第10話 にせものがかり
大学のクラブ棟を出た恵眞がシャツのポケットから携帯電話を取り出すと、佐伯からのメールが来ていた。もう彼は自分のマンションに戻っているらしい。
暇ならこいと書かれていたので、気軽に、行きますと返信したが、メールを送ってしまってから彼の部屋を一人で訪れるのは初めてだと気づき、歩きながら緊張が走った。
生徒用の駐輪場で自転車の鍵を開けて、十分ほど走ると佐伯の住むマンションに着いた。
エレベーターで三階に昇り、深い緑色のドアの前に立った。呼び鈴を押すと佐伯はすぐにドアを開けた。
彼は上半身に服を着ていなかった。
「わあ」
「いらっしゃい」
「何平然としてんですか。服を着なさい、服を」
「いてて、どつくなよ。外を歩き回ったら汗かいちゃったからさ、シャワー浴びてただけじゃん。まあ喜んでもらえたようで何より」
恵眞は佐伯をもう一度どついて、ぶつぶつ言いながら部屋の中に足を踏み入れた。年が離れているからなのか、佐伯の恵眞に対する態度は女性に対するそれとは程遠い。
灰色のカーテンと、フローリングの上には小ぶりなベージュのカーペット。大きな姿見が壁際に立っているテーブルもベッドもシックな色使いでまとめられていて、モノクロで写真をとったとしてもさほど変化が分からないかもしれない。
プロスポーツのユニフォームが色鮮やかになったのは、カラーテレビが出現してからだという逸話が、なぜだか恵眞の脳裏に浮かんでいた。
机の上には医療関係の本が二冊置いてあった。その横にはノートパソコン。おとといはこの部屋で、炭水化物同好会の対応にあたった。
そのときは恵眞のほかにもう一人仲間の男性がここに来た。その人は自前のノートパソコンを持ってきていてそれを使った。恵眞はパソコンを持っていないので、スマートフォンで作業をした。
「コーヒー飲む?」
「あ、どうも。コーヒー的なものはさっき飲んだばっかりなので、出来ればほかのを」
「そ、ではウーロン茶的なものを」
「恐縮です」
黒いTシャツを着た佐伯が、氷の入ったグラスにペットボトルのウーロン茶を注ぎ、黒いクッションに座った恵眞の前に置いた。
「映画、どうでした」
「あの監督のいつもどおりの感じだった」
「どろどろで、CG使いまくりですか」
「レディオヘッドの主題歌はかっこよかった。原作を知ってると、確かに面白さ半減しちゃうタイプの話だよね」
恵眞はその映画の原作を読んでいた。恵眞の主義として、原作の小説や漫画を知っている場合、映画化されても観にいくべからず、というものがある。出来の問題ではなく、愛着を持っているもののイメージが壊れてしまうのがイヤなのだ。
でももし佐伯が誘ってくれれば、ついて行っても良かった。
「さっきまで炭水化物同好会の部室にお邪魔していたんですよ」
「え、何しに行ったのさ」
「あいさつですよ。プリンを食べてきました。カラメルの苦味が強くて、好きな味でした」
「いい度胸しているなあ、恵眞は。何にもされなかった?」
「あんな大勢人がいる学校のなかで、何をされるっていうんですか」
「ミルフィーユ、お土産に買ってきたんだけど、じゃあ今はいらないか。家に持って帰る?」
「いえ、今すぐ食べられますよ」
「すごいな」
佐伯は冷蔵庫をまた開けて、ミルフィーユの入ったピンクの箱を取り出した。
「ケイさんが気になることを言ってましたね」
「ほう」
「先日偽者やってもらった四人なんですけど、その中の一人を知っているって」
「何だって?」
テーブルにミルフィーユが載った白い皿を置こうとしたところで佐伯の手が止まった。
恵眞は無言で小皿をひょいと取り上げ、ミルフィーユを倒して食べ始めた。さくさくの生地がおいしい。
佐伯は両腕を組み、うつむいて考え込んでいる。静かな眼差し。彼の思考が高速で回転する様を横目にお菓子を食べる、恵眞にとっては至福のときが流れた。
「佐伯さん、虎氏にも相談しよっか。あの四人のうちの誰かにケイさんの手が回って、裏切られたら、わたしたちの思惑はひっくり返っちゃう」
「そうだね。でもあんまり慌てふためかない方がいい。不来方が嘘を言っているのかもしれない」
「確かにそれはいまのところ判別がつきませんけど」
「少なくとも、あのなかの誰かを深く知っていて確実に操れる自信があるのなら、恵眞にはわざわざ言わないだろう」
