しぶりじゃん。あれ、この人は知り合い?」


「ううん、そうじゃないけどちょっとね。佐伯くん、今日は一人? ふうん」


 佐伯を振り返ったケイの表情は嬉しそうにも見えたが、それを鵜呑みにすると彼女の手のひらの上で踊らされることになる。


「ほんとに久しぶりだよね、佐伯くん。こんなに近くで話すのはいつ以来だろう。時々会っているような気もなぜだかするけれど」

「俺もだ。そんな気がしてる」

「きっと夢の中でわたしたちは語り合っているのね」


 視界の端でピンク色のシャツがゆっくり後退していくのを確認して、佐伯はケイの横の空いたばかりの椅子に座った。


「あーあ、行っちゃった。余計なお世話だよ、佐伯くん。わりとかっこいいひとだったのに」

 子供のように口をとんがらせて、ケイは遺憾の意を示した。


「なんだ。それは悪かったね。不来方の男の趣味があんなのに変わっているとは思わなかったもんでさ」

「代わりに、あなたが話し相手になってくれるのかな?」

 ケイはしっとりと微笑みグラスに残っていたわずかな酒を飲み干した。それからマスターにもう一杯注文した。


 彼女から次の言葉が出てくるまで、しばしの間があったが、流れ続ける音楽が上手に間をつないでくれた。


「わたしてっきりね、次に佐伯くんに会うときは、会うなりひっぱたかれるものだとばかり思っていたんだけどな」

「加奈子ちゃんのこと? そんな気にならないんだから、しょうがないじゃん」


 ケイはグラスをくいっとあおった。来たばかりの薄い緑色の液体は一口でなくなった。彼女の紅く染まった目元から、夜の海に映る月のような光が佐伯に向けて放たれた。

「情けない男」


「それが俺の性分だ」

「昔、わたしに告ってくれたときは、そこそこ男らしかったのにね。ああ、あのときは振っちゃってごめんなさいね」


「不来方、酔ってんだろ」

「ご心配ありがとう。でもこのくらいのお酒じゃ、わたしを落とすことはできないのだ。かっかっか」


 強気のケイだが、ろれつが段々と怪しくなってきていた。


「おかわり」

 彼女はグラスをもった手を、離れたところで食器を磨いていたマスターに向けて、びんと突き出した。


 佐伯は彼女を眺めながら、七本目のタバコに火をつけた。

「わたしも一本もらっていいかな?」

 ケイの言葉に佐伯は何も応えず、タバコの箱を軽く振って、彼女に差し出した。ケイは指でそっとタバコを抜き取り、形の良い唇にそれを運んだ。佐伯は銀のライターを彼女のもとにかざして、タバコに火をともした。


 様々なかたちで姿を見せることがある彼女の心が、いまはふうっと煙の形をとって現れ、消えていった。


「佐伯くんはもうぜんぜん引きずってないってことね。そりゃそうよね、今は恵眞ちゃんていうかわいい彼女がいるんだもんね」

「からむね。またいつもの気まぐれ?」


「一から十まで、一貫した理屈に従って生きている人間なんているものかしら。わたしは少なくともそうじゃない。例えばね、今なら、あなたの愛の告白を受け入れてしまうかもしれない」


「だめだよ不来方」

「だって、本当だもん」


「そうじゃなくて、君はどうしても俺を怒らせたいみたいだけど、だったら、もう少し俺の想像の範疇を超えるようなことを言わなきゃ」


「ふうん、わたしの気持ちはすっかり伝わっちゃってるのね」

「まあね」


「困ったな。そしたらわたしは何を語ればいいのかしら」

「あえて仕事の話でもする?」


 ケイは本心から嫌そうな顔で首を振った。その多少コミカルな仕草は、見るものによっては相手への親愛を感じさせたろう。


「やめて、本当に。あなたはそんな無粋な人間ではないはずよ佐伯くん。わたしたちの仕事ほどおしゃれなお店にそぐわないものはないのよ、知っているでしょ」


 佐伯は声を出さずに笑った。グラスの氷も愉快そうに揺れて、からんと音を鳴らした。


「ああ、ダメだ。もうわたしは思い出してしまった。あの音、あの匂い。大事な仕事だとは思うし、もちろんやりがいを感じてはいるけれど、忘れる時間をもってこそ、日々を耐えることができるのよ。ひどい、佐伯くんがこんな仕打ちをするなんて。返してよ、わたしの静かな時間を返してよ」


 佐伯への苦情を並べながらも、彼女はどこか楽しそうだった。


「俺、前から怪しんでたんだよ。不来方に歯科看護師がちゃんと務まっているのだろうかって」

「失礼だな、真面目に働いているわよ」


 佐伯はもう一口酒を口にした。


「来ないね、あいつ」

「あいつって?」

 佐伯はその名を告げた。『彼ら』の中の一人。


「へえ、彼と待ち合わせをしていたんだ、佐伯くん」

「いや、してない。でもあいつはこの店によく通っている。だから今日当たり顔を出すんじゃないかと、ふと思っただけさ。俺にはわかっているよ、不来方はあいつと偶然会えるのを期待して、今夜この店に来たんだろう」

「佐伯くんはわかってないよ」


 ケイは微笑んだ。青白い光に包まれた笑顔。


「そうだろうか?」

「どうしたのよ佐伯くん、そんな話はよしましょうよ。わたしはあなたと楽しくこの時間を過ごしたいのよ」


「俺はひどい人間だよ。君の望む言葉なんてわからない。自分の言いたいことを言うだけさ。君は昔の恋人とここであえることをいつまでも期待している。それがかなわないのなら自分の見栄えの良さを利用して、男たちにちやほやされるためにここにいるんだ。好きにすればいいさ、それで心が癒されるというのならば。でもそんなことで君のなにかが変わるわけじゃない。変わりたいのだったら他にやるべきことがある。それを君だってわかっているはずなのに、ダメな女だよ、不来方は」


「あーあ」

 ケイは残念そうに眉をしかめ、小首をかしげた。


「にらめっこに負けちゃったわ」


 笑っちゃだめよ、あっぷっぷ。

 彼女はそう言ってグラスを手に立ち上がり、半分ほど残っていた薄い緑色の酒を佐伯の頭にひたひたとたらして、それからグラスをテーブルに音なくおいた。


 彼女はそして店を去っていった。


 後には一人のうそつきが残された。

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