第18話 懐かしい時間
恵眞が大学以外で外に出かけることは久しぶりだった。
ここのところ大変だったのだ。いやなことがあった。いつか佐伯と一緒にいるときにみた、前田加奈子の穏やかな微笑が脳裏に浮かぶ。彼女は恵眞たちの前から姿を消してしまった。
大学に来なくなり、アパートにはいるらしいのだが、誰も見ていない。
恵眞は事の経緯をおそらく正確に把握できている。
『彼ら』の偽物として協力してもらったうちの一人、八山田のCDショップにいたあの男が裏切った。『彼ら』のポスターを突如店中に張り出し、この町に住んでいることを大きな文字で宣伝し出した。
下手すると本物の写真を一緒に掲示する勢いだったのかも知れない。店の評判を考えるとリスクが大きいので踏みとどまったのだと思う。
こうなると偽物の決定版を世間に定着させる、本物の姿として信じ込ませるという恵眞と佐伯の目論みは崩れてしまった。撮り貯めた四人の写真はまだ足りない。いまさらメンバーを一人入れ替えることはできない。
恵眞はあのCDショップの男のことを、色仕掛けにはもろそうだなと踏んでいた。実際その通りだったのだが、不来方ケイがあのような人間に自らを売るわけがないと信じていた。
ケイはかわりに他人を売り渡した。恵眞たちに勝つために、いらないカードを一枚捨てた。
「ケイさんと、わかりあえると思っていた自分が悔しい。彼女は、わたしがどんな理由があろうと選択しない手段を選択できる人間なんだ」
「恵眞、もう関わりたくないというなら止めないよ」
事態が発覚した時、佐伯は天を仰いで目を閉じながら呟いた。
涙をこらえているかのように恵眞には見えた。
加奈子を傷つけた苦しみを、その身に浴びているようだった。
「佐伯さんが辞めるなら、わたしも辞める」
佐伯は恵眞を見据えた。そして無言のまま、首をゆっくりと横に振った。
「こういうこと初めてじゃないから。慣れないけどね」
「わたし言いましたよね。嫌な思いを一緒に分かち合うって。一人で抱え込まないで下さい。わたしはあなたの側を離れませんから。でも自分たちのせいで、こんな形で、他人の人生を狂わせてしまうことになるなんて考えていなかった」
恵眞にそんな資格はない。ケイにもない。
では誰にならば資格があるというのだろう?
階段をだいぶ上って、恵眞は振り返り見下ろした。木々のすきまから会津の町並みが広がる。
階段をのぼりきるとそこは広場になっていて、白虎隊士の墓が十九個並んでいる。大勢の観客たちが、剣舞が行われるスペースを取り囲んでいた。
高校のころ、後輩の岩瀬との交際はほぼ一年半続いた。
彼はパソコンやゲームのみにうつつを抜かしていたわけではなく、学業も優秀だった。恵眞などよりもはるかに優秀だった。
恵眞が三年生になった頃になると、岩瀬の進路について口論になることが増えた。
「どうしてよ岩瀬くん。君の成績ならば、どこにだっていけるのに、地元の大学が第一志望でいいの?」
「第一志望っていういいかたはちょっと違うかな。だって第二志望がないから」
「わたし真面目に話してんのよ」
「俺だってまじめだよ。俺が真面目じゃないかどうかは恵眞が決めることなの?」
地元にはコンピューター系の県立大学があった。悪い学校ではないが岩瀬の成績ならそこよりももっと世間的評価が高い学校へ行くことができた。
固執するだけの価値が恵眞には見出せなかった。
恵眞は医療系の大学を志望していたが、彼女の成績ではたいした学校には行けそうもなかった。むしろ専門学校にいったほうが道は開けるようにさえ感じた。思うように成績が伸びずあせっていた恵眞にとって、岩瀬のスタンスは最後まで受け入れることができなかった。
とどのつまり恵眞は彼の能力に憧れ、嫉妬していたのだ。
白虎隊の剣舞が始まる時間となった。拍手が起こる。白い袴をまとい、鉢巻きを締め、剣を腰に差した剣舞委員会の後輩たちが、清廉さを感じさせるきびきびとした足取りで広場に現れた。
舞い手の男子部員が墓石に正対するかたちで横一列に並ぶ。数名の女子部員が彼らの周囲に配置された。女子部員は観客に脱帽を求める。それから、持参のタオルを座布団代わりにして、地面に正座した。
墓前に礼。柔らかく構えをとる。観客たちのざわめきは静まり、百段近くある階段の下から車の走る音が僅かに聞こえた。
恵眞は観客の最前列でカメラのシャッターを押した。シャッター音すらはっきり響くほどの沈黙。
音のない空間というものを、カメラに閉じ込めることはできないものか。
白袴の一人が詩を吟じる。腹の底からの良く響く美声。
少年団結白虎隊。
後輩たちの白き舞いは、澄み切った美しさを帯びていた。
長い時間がそこには込められていた。体育会系の部活と変わらず、今日までこつこつ、こつこつと練習してきたのだ。
彼らの指先には神経が行き届いていて、よく砥いだ刃のようだ。
そよぎながら舞を見つめるまわりの大きな木々たちは、あるいは百四十年前のことを思い出しているのだろうか。
散っていく若い命を、見届けることしか出来なかったあの日のことを。
恵眞の心もまた剣舞を見ているうちに、舞っていた過去の自分と重なっていった。そしていくつかの相違を否応なく感じ取ることになった。
あのときは岩瀬のカメラが恵眞の姿を捉え続けていた。
舞う恵眞の心はときに無心になり、ときに、彼女を巡る全ての物事に思いを馳せていた。そこには岩瀬の優しい面影が少なからず占めていた。
いまはもういない。
彼女の心の中にも岩瀬の居場所はなかったし、彼が飯盛山で剣舞の写真を撮ることももうないのだろう。
そう、こんなふうに、あんなふうに。
……あれ?
