第21話 誰もひとりになりきれずに

 氷の中に閉じ込められたかのような、青白い、かすかな照明。


 どんなに深い場所にでも届く下界の無遠慮なノイズは、流れる音楽がカーテンとなって防いでくれる。


 駅前のバーに佐伯はいた。ここにはよく来る。恵眞や成瀬(恵眞いわく虎氏)らと来ることもしばしばある。でも今日は一人だ。


 いつだったかの、恵眞が真剣におどけた顔を思い出す。あのときの彼女は楽しく酔いがまわっていた。

「佐伯さん、わたしたちは踊るべきなのでは?」


 彼女の笑顔。

 深い森の中でふと空を見上げたときの、高い場所に何層にも連なる木の葉と枝をものともせずに貫いてくる太陽の光のような笑顔。木々が揺らめくたびにきらきらと加減を変える。


 店内にかかるレコードは艶のある音色を奏でていた。しとしとと、ふんわりと。よく伸びるトランペットのいななきを合図に曲は始まり、恵眞は踊るべきと直感したようだった。


「目立つのは俺も嫌いじゃないけどさ。踊るの? え、まじで?」


 ほかのお客はみんな座っていた。ほどよい狭さが心地よい店内の椅子は七割ほどの混みようだった。


「いいじゃないですか目立ちましょうよ。悪目立ちだろうが、善目立ちだろうが構いません。わたしたちは好きなことを好きなようにやって、行けるところまで行って、そしてやがて消えていくんです」


 恵眞は顔をくしゃっとつぶして笑い、佐伯は抑え気味の笑みを返して、椅子から腰を上げ恵眞の手を取った。


 しゃらんと音がした。恵眞が首に下げていた、小さな白い貝殻を集めたネックレス。


 佐伯の手に導かれて踊る彼女がくるりと回るたびに、ネックレスは合いの手を打つように鳴った。


 彼女がくるりと回るたびにその瞳は佐伯を見つけて、今初めて彼と出会ったかのように瞬いた。


 照明の青白い光は恵眞の表情に陰影をつくり、彼女の心の形をくっきりと浮かび上がらせる。


 周りのお客たちは、踊る二人をまるで気にせずに連れとの会話を続けるものもいれば、一人グラスを傾けながら、ぼんやりと二人を見つめているものもいた。


「上手いね、恵眞」

「佐伯さんのエスコートもまあまあですよ。でも大丈夫ですか、わたしの踊り。どこか剣舞が入っちゃってません?」


「ああ、そういえば。俺の手じゃなくて刀を握っていたほうがよりしっくりとくるかもね」


「いてっ、椅子にかすった」

「狭いんだから動きは必要最小限にしないと」

「ふん」


 恵眞は両手を羽ばたくように大きく振り回しながら二つまわった。


 剣舞。

 

 幕末の少年たちが敗北を受け入れて、この世で最後に為したこと。意地でも美しくあらんとした、悲しくて、愚直で、強い心。


 それから佐伯は、カウンターでロックグラスを傾けていた成瀬の姿を思い出す。


 店のマスターと成瀬は仲が良いので、しばらくマスターは話しかけていたが、やがて成瀬のそばから離れた。


 成瀬ははしゃいでいたように見えた。下ネタには、もっともっと下のほうから、打ち返してきた。

 でもマスターにはわかった。今日は一人で飲みたいんだなと。


 成瀬は一人になりたかった。深く深く一人になれるそのための場所としてこの店を選んでくれたということは、マスターにとってはきっと冥利なことなのだと思う。


 佐伯もかつてそんな音楽にあこがれた。人が本当に一人きりになりたい夜に、そばにいることを許される音楽を自分の手で作り出したかった。


 キーボードは恵眞がいくらねだっても、聴かせたことはない。


 成瀬と、あのCDショップの店員、涌井とは古い付き合いだった。彼は成瀬とともに、郡山の駅前で踊っていた時期がある。学生のころの佐伯はその姿を見ていた。でも佐伯が彼と面識を持った頃には、踊ることからも音楽を奏でることからも身を引いていた。


「でもな」

 成瀬は佐伯に語ってくれたことがある。

「あいつは枯れてなんかいなかった。違う自分の活かし方を見出そうとしたんだ。いい年になってからそれをやることがどんなに苦しいか分かったうえで」


 それまでのコンビニや警備員などのバイトを転々とするフリーター生活をやめて、いまのCDショップに勤め始めた。そこもまずはバイトとしての採用だったが、やがて真面目な勤務態度が認められて社員採用となった。


「それはあいつなりの新しい勝負の仕方だった」

 商品としての音楽というものに、アマチュアミュージシャンはときとして否定的なスタンスを見せる。彼は肯定することに転じてみた。


 己のセンスに基づいて、売れるべきと確信する音楽。それが売れるためにはどうすればいいか。


 店内の配置場所。購買意欲をそそるあおり文句。CDショップの店員という立場ではできることは限られている。しかし考えることをやめなければ、取れる手段が何かしらきっとある。


 売れることが目的ではないととがり続ける気持ちは痛いほど分かるが、売れることによって、次につながり、新しい可能性が生まれることもまた事実なのだ。


 しかし、考えて考えて、その結果としてやがてひとつの場所に彼は収束を始めた。

「人間てなんなんだろうなって、あいつ言ってたよ。そんな答えが出るわけ無い問題に頭を突っ込んじまっているときてのは、もう相当調子悪い時だ。あいつが欲しかった能力は、たとえごみくずでも戦略で億の金を生み出すほど大衆に買わせる力だ。でもその一方で、人間はそんなに馬鹿じゃない、こんな手に引っかかったりしないって思いたい気持ちがいつまでも消えなかった。やればやるほどあいつは追い詰められていったんだよ」


 佐伯は、成瀬の話を聞きながら、いたたまれなくなって、グラスの酒を一気にあおった。


「涌井は壊れちまった」


 見回しても、今夜は恵眞がいない。成瀬がいない。佐伯は今彼らを見つけなければ、もう二度と会えないのではないかという不安に襲われた。


 小振りのテーブル席に一人座る佐伯は、マスターに声をかけて、空になったグラスを掲げた。


 マスターは無言でうなずき、新しいグラスに手を伸ばした。


 割と気に入っている黒のジャケットを羽織った佐伯は、この店に来てから六本目のタバコに火をつけた。


 そのとき店の扉がゆっくり開き、白いコートの女性が一人入ってきた。


 その女性はカウンターに座り、一言マスターに語り掛け微笑みを彼に与えた。


 彼女は肩肘をついて、息をひとつついた。その目には、周囲の客たちの姿は映っていないようだった。マスターすらも、義務としての意志疎通を許されたあとは、彼女の世界から姿を消してしまっていた。


 差し出されたグラスにそっと口付け、赤い酒で喉を浸す。


 ああ美味しい。


 言葉は無く、瞳がそれに代わって彼女の感想をとても表現力豊かに語った。


 青白い照明は、彼女のことをも、均等に、自制の心をもって照らしていた。


 男性客たちはさきほどからずっと彼女に目をひきつけられていたが、当人は意に介さず、もう一口酒を飲んだ。


 いつか恵眞は、彼女のことを歩く苺ショートケーキと評した、


 佐伯はその姿を見て思った。


 ケイもまた、一人になるためにこの人混んだ場所に足を踏み入れたのだろう。

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