第16話 邪悪

 加奈子と宇佐美がいっしょに布引高原に写真を撮りに行ったのは夏のこと。


 加奈子は明るい水色のチェック柄のシャツを着て出かけた。服装の傾向を宇佐美のものに真似てみるのは勇気がいった。


 布引高原は八山田からだと車で一時間かかる。発電用の大きな風車が十数個密集していて、磐梯山や猪苗代湖を見下ろすことができる。


 売店などは少ししかないが、近いしお金がかからない、気楽な観光地だ。


 そこにたどり着くまでの山道はかなり曲がりくねっていて、着くころには加奈子は車酔いで顔色が悪くなっていた。


「ほらお茶。ごめんね、俺運転荒かったかな」

「ううん、そんなことない。乗り物弱いのよわたし」


 ペットボトルのお茶を受け取りながら、加奈子は笑顔を作った。

 風がほどよい強さで吹いていて、おかげでまもなく加奈子の気分はよくなった。


 巨大な風車の足元には花畑が広がり、その間を二人で並んで歩いた。何組もの家族連れやカップルとすれ違った。


「連写機能はなるべく使わないようにしているんだ」

 加奈子と花にカメラを向けながら、宇佐美がそんな話をしてくれた。


「連写機能? パシャパシャパシャって、凄いスピードで撮るやつね。使わないんだ。どうして? かっこいいじゃない、あれ」

「かっこいいかな? 便利なのは確かだよ。動くものを撮る時は、何枚も撮りまくれば、一枚くらいはこれという写真が撮れる。でもさ、俺はそれじゃつまらない」


 彼がこんなふうに、加奈子に対して自分の流儀のようなものを話してくれたのは初めてだった。いつも紳士的な対応はしてくれるけど、心の奥底を決して見せようとしない宇佐美。


 加奈子はうれしくて、もっと詳しく聞いてみたかった。

「待つだけ待って、一撃で決めるってこと?」

 加奈子はおどけて、手で斜めに切る仕草をした。


「決められないときのほうが多いけどね」

 宇佐美も同じように切る真似をしたが、彼の手は途中で軌道がへなへなと逸れた。加奈子はますます嬉しくなって、声をあげて笑った。


「俺のやっていることは、そうやってずっと待ち続けているだけのことなのかもしれない。でも徒労に過ぎないとしても、それくらいしかできない」

その物言いは少し寂しさを感じさせた。


「ケイさんのことを言っているの?」

 加奈子は思わず尋ねてしまった。


「いや、違うよ?」

 宇佐美は笑った。見えたと思った彼の心を無慈悲に覆ってしまうような笑顔だった。


 宇佐美のことばが本当かは分からない。


 しかし、さっきの言葉とともに彼の脳裏にはきっと誰かの面影が浮かんでいた。叶わぬ思いに、彼もまた人知れず苦しんでいるのだ。


 わたしじゃないのは確かよね。


 よくあること。よくあること。

 でも、つらいなあ。


 花が揺れた。加奈子どんまい、と言っているようだった。


 ほっとけ、と彼女は思った。


 そして平穏な日々が続いた。宇佐美と進展はなくとも定期的に遊びに出かけていた。


 ある日部室で久しぶりにケイと二人きりになった。


 互いにパソコンに向かっていて、会話は甘いものとお茶が欲しくなったときくらいだった。


 老夫婦みたいだったけど、彼女と数ヶ月ともに過ごすうちに、こんなふうにお互い自然にいれるようになったことが、加奈子にとって嫌ではなかった。


 加奈子はお菓子の情報をあつめたり、映画の公開情報を検索したりしていた。


 ケイが何をしているのか。これがよくわからない。


 画面を見つめてさっきから考え込んでいる。腕を組んでの集中した眼差しは、強敵と将棋とか囲碁とかで頭脳戦を繰り広げているようでもある。


 コーヒーを彼女の机においたとき、ケイはとっさに何かそれまで見ていたものを閉じてしまった。


「オンラインで、ゲームとかしているんですか?」

「違うわよ。なんで?」

 コーヒーをすするケイの微笑は完璧で、加奈子がなにかを探り出す余地は見当たらない。


 気安くなんでも話せる関係になったようでもあり、大事なことは何ひとつ見せていないようなケイだった。


 そんな距離感だったものだから、ケイから相談を受けたときは内心驚いた。

「しつこい男の人につきまとわれているのよ」


「え、大丈夫なんですか」

 さすがケイさんと言いかけた加奈子は、ケイの沈痛な面持ちを見て思いとどまった。


「昔からの知り合いで、お世話になったこともある方だからあんまり冷たくもできないし。困っちゃうよ、こういうの」

「それは困りますねえ」


 このときはそれで話が終わった。


 その数日後、授業の後で加奈子と宇佐美が大学のメインストリートを歩いていた時のこと。

「加奈子、ケイさんの困りごとの件は聞いているんだよね」

「うん、聞いた」


「実は俺さ。相手の男に一人で会いにいったんだ」

「え、本当に。危なくなかったの」


「うん、無事だった。行くまでは怖かったけどね。でも展開は予想外だったよ。俺さ、その人と意気投合しちゃった。ちゃんと話すといい人なんだ」

「ええ?」


「彼がいうには最近ほかにもっと気になる女性ができたっていうんだよ」

「ケイさんより魅力的な女性に出会ったってこと? 凄い人がいたものね」


「うん、凄いと思うよ。でさ、誰だと思う」

「わたしが知っている人なの?」


「ケイさんと一緒にいるのを見かけて、それから加奈子のことが頭から離れないんだって」

 一瞬、加奈子の脳内のハードディスクががががと音を立てたような気がした。過負荷はいけないのだ。


「わたし? 嘘でしょ?」

「嘘じゃないよ。どうしてそう思う?」

「だって宇佐美くんはさ、わたしとケイさんが並んで歩いていて、それを見かけた男のひとが、わたしの方に恋するなんて話が信じられるの?」


「加奈子、卑屈になっちゃだめだ」

「えっ」


「信じられるよ、加奈子。そういうことだってある」

 加奈子の質問は、どう答えるしかないかが分かっている、ある意味で卑怯なものだったが、それでも宇佐美がこれほどまっすぐ加奈子を見つめてはっきりと答えてくれるなんてことは思いもよらなかった。


 加奈子は視線をそらした。心の中は舞い上がっていた。嬉しすぎて。


「迷惑だろうとは思うよ。俺だって、今度は加奈子が付きまとわれるようなことになったら耐えられない。でもね、その人結局はちゃんとした分別がつく人でさ。加奈子とどうにかなりたいとまでは考えていないんだよ。年齢が離れすぎているから。それでね」

 宇佐美はそこで言葉を区切った。彼の口調と、表情のギアがそこで一段変わったようだった。それによって加奈子に逆らいがたいものが生み出された。


「一度だけ会ってほしいんだって。それでいい思い出を作って、あとはすっぱりあきらめるといっている」


「宇佐美くんはそれを信じるの?」

「俺もいま君に伝えるまでには随分悩んだんだよ。で、結論。俺はあの人を信用する。だから加奈子、君は俺のことを信用してよ。ね?」


「……少し考えさせて」

 奇妙なことになってしまった。蓼食う虫も好き好きということわざがあるが、この件はそれに取って代わる故事として語り継がれていくのではあるまいか。


 加奈子は自分に人を引きつけるものがあるなんて思えない。ケイを比較対象とすることが間違っているのかもしれないが。


 でも宇佐美は言ってくれた。信じる。そういうことがありえる。ケイが加奈子に敗れるということは、この世に存在しうる出来事なのだ、と。


 彼の力強い口調を思い出して、加奈子の胸に宿ったものは勇気だった。


 珍しく部室に五人も集まった日があった。目的は文化祭の打ち合わせだった。


 話の内容は、なぜか加奈子が考えていたものと少し違っていた。


 打ち合わせが終わった後、しばらく部室で雑談をしていたが、一人、二人と帰って行き、最後に加奈子とケイの二人だけになった。


「加奈子は帰らないの?」

「ええ、ちょっと」


 ケイは今日話しあったことをまとめているのだろうか。パソコンのキーボードをリズミカルに叩いている。


「ケイさん。わたしあれからしばらく考えていたんです。宇佐美くんから話があったことを」


 加奈子の言葉に、ケイはキーボードの手を止めた。彼女はその意味を察知したようだった。


「ごめんね、加奈子。わたしはずるい」

「いえ、ケイさんが謝ることはないですよ」


「でもね、わたしは自分の口からあなたに伝えるべきだったのよ。わたしは嫌な役目を他人に押し付ける卑怯者だ」

「そういっていただけるだけで嬉しいです。わたしは自分の判断が正しいのだと信じることが出来ます」


「加奈子?」

「会ってみますよ。その人と。絶対に一度きりですけどね」


「そんな。助かるけど、悪いよ。なにかほかの手を考えた方がいいんじゃないかしら。あなたにだって彼氏とかいるんじゃないの?」


「大丈夫。わたしはもう決めたんです。彼氏なんていませんし。ねえケイさん。わたしは宇佐美くんのことが好きなんですよ」


 加奈子の言葉に、ケイは笑顔を見せた。素敵な笑顔だった。


 一生忘れられなくなりそうな笑顔というものがこの世にはあるのだなと、感心した。


 彼女がその男性のもとを訪ねたのは夕方だった。


 ちょうど同じとき、ケイと恵眞は日和田の観覧車に乗っていたが、加奈子には知りようのないことである。


 彼は、加奈子に少しの間待つように言った。ここは初めて来る場所ではない。

 来てくれてありがとう、と彼は言った。


 待っている間、あたりをみまわす。

 あれ?

 なんだろう。違和感がある。

 この前とは明らかに何かが違う。加奈子はそれがなんなのか考えた。そして思い当たった。ああ、そうだ。これだ。


 円形状の壁。CDショップ。


 そこには彼女を取り囲むようにたくさんのポスターが貼られていた。すべてが『彼ら』のポスターだった。


 彼女の記憶では、以前『彼ら』のポスターはこんなになかったはずだ。どんな状況の変化が起きたのだろう。


「すごいですね。なにかキャンペーンでもやるんですか」

 加奈子の声に力はこもっていなかった。

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