恵眞は覗いていたカメラ越しに、取り囲む観客の自分がいる位置の丁度反対側に、自分のと同じカメラを持つ男の子がいるのを見つけた。
カメラを下ろして、恵眞は向かいの男の子を見つめた。
相手もカメラを覗くのをやめて、こちらを見た。
いるし、と恵眞は思った。
岩瀬は、気付くの遅いなあ、とでもいうふうに眉をしかめて笑った。
剣舞が終わり飯盛山の山頂からは人々がはけていった。
恵眞は岩瀬に声をかけるか迷っていたが、向こうから普通に話しかけられたので、石の階段を下りながら話をした。
「岩瀬くんのと同じカメラを買っちゃった」
恵眞は相手に指摘される前に白状した。
「あ、ほんとだ」
彼の感想はそれだけだったが、とっくに気付いていたに違いなかった。
「岩瀬くん、今年は来ないと思ってたよ」
「ああ、うん、わりとヒマだったから」
恵眞は思わず吹き出してしまった。
「ヒマ? わたしの記憶違いでなければ、君は受験生のはずだけど」
付き合っていたころだったら、彼のこんな言葉でもいらいらっとしてしまっただろう。恵眞は平気になっている自分に、少しだけ寂しさを感じた。
「忙しい時は忙しいんだよ?」
「そりゃ、もう九月だものね。センター試験まで四ヶ月しかない」
「ん? あ、そっか。あれって一月か」
いまいち会話がかみ合わないのは、話すのが久しぶりだからではなく、以前からのことである。
「俺、大学に手伝いに行っててさ。そっちで」
「まだ、通ってるんだ」
彼は進学するつもりでいるコンピューター系の県立大学に、前から頻繁に通っていた。プログラミングか何かの大会で優れた素養を見せた岩瀬は、大学の教授と友達になってその人の作業を手伝っているのだ。
それはそれでいいことだと思うけど、進学先は分けて考えるべきではないのか。恵眞はかつて何度もそう言った。いまの彼女は、やきもきする立場にはない。
「高校の先生らはうるさいんじゃないの?」
「あの人たちも仕事だから。大変だよね」
「そういう言い方って、良くないよ?」
「あ、皮肉言うつもりはなかった。撤回する」
素直な子なのだ。高校では、異端児扱いをされてしまっているようだけど。
「他の大学にいく必要性を自分で感じたらそのときに考えるよ」
「わたしも今ね、珍妙なことに首をつっこんじゃってんのよ。あ、それからね、付き合っている人がいるの」
「ほう」
恵眞は佐伯たちとのことを他人に話すことなど一切なかったが、彼には話した。誰かに吐き出したかったし、昔の思いは消えても彼をある部分においてはとても信用していた。
「それでか。この前、恵眞のブログが戦場になってたよね。なんだこれって思ったんだ」
「見てくれてるんだ」
「俺、パソコンに関しては恵眞のお師匠様だからさ。技術的におかしなことやっていたら指摘するつもりだった。恵眞のアドレスは変わってないよね」
「助かるよ、お師匠様」
恵眞が礼を言うと、彼はふっとわれに返ったようになった。
「やりかたをまとめたのを送付するだけだから。それで終わりにする」
「ほう、岩瀬くんでもそういうのは気にするんだ」
「だって恵眞が今付き合っている人に悪いじゃん。俺って一応元カレでしょ」
「一応も何も元カレだよ。もっと言うならわたしに元カレは君しかいない」
「そっか」
それからもうしばらく話して、互いに手を振って別れた。
「俺もね。好きな子いる」
岩瀬の言葉に、恵眞は微笑んだ。
好きだったよ、と言葉にしたかったがそれはルール違反だ。
少なくとも、今なお常識に半身浴程度には浸かっている恵眞には言えなかった。
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