第2章 ニセモノ

第8話 炭水化物同好会、不来方ケイの休日

 炭水化物同好会の部室はクラブ棟の二階にあった。


 O歯科大の学生は、卒業してからも学校の近辺で働く場合が多い。

 なので社会人になって数年たってもキャンパスに頻繁に顔を出す人間はやまほどいる。


 今日のような日曜日はほとんどの歯科は休業日なので特に多く、構内の平均年齢は目に見えてあがる。


 不来方ケイは午後から部室に来て、ノートパソコンの画面を眺めていた。室内にはもう一人女子学生がいて、携帯をいじっている。


 このサークルは、ケイを名誉会長として『彼ら』の正体を世間に決定的な晒し方をせんとするために活動している。


 部員は彼女に賛同してここに入部してくるのだが、ごくまれに炭水化物同好会というかりそめの名前に惹かれてやってきてしまうものもいる。


 いまケイの目の前にいる前田加奈子がまさにそれだった。


 彼女はなにも間違ってはいないはずなのだが、ケイからすれば、なんておっちょこちょいな、そしてはた迷惑な、と思わざるを得ない。


 戦力になる可能性もあるので、とりあえず入部を承諾したが、彼女は本当にただの、お菓子を作るのも食べるのも大好きなだけの女の子で、ケイは、真実を伝えるのがはばかれていた。


 原口恵眞の勧誘に失敗したことと合わせて、失態であるとケイは考えている。


「ケイさん、ケイさん」

 加奈子は朗らかに話しかけてくる。ケイの席の側までやってきて、自分のピンクの携帯電話の画面を嬉々として名誉会長に見せた。


 ケイはパソコン上の見ていたページを閉じた。


「このお店って行ったことありますか?」

「あるわよ。チーズケーキが絶品だった」


「おいしそうですよね。わたしも行きたいな」

 一緒に行こうか、というケイの言葉を加奈子が期待しているのは明らかなのだが、ボタンひとつ押せば容易に約束が成立するようなその状況を、彼女はあえて無視する。


 ケイが甘いものに精通しているのは嘘ではない。本棚に並ぶ、お菓子の作り方についての書籍は、全て彼女の私物だ。自分のマンションに帰れば、調理器具や、高級な材料がたくさん揃っている。


 しかしケイは、それが不自然なほどであっても、自分の内面をこの長い黒髪を工夫なく下ろした、どこにでも売っている紺のトレーナーを着ている野暮ったい色白の少女に晒すつもりはなかった。


「こんにちはー」

 からっと明るい声でやってきたのは恵眞だった。


 部室の敷居を勝手に跨いで、それからドアの内側を今更思い出したかのように二回ノックした。あまりに自然に入ってきたので、加奈子は携帯から目を離して笑顔で会釈した。背後の視線には気付かずに。


「あら、こんにちは。恵眞ちゃん」

 気持ちを整える時間を要しはしたが、ケイは普通に挨拶を返した。


「宇佐美くんは来てないんですね」

 恵眞は入り口付近においてあったパイプ椅子を広げて腰掛けた。そして加奈子を一瞥して微笑んだ。彼女とはいまが初対面なのだろう。そのか細い雰囲気が恵眞には皆無の要素であることからか、興味を持ってしげしげ眺めている。


 それから恵眞はケイのほうに向き直った。

「実際に会うのは久しぶりですね。改めて挨拶に伺いました」


「そう。佐伯くんの差し金にしては、馬鹿正直ね」

「彼からは何も言われていませんよ。あの人は今ごろ駅前で映画見てるんじゃないかな」

「連れてってもらえなかったんだ。あらら」

「一人になりたいときってあるじゃないですか」


 ケイの口元にかすかな笑みが浮かんだ。


「ちょうどね、おとといの楽しいおしゃべりを見返して、ひとりで反省会をしてたの」

「あ、感想戦でもやりましょうか」


 おととい。ネットの掲示板上で攻防があった。長時間にわたるメッセージの応酬のなかで、お互いどれが誰の言葉はおおよその察しがついた。ビートルズ側の佐伯と恵眞、炭水化物側のケイ、それから宇佐美が話の中心だった。


