中書侍郎

 結果的に齊王冏の意に沿わぬ事を進言した曹攄は記室督から、中書侍郎に転ずる。この「中書侍郎」について『文士傳』は後に「從中郎出」とする様に「中郎」とするが、これは「中書侍郎」の略であろう。


 中書侍郎は「典尚書奏事」とされる中書(長は監及び令)の次官で、四人置かれ、尚書から奏上された事案に署名し、その事案が皇帝の「省讀」を経て、可否が決定される事になる。無論、ただ署名するだけではなく、その可否を図った上で、それを為す。

 文書の出納に係わるという点では、大司馬記室督と同様であるが、皇帝に直属し、品秩も五品であるから、形式上は栄転という事になる。曹攄は漸く六品から五品に昇格した事になる。

 しかし、実権が齊王冏の大司馬府にある以上、この時点での中書の役割は形式的なものに過ぎず、実際は閑職に追いやられた、左遷に近い。ただ、この人事は、齊王の勘気によるものだけかと言えば、必ずしもそうではない。


 曹攄と同時期に、同じく齊王冏の屬僚から中書侍郎に転じたものとして、顧榮がいる。顧榮は吳の丞相顧雍の孫で、吳滅亡後、陸機・陸雲兄弟とともに入洛し、「三俊」と号されたと云う。

 淮南王允が挙兵し殺された永康元年八月当時、顧榮は「主刑法獄訟」である廷尉の属官、廷尉正であったが、収縛された淮南王の僚屬達が連座して誅殺されるところを、「平心處當」して多くを免れさせている。

 また、趙王が帝位に即いた際、大將軍・廣平王虔(趙王倫の子)の長史と為った罪を問われたが、嘗て施した恩によって連座を免れている。そして、その後、齊王冏の大司馬主簿とされている。


 顧榮は齊王の「擅權驕恣」を見て、その禍が及ぶ事を懼れて、終日酒に浸り、「不綜府事」であったと云う。故意に政務を怠っているのであり、当然、問題とされたのだが、彼が「江南望士、且居職日淺」(大司馬長史葛旟の言)であるので、軽々しく罷免する事も憚られた。

 これに対して、顧榮の心情を告げられていた「友人」の馮熊が中書侍郎に転じさせる事を葛旟に勧め、それは「榮不失清顯、而府更收實才」であるからだと云う。つまり、顧榮は「清顯」(という「望」)を失わず、大司馬府には「實才」(ある者)を登用できるという事である。従って、実務から遠ざけるという点では左遷・更迭に違いないが、顧榮の「望」を尊重しているという点では変わりはない。


 曹攄の場合も同様であり、「歸藩」を説いた彼を、齊王冏、或いはその近臣達は扱いかね、しかし、「聖君」・「仁惠明斷」という「望」を無視する事もできず、中書侍郎への栄転という形で、大司馬府外に出したという事だろう。当に、敬して遠ざけると言ったところである。

 なお、顧榮は中書侍郎と為って、一旦は酒をやめたが、人に前後の行為の違いを問われ、また飲酒に耽っている。中書侍郎と為るだけでは、齊王の党与と見做されるのを避け得ないという事であろう。この点でも、中書侍郎が単なる左遷とは言い難い事が解る。


 ところで、中書侍郎は五品に過ぎないので、その補任は帝紀に記される事はなく、諸傳でも年次が知れる事例は少ない。また、定員も四名であるから、互いの任免によってその年次を確定する事もできず、折々の中書侍郎の構成員を把握する事は困難である。ところが、この永康二年(301)前後は例外で、凡そだが、人員が確定できる。

 先ず、この年の年頭、趙王倫の即位に際して、金墉城に送られる惠帝(太上皇)に扈従したのが「中書侍郎陸機」である。

 陸機は趙王倫に対する「九錫文及禪詔」が中書から出されている事、乃ち中書侍郎であった彼の手になるという疑いから廷尉に収監されるが、成都王穎及び、嘗て郎中令として仕えた吳王晏によって救解されている。その後、彼は成都王穎によって平原內史とされている。

 また、同時期に陸機の弟陸雲も、成都王穎によって清河內史とされているが、その傳に依れば、その直前の官は「中書侍郎」とある。従って、陸雲も陸機と同時に中書侍郎であったという事になる。ただ、兄弟で同時に中書侍郎にあれば、何らかの記述があって然るべきと思われ、やや留保が必要である。

 その陸機が平原內史とされた事を謝する表が『文選』(卷第三十七)に載録されており、その上表の中に「中書侍郎馮熊」という人物の名が見える。この馮熊は先に顧榮の友人として見えた馮熊であり、同表には顧榮も「廷尉正顧榮」として見える。

