魏晉の輔政者
曹攄の危惧の根底には、齊王冏の置かれた立場だけでなく、彼の年齢、そして、その家系への考慮もあったかも知れない。
齊王冏は既に述べた様に、三十歳前後であり、朝廷の首座に立つには、若過ぎるとも言える。因みに、彼が擬えられるべき曹爽の生年は不明だが、黄初七年(226)に「(明帝)及即位、爲散騎侍郎。」とある。同世代で、準宗室とも言える夏侯氏の夏侯玄は「弱冠爲散騎黃門侍郎」とあり、彼は嘉平六年(254)二月に死去して、「時年四十六」とあるので、建安十四年(209)生まれである。従って、この「弱冠」は太和二年(228)頃の事となる。
類似の立場で、相前後して、同様の地位に就いているのだから、曹爽と夏侯玄の年齢差は然程無かっただろう。従って、明帝崩御の年、景初三年(239)に夏侯玄は三十一であり、曹爽も同年輩の三十歳前後、つまり、この時の齊王冏と然程変わらぬ年齢であったと考えられる。その曹爽には、当時、六十一の司馬懿が共に輔政を行う者としており、彼が第一人者・唯一者であったわけではない。
ついでに言えば、魏文帝(曹丕)の死後、輔政を行ったのは、曹休・曹眞・司馬懿・陳羣であるが、黃初七年(226)当時、曹休・曹眞は年齢不詳ながら五十歳前後、司馬懿は四十九である。陳羣の生年も不詳だが、中平四年(187)に死去した祖父寔の生前に生まれ、興平元年(194)の陶謙死去時に徐州刺史と為った劉備によって、徐州別駕に辟されている事から、熹平年間(172~178)には生まれていると目され、やはり五十歳前後と推定される。つまり、全員が齊王冏・曹爽より二十歳前後年長であった事になる。
晉代の例で言えば、惠帝即位後に一時的に輔政(太宰)を行い、元康元年(291)に楚王瑋によって殺された汝南王亮は、母弟琅邪王伷が太康四年(283)に薨じ、「時年五十七」、太和元(227)年生まれであるので、それ以前の生まれであれば、六十六歳以上となる。共に輔政(太保)の地位に即き、殺された衛瓘は「時年七十二」とある。
また、魏明帝の死後に輔政を行う筈であったのは、大將軍となる燕王宇と「領軍將軍夏侯獻・武衞將軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎將軍秦朗」である。彼等は皆、年齢不詳であるが、燕王宇は同母(環夫人)の長兄曹冲が建安元年(196)の生まれなので、四十歳未満(燕王宇は同母の第三子)。夏侯獻は系譜・経歴ともに不詳。
曹肇は明帝末の景初二年(238)に「散騎常侍・屯騎校尉」であった事がその傳・明帝紀などから確認でき、曹爽は同年に「加散騎常侍、轉武衛將軍。」とある。『通典』魏官品では、散騎常侍は三品、武衛將軍・屯騎校尉(五營校尉)は共に四品であり、ほぼ同格と言える。従って、曹肇・曹爽の年齢に大差はなかったと推定される。
秦朗は曹操の夫人となった杜氏の連れ子だが、建安三年(198)の「曹公與劉備圍呂布於下邳。」以前に生まれている筈であるので、四十歳以上である。この面々のみ、やや若いと言えるが、その分ではないが、人数が多く(五人)なっている。
単独の輔政者であった人物を挙げれば、曹操が献帝を擁し、司空・行車騎將軍事と為ったのは四十二歳。司馬師が司馬懿の死後、撫軍大將軍(のち大將軍)・錄尚書事と為ったのが四十四歳。同じく、司馬昭が兄の死後、大將軍・錄尚書事とされたのは四十五歳である。
これ以降の例を見ても、四十代以上、五十代前後の者が輔政を行う事例が多く、齊王冏が単独で輔政を行うには、弱輩に過ぎるという事が見て取れる。
当時の司馬一族には、惠帝・齊王冏の祖排では梁王肜と平原王榦のみが健在で、それぞれ、太宰・領司徒(梁王肜)、「侍中・加太保」(平原王榦)と、形式上は惠帝を輔弼する地位にある。