「宇佐美くんはネットでの会話になると案外おしゃべりさんですね」

「そうなのよ」


 宇佐美は手ごわい論客だったが、それでも攻勢だったのは恵眞たちだった。恵眞たちの作戦が効果をあげていた。


「あれを思いついたのは、自慢じゃないですけどわたしなんですよ」

「エクセレント」


 ケイはパソコンの画面に目を戻していた。先ほどまで見ていた画面をもう一度開いて、マウスを操作しながら、片手間で恵眞への受け答えを続けた。


 端で見ている加奈子からすると、普段の彼女らしからぬ素っ気ない応対が不思議だったろう。


「加奈子」

 ケイの感情が読みづらい目が、ふいに加奈子のほうを向いた。

「はい」


「お茶にしよっか。プリンがあったよね、三つ」

「あれは宇佐美くんが買ってきたんじゃ」


「わたしが食べたい気分になったときにいないのが悪い。お客さんもいることだし、ね」

「あはは、まあそうですね」


 加奈子は軽い足取りで部室から出て行った。クラブ棟の廊下の端には、共用の大きな冷蔵庫がある。


「ケイさん。食べ物のうらみは甘く見ないほうがいいかと」

「甘く見てはいないわよ。プリンだけど」

「案外くだらないことをいいますね」


 恵眞が発案したことは、こういうことだった。


 偽者の写真を使うというのはいつもの手だが、不特定多数の人間の写真をつかうより、かっちり絞って、つまり決定版的な四人を佐伯たちのほうで作り上げる。そして彼らを大々的に押し出して、彼らが町を歩けば、あ、あれは、と世間が振り向くような状況を作り上げてしまおうというものだった。


 その四人には何かしら迷惑がかかるわけだから、人選は大事だった。


 四人で並んで映っている写真。CDのジャケットを掲げたり、駆け出しのころ出入りしていたとされるライブハウスの看板を感慨深そうに見つめたりしている写真。


 それらの写真を撮ったのは佐伯だった。服装は、本物の四人が顔を手で隠した形での写真を公開したことがあるので、そのときのものを参考にコーディネートした。


「随分手間が掛かっているわね。わたしが本物の顔を知らなかったら、信じてしまうかも」

「お褒めに預かり光栄です」


「あなたの存在は、文字通りわたしたちのこう着状態に一石を投ずることになりそうね。残念だわ。わたしの味方をして欲しかった。すっかり佐伯くんに手なずけられちゃって」

「手なずけられたつもりはないですけどね」


「そう? だって態度が随分変わっちゃって見えるわよ。不遜というか。初めて会ったときはあんなに素直だったのに」

「敵陣に単独で乗り込むんですから、多少は入れ込みますよ。というかケイさんだって目が怖いですよ。わたしあなたに聞いておきたいことがあったんです」


「何かな」

 ケイは両手を顔の前に組んで微笑んで見せた。甘い微笑み。


「あなたは、どうしてこんなことをするの?」

「根本的な話か。佐伯くんに聞いているだろう通りよ」


「佐伯さんからは、あなたが意地悪で、陰湿で、虚栄心が強くて自己中心的だからとしか聞いていないんです」

「なるほど。彼に『くたばれ』って伝えておいてね」

「わかりました」


 ドアが開いて、加奈子が戻ってきた。手には白い箱。

「飲み物はコーヒーでいいですか?」

 ケイは目の動きで了承の返事をした。


 恵眞の表情に『この子、話の邪魔だなあ』という思惑が明らかに浮かんでいるのをケイは見て取った。


「別に聞かれてもいいじゃない」

「彼女はおととい参加していたんですか」


「してない。純粋な炭水化物同好会の部員であるところの加奈子は、そんなのに混ざったりしないのよ」

「ほう。部員であり、部外者でもあるってことですか。そしたら聞かれていいんですか」

「あなたが気にすることではない」


 頭の上に『?』の文字を浮かべながら三人分のコーヒーカップを準備する加奈子を、ケイは横目で見た。


「加奈子。あなたってさあ」

 ケイは『彼ら』の名前を告げて、好きかどうかを尋ねた。


「好きじゃないです。人気ありますけどね」

 恵眞が彼女を見た。意外そうに。


「前もそういってたわね。わたし加奈子はああいう明るい音楽が好きそうな印象があるから、へえ、って思ったのよ」


「ああ」


 加奈子が電動ミルのスイッチを押すと、マメを削る音によって会話は中断され、香ばしい良い匂いが部屋に広がった。

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