第7話 恵眞の誓い
恵眞は佐伯の言葉に答えを返すまで時間がかかった。絶句していたのだ。
「本当なんですか」
「こんなこと嘘で言えない」
「どうして、どうしてあんなに恵まれたふうに見えるケイさんか、そんなつまらないことをしなければならないの?」
「他人の印象と、本人の実際の性質、歩む人生が一致することなんて、まずないものなんだよ。俺に言えるのはそんなことだけだ」
「それはそうかもしれないけど」
そこで彼女は再び言葉をつぐむ。
佐伯は用件を話した。恵眞は答えを出さなければならない。
「でも、なぜわたしなんですか。手当り次第に声を掛けていて、わたしは大勢の中の一人なのかしら」
「俺の仲間は何人かいるけど、今年の新入生の中で声を掛けたのは、君一人だよ」
「わたしにそんな突出した何かがあるとは思えませんが。能力も、人格も」
「謙遜するじゃないか、原口恵眞。君はこの前の歓迎会のとき、自分でブログを持っていることを話していた。剣舞委員会の。その話は俺に向けたものではなかったけれど、俺は新しい仲間を得るために、あちこちの話に聞き耳を立てていたからさ、悪いけど聞かせて貰っていた。そして、そのブログを探し当てて、拝見させてもらった。たいしたものだったよ。文章力もあるし、パソコンの技術も基本がしっかりできていることが伺えた。俺がやっていることはこのご時勢、ネット上の情報戦が大きなウェイトを占めているからさ、恵眞みたいな相棒がいると助かるんだよ。それから人格。これも、俺が求めている資質を君は兼ね備えている」
「わたしはひどい人間ですよ。さすがに買いかぶっていると思います」
「そうでもないよ。必要としているのは別に聖人君子じゃない。恵眞は『彼ら』が別に好きじゃないといった。意外かも知れないけど、それが俺が求める条件の一つなんだ」
「逆ではないのですか」
「以前、『彼ら』の大ファンに手伝ってもらったことがある。失敗だったよ。役目は熱心にこなしてくれたけどね。そいつはそれによって『彼ら』とお近づきになれると思っていたんだね。自分が業界人の端くれにでもなれると思っていたんだ。とんでもない。華やかなことなんて何一つないよ。影でこそこそ動き回っているだけだ。勝手に勘違いしてたくせに、そいつは話が違うといって、離れていった。なまじ情報を与えてしまったものだから始末が大変だったよ」
始末、という言葉の響きが恵眞は気になったが、そこには触れなかった。
「事務的に淡々と働いてくれそうだという意味ですか。ああ、それなら適しているかもしれませんね。対象への愛着は仕事に不要な場合があるらしいですから」
「歓迎会のとき、俺は『彼ら』とさも深い交流があるように話したけど、そんなエサにほいほい食いついて、簡単に携帯の番号を教えるような子に用はなかった」
「佐伯さんストップ」
恵眞は強い調子で、佐伯の話をさえぎった。戸惑いを見せる佐伯を無視して、恵眞はパイの実を一個口に放り込み、飲み込んだ。
「あなたね、その言い方はひどいですよ。向こうも含むところはおそらくあったにせよ、好意を示してくれた女の子に対してその言い方はない」
「ふうん。フェアでいたがる人間だよね、恵眞は」
「なんですか、それ」
「言葉のままの意味だよ。悪いことじゃない」
すっと恵眞は立ち上がり、座ったままの佐伯の前に立った。何かをいいたそうに彼のことを見下ろしていたが、佐伯は薄く笑みを浮かべて、動じていない。やがて恵眞は元の場所にドスンと座った。
「君ならそういう反応をするんじゃないかって、分かってて言ってみた。悪かったよ。この前、俺と不来方がネットの掲示板でケンカしていたとき恵眞は割って入ってきてくれたよね」
恵眞は思わず、今度は勢いよく、立ち上がった。
「あれ、あなたか」
「俺だ」
「合点がいきました。なんだそういうことか。怖かったですよ。君を知っているなんていうから。しかしネット界、狭すぎでしょ」