 当然、馮熊の中書侍郎はこの上表時、或いはそれ以前であり、顧榮が廷尉正であった「及倫篡位」以前でもある。つまり、陸機と同時期であっただろう。葛旟に顧榮を中書侍郎にと勧めた際に、彼がその任に在ったかは不明だが、陸機と同じく免じられていると思われる。

 この他、淮南王允の死後、趙王倫に九錫が加えられる事に異議を唱えた劉頌が、それから程無く病死し、その劉頌に対して、「開府」を贈るべきと建議した「中書侍郎劉沈」が劉頌傳(卷四十六)に見える。なお、この建議は孫秀によって却下されている。

 劉沈は忠義傳(卷八十九)に傳がある「字道真、燕國薊人」と見られ、この後、「齊王冏輔政」時に、その左長史と為っている。趙王・孫秀に異を唱えた事も考慮されたのであろう。

 何れにせよ、四者とも永康二年、改元して永寧元年の四月以降には中書侍郎を退いている。従って、陸機・劉沈・馮熊に、陸雲も含めた四者が、直接の前後関係は兎も角、曹攄・顧榮の前任という事になる。


 一方で、陸機と同じく趙王の党与として処断されてもおかしくなかった人物に、妹が「皇太子」荂に嫁いでいた劉輿がいる。彼は弟琨が成都王穎の軍と戦い破れているにも拘らず、「當世之望」有るを理由に宥され、「齊王冏輔政」時に中書侍郎と為っている。

 これは多少の前後はあるが、曹攄・顧榮と同時期という事になり、劉輿が、二人の同僚となる。従って、永寧元年から翌二年にかけての中書侍郎四名のうち三名は曹攄・顧榮・劉輿の三者となる。

 いま一人について、『晉書』では不明だが、禮志に「惠帝太安元年三月、皇太孫尚薨。」(改元は十二月であるので、実際は永寧二年)時の事として、「御服齊衰期」、つまり、惠帝が孫である「皇太孫尚」(愍懷太子の子)の為に如何なる喪に服すべきかが議論されている。

 この議論の逸文と思われるものが『通典』禮四十二に「爲太子太孫殤服議」として見え、その中に「中書侍郎高齊」と「博士蔡克」の議が記載されている。「博士蔡克」については、禮志にも「同粹(中書令卞粹)」として見えるので、同じ際の議論と見て間違いはない。従って、この「高齊」が永寧二年三月時点での中書侍郎の一人という事になる。

 先の三者と合わせ、丁度四名であり、この曹攄・顧榮・劉輿・高齊の四者が永寧二年時点の中書侍郎であったと言える。

 なお、この高齊については他に見えず、経歴・系譜などは不明である。この当時、著名な高氏と言えば、石崇と「酒を爭った」高誕が属する陳留圉城高氏があり、『晉書』には高誕の弟高光の傳がある。或いはその一族であろうか。


 ともあれ、高齊は兎も角、顧榮・劉輿は「江南望士」・「當世之望」を以て知られ、前任の陸機も顧榮と並び称され、「二十四友」の一人であり、少なくとも文才においては彼を凌ぐ評判を得ている人物である。

 劉沈もその家系は「北州名族」であり、当人も、「博學好古」・「敦儒道、愛賢能」であり、賈后に連座して殺された張華の汚名を雪ぐべく「申理」して、その「明峻」が「當時所稱」となっている。

 何れも、何らかの声望を得ている人物であり、中書侍郎は官位は高いとは言えないが、相応の敬意を以て遇されている地位で、曹攄の立場も彼等に準ずるものと言える。

 結局、この中書侍郎への転任と、齊王冏に「歸藩」を勧めたという事実が、次なる政変から曹攄を遠ざける事になる。


 ここで、曹攄の年齢を再確認すると、泰始元年(265)の生まれとして、永寧二年(302)に三十八、前後に数年の幅があるので、三十代半ばから後半、四十を超えている可能性もある。

 この年齢を同時期に中書侍郎であった面々と比較すると、生年が確定できるのは、陸機・陸雲のみで、大安二年(303)の死去時に「時年四十三」・「時年四十二」であるので、吳の永安四年(261)・五年(262)生まれ。劉輿は永嘉五年(311)以前に「時年四十七」で死去しているので、泰始元年(265)以前の生まれで、陸機等と共に概ね曹攄の同年輩となる。

 顧榮は吳が滅んだ太康元年(280)に「弱冠」以上であるので、吳の永安四年(261)以前の生まれでやや年長、「友人」である馮熊も同年輩かと思われる。劉沈は永熙元年(290)には官途に在るので、遅くとも泰始七年(271)以前の生まれ、いま少し早いとして、やや年少かと思われる。

 従って、五年程度の幅はあると思われるが、何れも概ね四十前後であり、それぞれの出自や縁故の違いはあるにせよ、それが中書侍郎に相応な年齢であり、曹攄の場合もそれに則していると言える。つまり、生年の想定に大きな誤りは無いと考える。

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