ただ、両者とも政治に係わる事は無く、特に梁王肜は趙王の下で「阿衡」(阿衡は殷の伊尹の号)とされるなど彼に近しく、また、翌永康二年(302)には死去しているので、齊王を掣肘する立場にはない。
従って、この当時の司馬一族(宗室)では、新野王歆(司馬懿孫)や河間王顒(司馬孚孫)、「八王」の一である東海王越(司馬馗孫)など、惠帝の父排が主だったものとなっている。
この父排の面々は范陽王虓(司馬馗孫、東海王越從弟)が永興三年(306)に薨じて「時年三十七」とあり、泰始六年(270)生まれである様に、齊王冏と同年輩、あるいは年少の者もいるが、概ね彼より年長であった筈である。
曹攄としては、齊王は年長の諸王のうちから、「賢」を挙げて、後事を委ね、一旦、身を退くべきであり、そうする事で、その後、再び然るべき地位に復する機会も訪れると考えていただろう。
つまり、この時点での完全なる退隱を勧めていたわけではないと思われる。そして、その念頭には、盧志の言を受けて、鄴に「還藩」する事で、「獲四海之譽、天下歸心」しつつある成都王潁の事もあった筈である。
事の経緯からして、曹攄への下問は、孫惠の諫言の後であり、当然、曹攄は孫惠やその他の諫言の内容を知悉していた筈である。更には、齊王冏が「歸藩」を望んでいない事も承知していただろう。それでも、敢えてそれを説いたのは、齊王が安危の縁に在り、そこから逃れるには「歸藩」しかないと思い定めていたからであり、衷情から齊王の身を案じていた故、と思いたい。
だが、その言も齊王冏には受け入れられなかった。齊王としては諸王の中から、「曹爽」が現れかねないといった心情があったのだろう。実際、これ等の諸王は近しい者でも、新野王歆の如く武帝(司馬炎)の從兄弟、司馬昭の兄弟の子孫であり、多くは司馬懿の兄弟の子孫、つまり、惠帝・齊王冏からすれば、族父・族兄弟に過ぎない。これは曹操の「族子」であった曹眞の子である曹爽の立場に通じるものがある。
また、齊王冏の脳裏には、「齊王歸藩」事件の事も思い起こされていたであろう。「齊王歸藩」事件は、直接には冏の父である齊王攸が「歸藩」を命じられ、その途上で死去した事に過ぎない。
だが、その「歸藩」の命の背後にあったのは、武帝にとって、「諸子並弱、而太子不令」であり、一方で、齊王攸に対しては「朝臣內外、皆屬意於攸」・「朝望在攸」という状況にあった事である。つまり、武帝及びその近臣達が武帝皇子等の「弱」・「不令」を慮り、名望(「朝望」)のある齊王攸を排除しようとしたのが、「歸藩」の真相である。
従って、齊王冏としては、父は不当に「歸藩」させられたのであり、自身もそれに重ね合わせられていたのではないか。また、或いは、この「歸藩」事件がなく、父がその後も存命であれば、今日の事態は生じていなかったという思いもあったかも知れない。ただ、この場合、帝位が齊王攸に、更には彼自身にといった可能性もあり、その思いが、「驕恣」を招いていると言えなくもない。
この「驕恣」が齊王冏の身を滅ぼす事になる。
ところで、この「驕恣」は彼への批判の原因であるが、一方で、批判こそが「驕恣」の原因ではなかったか。つまり、批判・否定される事に対して、身を鎧う、自身を権威付ける事で対抗しようとし、それがまた僭上と批判されるという悪しき循環に陥っていたとも言える。
その悪しき循環から抜け出す切っ掛けとなるのが、曹攄等の言う「歸藩」であったのだが、繰り返し言う様に、それが受け入れられる事はなく、遂には破局へと至る事になる。
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