「郡山についての掲示板だったから可能性が通常よりは高いんだろうけど、俺だって驚いたよ」
「あのやり取りでわたしだって分かっちゃったんですか」
「まあね。そんで、やっぱり俺が求める適正があると、改めて思った」
「佐伯さんはあのとき確か、これが素顔だって言って顔写真を載せていましたよね」
「そう、全くの偽写真をね。あれが俺たちの戦い方。本物の写真がネットなどで載せられてしまったことが実は何度かある。さっき俺が言ったような、決定的な証明となりうることにこだわらなければ、日常の写真なんて撮り放題だ。彼らは普通に働いて、生活しているんだから。俺はニセモノの写真をばらまきまくることによって、本物をその中に埋没させてしまうんだ。どうかな。俺のやっていることは時間と人生の無駄遣いと思うかい?」
「思う人もいるでしょうね」
「世の中に、こういうことがたまにはあってもいいじゃないかと思う。昔の映画俳優やスポーツ選手は、私生活が今よりももっと秘密のベールにつつまれていた。だから神格化することができた。誰だって仕事を離れれば、平凡な生活の部分が存在するのにね。今ってさ、有名人の普段の様子や、生の声に接する機会がぐんと増えたけど、その分、真のカリスマみたいなものは生まれにくくなっている」
「分かります。大きな功績を残すスポーツ選手が現れても、国民総出で、一生懸命に汚してしまうんですよね」
「時代が進めば仕方がないことではあるよ。別の例え方をするとこうなる。交通手段が徒歩しかない時代は、会津の人は、大半が一生会津から出ないで過ごした。彼らにとって、江戸や京都は現代人が外国に対して感じる以上の遠い場所だった。見たことがないものがたくさんある、聞いたことのない音がたくさんある遠い遠い夢の世界。一生行くことがなかったゆえに美しい夢を見ることが出来た。いまみたいに、時間と金があれば誰でも世界中を回れるようになってしまっては、黄金の国ジパングは存在し得ないんだ。豊かになった一方で、失われてしまったものがそこには確かにある。でもそれは各々の時代の人間たちが積み上げてきたものによる結果であって、俺たちに選り好みをする余地は少ない。なのに、なのにだ。顔が分からないアーティストがこの町には住んでいるんだぜ、今も実際に。時代に逆行なんてものじゃない。それを成立させているのは人の善意だ。これが今の世に存在することの出来るおとぎばなしの形であって、俺はそれを守り続けたい」
「わたし色々聞いてしまいましたけど、ここで断るとどうなるんですかね」
始末?
「別にどうもしない。俺の営業努力が足りなかったというだけだ。ほかをあたるよ」
「ふうん」
パイの実を二個、三個と食べながら恵眞は考えた。ケイと宇佐美が自分を勧誘した理由も、おそらく根本は佐伯と同じなのだろう。
彼女がO歯科大を選んで入学したのは、単に学力の程度がそんなもので、あとは実家が近いからというだけの理由だった。学校に高望みはしていなかったが、楽しいことはどんな場所にいても自力で見つけられるはずだと考えていた。そしてこうして、佐伯や、ケイに出会った。それが彼女に何をもたらすものなのは、今はまだ分からない。
断るのは自由だが、じゃあお前は、断って代わりに何をやるというのだ? 彼女は自分に問うた。そして、誰も強制はしていなくとも、本心はとうに固まっていることを自覚した。
恵眞はもう一度佐伯の前に立った。そして彼女はパイの実を一個つまんで、佐伯に差し出した。二人とも無言だった。佐伯は手にとって口に入れた。食べ終わったところで、恵眞は再び右手を差し出した。手には何も持っていない。
横の車道を走っていく車のライトが二人の顔を伺うように照らしては、去っていった。
「いいですよ。わたし佐伯さんを手伝います」
佐伯の顔にほっとしたような笑みが広がった。そして彼も右手を出した。契約の握手。