「そっか」
虎氏と恵眞が呼んだ男性は、佐伯たちが用意した偽物の四人のひとりである。ちなみに彼を虎氏と言っているのは恵眞だけだ。
撮影に使ったライブハウス。そこは昔佐伯が出入りしていたことがあるらしく、虎氏とはその頃からのつきあいだという。地下にあるライブハウスの控え室で、恵眞は虎氏と初めて対面した。
三週間前のことだ。
「あなたは」
そのとき恵眞は驚いた。彼女の瞳はむしろあの夜のコンビ二で本物のほうの『彼ら』の姿を見たときよりも可憐に輝いた。
駅前で奔放に踊っていた、三昔前の不良の格好。学ランの裏地に龍と虎の刺繍。
恵眞の目の前に立っていたのは虎のほうの男性だった。
彼女と目があった彼は細い眉をしかめ、サングラス越しににらみを利かせてきて、怖かった。しかし後ろの佐伯を見ると、眉の角度はとても親しみやすい印象を人に与える角度へと変わった。
「敏雄ぉ」
「成瀬さん」
ぱちんと互いの手を合わせて、いえーい。
姿だけでなく、振る舞いがいちいち古い。
どうやら先刻恵眞が下りた階段は、昭和時代へと続いていたようだ。
「この子が今年の新戦力。原口恵眞。恵眞、彼は成瀬さん。郡山の音楽屋の間ではちょっとした顔なんだぜ」
「あ、始めまして。わたし」
丁寧に頭を下げようとした恵眞。しかし成瀬がひとさし指をちっちっちっと振ってさえぎる。
「はあ」
恵眞は力なく微笑んだ。そして仕方なく、いえーい。ぱちん。
控え室の白い壁はくすみきっていて、ステッカーやらサインやら、熱い決意表明やらで隙間なく埋められていた。
いつかの誰かの、自分にできる最高の音楽を今からやるのだという思いの残り火が、ひとひらどこかに留まっているようだった。
「佐伯さんも音楽やってたんでしょ」
「うん。俺はね、キーボード。モノになんなかったよ」
佐伯は曇りのない笑顔を見せた。
「敏、面子は三人集めておいたぜ。信用できる人間だ」
「うん、ありがと」
「三人? そしたらひとり足りませんよ」
恵眞の問いかけに虎氏こと成瀬は、またにやりとスケールの大きな笑顔を見せた。
「残る一人は俺がやってやる」
「無理です」
思わず即答してしまう恵眞。
「いい返しだ。嫌いじゃないぜ。でも大丈夫なんだなこれが」
そんなことを言っても虎氏が混じっていたら、音楽性の相違はおろか、なに時代の写真かも不明になってしまう。
想像すると面白いことは面白いが、どこからその自信が来るのかこのときの恵眞には不思議だった。そして撮影の当日、彼女は再び驚くことになる。
「虎氏が来ていないじゃないですか」
おしゃれなそれらしい格好をした人々は先に来ていたのだが、学ランの虎氏の姿がない。
「いるじゃん、恵眞の目の前に」
佐伯にそういわれても、彼女の前には大柄で髭づらだけれど、細い目が優しそうな、素敵パパ風の男性しかいなかった。
「遅いなあ虎さん」
「いやいや恵眞、俺だよ俺」
「あっ、オレオレ詐欺ですね」
「現実を受け入れろ恵眞。それが成瀬さんだ」
「佐伯さん、無理です、ポリシーのある人だと思っていたのになんだかすごく裏切られた気分です」
パパ風の彼が指をちっちっちとやったが、その格好だと違和感しかない。
「裏切られたとかいうなよ。こういう格好をすることだってあるし、これはこれで嫌いじゃねーんだよ」
「えー、なんだかなあ」
不満げな恵眞を放っておいて、撮影は始まった。
『彼ら』がかつて歌ったというライブハウスの看板の前で、懐かしそうな様子の写真。
偽の写真であっても、虎氏の目に漂うものは真実の哀愁だ。
虎氏がハエ的な音楽に目覚めたころ。それはその時点でとても時代遅れなものだったが、彼には関係なかった。これしかないと思ったのだ。以来離れていくものもあれば新たに惹かれてやってくるものもあって、自分のペースで音楽を続けていた、
「嫌になったりしなかったの?」
虎氏の傍らで共にライブハウスの看板を見上げながら、恵眞が聞いた。
「ほかにやりたいことが生まれて、そっちに流れていくぶんにはちっとも文句はねえよ。やった音楽は必ず年輪みたいに人の中に残っていくものだしな」
「立派だね虎氏。さすが郡山の重鎮」
「へっ。ミュージシャンなんてもんは、偉くなっちまったら終わりだぜ」
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