第9話 愉快なティータイム
ケイと恵眞は、加奈子がコーヒーを淹れる様子をそのまま眺めていた。彼女は淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ、座っている二人と、最後に自分の席に置いた。
「恵眞さん、お砂糖とクリームは?」
「ありがとう。どっちもいらないです」
「はあい」
加奈子は笑顔で返事をすると、ケイのコーヒーカップの横にはスティックの白砂糖二本と、ミルクを置いた。恵眞の顔に「oh」という表情が浮かんだ。
ケイはそれを見て、恵眞のことを表情が豊かな子だなと思った。しかし一方で、出力する感情の取捨選択をきっちりしているようなふしも感じとった。
加奈子は、さきほどのケイの質問への答えの続きを話した。
『彼ら』の音楽が好きかどうか。
「元カレが大ファンだったんです。カラオケに行くとよく歌っていて、声も似ていて。その人とは嫌な別れ方をしちゃったもので聴くと、胸中にどす黒いものが、こうもやもやーっと」
ケイは加奈子の言葉を初めの三文字ほどしかちゃんとは聞いていなかった。
「加奈子はどう思う? あの人たちは、いまも素顔を隠したままで活動を続けているでしょ?」
ケイが話しながら恵眞のほうを伺うと、彼女はプリンをプラスチックのスプーンですくって食べながら、加奈子とケイを交互に見つめていた。ケイと目が合ったが互いに表情は動かなかった。
「ゆくゆくは歯科医としてやっていくつもりだから、顔を晒したくないって言う話ですよね。うーん、ファンからすれば、ちゃんと姿を見せてもらえると嬉しいんですかね。ほんの少しだけど、釈然としないものを感じるかも」
「アーティストが背負わなければならない責任のひとつを『彼ら』はうやむやにしているのよ。放棄しているとまで言っても良いのかもしれない」
ケイの言葉のすぐあとに、恵眞が口を挟んだ。
「そんな大げさに考えるようなことでしょうか。本人たちが好きなようにすればいいと思うけど」
ケイは加奈子の方を向いて、あくまで彼女に対して語りかけた。
「立場によって感じ方は違うのでしょうね。ファンでなければ心底どうでもいいかも知れない。でも彼らの音楽に癒され、人生の指標を示されたと感じるほど好きな人ならば、そのまっすぐなメッセージと、彼らの誠意に欠けた姿勢のあいだに、ズレを感じるかもしれない。また、彼らのようなアーティストを目指している若者からすれば、音楽活動を歯科医になるまでのつなぎとする彼らを、傲慢であるとみなすかもしれない」
加奈子は素直に頷いた。
「彼らの行いは、他人を傷つけてしまう可能性があるんですね」
「同じ町で暮らすわたしたちは、その事について他所の人間よりも少しだけ深く考えなければならない立場にいるんじゃないかと思うの」
恵眞は話の間も黙々とプリンを食し続け、早くも食べ終り、赤いコーヒーカップに口をつけた。
「ああ美味しかった。ふう。……まあ、考えることは悪くないですよね。けど、それでもわたしは本人たちの自由ではないかと思います。少なくとも他者が『彼ら』に不快な思いをさせていい理由は見当たらない」
「わたしは自分を正当化する理屈を求めてなどいないわよ。『彼ら』がその素顔を公表するべきだという考えが存在することは自然であるというだけ。それにこういう変わった存在のしかたを続けていると、むしろ危険な人間を吸い寄せてしまうことがあるの。これは本当。芸能人の目撃情報なんていまどき山ほどあるけど、トラブルなんて起きないじゃない。へたに隠さない方が安全なのよ」
「ニュースになっちゃうようなものが頻繁に起きるわけじゃなくても、トラブルはいろいろあるはずですよ。何かを為した人間が、栄光だけでなく、それに付随するやっかいごととも付き合っていかなければならないのは、世の摂理なんでしょう。多分。でも佐伯さんが考えていて、わたしが賛同した部分というのはそこじゃないんです。単純に、わたしの隣に普通にいる人間が、実は何億円も稼いでいる超のつくほどの有名人だったりしたら面白いじゃないですか。もちろん、近しいひとたちは彼らのことを知っています。正体を隠しているからって、生活がへんにけち臭いわけじゃなくて、友達には常識の範囲内で、気前よくおごったりすることもあるらしいじゃないですか。それでもよその人間にはばれないんです。周囲の人間の善意によって。素敵なことだと確かに思いますよ」
「そんなのただの透明人間よ」
「おとぎ話という言葉を佐伯さんは使いました」
「えっと、その佐伯さんというのは、どういう方なんですか?」
加奈子が邪気のない声で問いかけた。
「恵眞ちゃんの彼氏。彼女はメロメロだから、彼の言うことは何でも正しく聞こえるの」
「おお」
「どよめかないで加奈子ちゃん。あのねケイさん、怒りますよ。そんなんじゃありません。佐伯さんだって、どうかなって部分はあります。ケイさんのほうが正しいと思えばわたしはあなたの味方をします」
「ケイさんの、味方?」
加奈子は二人の会話で、事態を理解することは出来なかったようだ。しかし対立している雰囲気は伝わったらしい。少しだけ緊張の色が、その青白い顔に加わった。
「『彼ら』は人の善意によって守られている。恵眞もその考え方に賛成ということね。いまのところは」
「そうです」
「少し話がそれてもいいかな。言葉尻を捕まえさせてもらうけど、善意ってなにかしら」
「人生観が問われる設問ですね。辞書を引けば、相手によい結果を導こうとして行為を行なう気持ちを指す、とでも載っているのでしょうか」
恵眞はパイプ椅子に深く座りなおして、ケイの背後の窓に広がる夏の青空を見つめ目を細めた。そして言葉を続けた。
「身内の親しい人間に優しくするのは、まあ普通ですよね。現実的な感情です。一方、関係の薄い他人に、同じようにしてあげる義務はありません。テレビで遠いどこかで起こった事故のニュースが流れるときに、遺族の悲しむ姿にともに涙するのも、事故の決定的瞬間に興奮するのも、見る人の自由です。そこの反応の違いに優劣はないとわたしは考えます。ちなみに動物のなかで少し知能が高いものになると、自分の子供の死を悲しむことが出来るそうですが、他人の死を悲しむことが出来るのは人間だけらしいですね。でもわたしはそれだって、優れていることを意味するものなのかどうか、ちゃんと考えてみるべきだと思います」
恵眞の話が一区切りついたところで、加奈子がほうと息をついた。
「難しい話が好きなんですね。恵眞さんは」
「つまんない?」
「そうでもないですけど」
「わたしはなかなか興味深く聞いているわよ。原口恵眞。どうぞ続けて」
ケイの瞳が冷たく輝いている。
「美人は得ですね、ケイさん。湖の水面が季節の違いや朝夕の光で色んな美しさを見せるように、どんな感情の時でもあなたはきれいに見える。わたしみたいな平凡な顔立ちの子は笑ってなんぼですから。さて話を戻します。自分にかかわりのない人間に対してエネルギーを裂くことは、それがたいした負担でないのならば、ありえます。ほかには、募金に皆がお金を払っているのに、自分は払いたくないとします。でも、払っていないということが周囲に知られてしまう危険がある場合には、自分を守るために身銭を切るでしょう。わたしがあなたの質問への答えとして言いたいのはそうでない場合のことです。負担がかかることになる。それをやらなくても、誰にも分からない。自分の評価が下がるようなことはないけど、上がりもしない。それでもしてあげるのがわたしの考える善意というものです。そしてケイさん。今した話のプラスとマイナスを逆にすることで、それは『悪意』に対するわたしの考え方にもなります」
「おや、殴り返されたかな」
ケイはそういいながらも、どこか嬉しそうでさえある。
「恵眞は自分が利用されているとは考えないの? その善意によってあなたが損害を受けても、相手は決して救いの手を差し伸べたりしないでしょ。やった本人はあくまでも自分の意思による行動と思いたいのだろうけど、そう仕向けられているだけだということにどうして考えが至らないのかしら」
「負担を厭わないという意味のことを伝えたつもりですが? 見返りを得られず傷つくこともそこには含まれます」
「最後までそれを貫くことができたら、誉めてあげるわよ。聞く一方じゃなんだからわたしの考えも教えてあげる。言葉の定義は実はあなたのいうこととさほど変わりはないわ。でもそれはこの世には存在しないものなの。光と同じ速度で進む物体が実際は存在し得ないのと同じ。理論上の話。ただの時間つぶし。誰だって他人が不幸になったとしても自分が不幸になるよりははるかにましでしょ。どうあっても自分だけは不幸にならない筋書きを作り上げて、それをすました顔で遂行するの。そうすることが正しい、すなわち善意であるかのような理屈を作れるものなのよ。人間て頭がいいから。つまり現実上の善意とは、快適に生活するための道具ってことね。車なんかと同じ」
恵眞の顔が、この部屋に来て初めてゆがみを見せた。
しかしそれを認めるケイの目に勝利感はない。
恵眞の心の中に波紋が広がるのが見て取れて、やがてそれは収まった。
「ケイさんの考えの一部がわかりました。収穫があったといって良いと思います。これで帰りますよ。プリンごちそうさまでした。宇佐美くんが文句を言ったら、甘いものに関してはこれで一勝一敗だと伝えてください」
「駅前での件は、あなたが当たり屋をやったんじゃないの」
ケイの可愛らしい笑い声を背に、椅子から立った恵眞は入り口のドアに手をかけた。
「ああそうだ恵眞」
恵眞は振りかえる。
「なんでしょう」
「あなたたちが準備した本格的な偽物。人選は気を遣ったようでなかなかかっこいいじゃない」
「聞いたら喜ぶと思います」
「あたしその中の一人のこと、よく知っているわよ」
恵眞はケイの顔を眺めた。そのふっくらした形のいい唇からそれ以上言葉が出てこないのを確認してから「おお怖い」と笑って、彼女は部室を後にした。
ケイと加奈子が残った部室の中では、しばらく沈黙が流れた。耐えかねて「コーヒーのお替わり、どうですか」と加奈子が立ち上がった。
「うんお願い。加奈子、宇佐美くんにはプリンは恵眞が三つとも食べちゃったって言おうね」
ケイはスプーンでプリンをすくって一口食べた。
「あはは。それはいいですね」
「ね、今の話、意味がわかった? わたしと恵眞はどういう関係に見えた?」
加奈子はコーヒーポッドを手に、かわいい眉をしかめて考えた。
「恋敵、ですか?」
「なにを馬鹿な。まいっか。加奈子、いつまでもそのままの君でいてね」
ケイは力なく笑いながら天を仰いだ。
そのあとの呟きは、ほとんど口の動きだけの小さなものだったので、コーヒーを注ぐ加奈子の耳には届かなかった。
「あの子わたしを哀れんだ。わたしのことをあんな目で見るなんて、許さない」
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