「ありがとう。恵眞にいやなことが及んだりしないようにするから」
「多少なら構いませんよ。仲間になるってわたしは言っているんですから。佐伯さんが不快な目に遭うことがあるのなら、わたしが一個も被らないってのも変じゃないですか」
「わかった。抱えきれない分は、君にもってもらうようにする」
恵眞は『彼ら』のことを語った時に佐伯の顔に浮かんだ苦いものを思い出していた。それがどんな意味を持っているのかはわからない。でも彼女が了承したのは、その苦さをも分かち合う覚悟だった。
「さっきも言ったことだけど、『彼ら』と俺は、普段接することなんてまずない。多少ありがたくは思われているのだろうというだけで、こっちが好きでやっているに過ぎないんだ。ただ新しく協力してくれる人間が現れたときは、頼めば挨拶くらいはしに来てくれる。協力するためには、まず本人の顔を覚えておかないとまずいってのもあるしね。でも考えてみれば不思議な話だよね。俺たちの住むここはただの住宅街だ。何年も住んでいる俺からすれば最高にいいところだけど、どこにでもある平凡な町だ」
「わたしも八山田好きですよ」
「こう見えて年々発展しているんだぜ。目の前にある温泉施設だってできたのは割と最近だ。俺が大学に入った頃はいまよりももっと田んぼが多かった」
コンビ二の道路向かいに、大きな看板の掲げられた、スーパー銭湯がある。街のどまんなかにあるが、正真正銘の温泉だ。何でも郡山には町中の地下に温泉の湯脈が行き渡っているのだそうだ。
ライトアップされた大きな建物と看板は、八山田で一番目立つと言ってよく、これがなければ、だいぶ町の印象が変わってしまうだろうと恵眞は思った。
「ありふれたこの町にひとつだけ特異な点がある。それが『彼ら』だ。有名人なんてどう見ても無縁に見えるこの町で、彼らは日々の生活をしている。スーパーに買い物にも行くだろうし、あたりをふらりと散歩することもあるだろう。君がたまたま立ち寄ったコンビ二で見かけた、並んで立ち読みをしている四人組が、日本で知らないものはいない『彼ら』だなんてことも可能性としてはありえる」
佐伯はコンビ二の店内の方に顔を向けた。恵眞は佐伯の言葉の意味を考え、それから、はっとして彼と同じ方を向いた。
そこでは先ほどからの四人が雑誌を熱心に読み続けていた。顔ははっきりと見える。
「彼らが『彼ら』? さっきからずっとわたしたちの様子を見ていたんですか? これは、さすがにちょっと驚きました」
「とてもそうは見えないでしょ? 普通の人だ。あいつらが素性を隠したがるのは、歯科医をやるために都合が悪いというのもあるけど、そもそもはこんな普通の夜を過ごしたいっていう小さな願いからだ。いい目にあっているのだから、不愉快なことも多少はしょうがないだろうと、有名税なんて言葉を他人は簡単に使ってくれるけどね。それが正論なのかもしれないけど、守れるものなら、守ってあげたい」
「佐伯さんはあの人たちのファンなんですね」
「誇りに思っているよ」
言葉とともに佐伯の顔に浮かぶものを、恵眞はもう一度心に留めて置かんとする。
「一人は学校で顔を見たことがあるようです。ほんとに普通にくらしているんですね。ああしてコンビ二にいるときに店内で自分たちの曲が流れたら、きっと物凄い優越感でしょうね」
「ああ、それは言ってた」
佐伯は笑った。
「さて、彼らにあいさつしておこうか。恵眞も今日から、四つの『e』の仲間だ」
「はい。あ、でもその前に、もう少しこの状態を眺めていてもいいですか」
「待つよ」
恵眞は不思議な心持ちでしばらくコンビ二の店内を見つめていた。店員が大きな掃除機を押して、四人の立ち読み客のことを邪魔そうにしながら作業をしていた。それが誰かはわからずに。
そして冒険の日々が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます