平原王榦と嵇紹
話は逸れるが、この頃、「驕恣 日に甚」しい齊王冏でも敬意を以て遇していた人物がいる。曹攄等の「歸藩」の言とも関連するので、少し触れてみたい。
先ず、一人は平原王榦である。彼は司馬師・司馬昭の同母弟で、皇室の最長老であれば、敬意を払わざるを得なかったとも言える。
この平原王榦は「性理 恒ならず」とされ、奇行も多く、例えば、与えられた布帛を、皆な露積させたまま腐爛するに任せ、或いは、朝士が彼に会おうとしても、車馬を門外に待たせたまま、会わない事もあったと云う。また、愛妾が死去した際、斂、乃ち棺に納めているにも拘らず、釘を打たせず、空室に置いたまま、遺体が腐乱し始めるまで埋葬せず、「淫穢」を行ったとまで云われている。
その一方で、「頗清虛靜退、簡於情欲」・「雖有爵祿、若不在己」と清貧であり、自國(平原國)の政務を自ら執る事はなかったが、その政務を委ねるには「必以才能」したと云う。また、他者と応接する際は、「恂恂恭遜、初無闕失」であったとも云う。やや狷介で、両極端なところを持つ人物と言えるだろうか。
ともあれ、平原王榦は齊王冏が趙王を討ち、洛陽に入城すると、「宗室・朝士」が皆、「牛酒」を以て彼を労う中、独り「百錢」のみを持って齊王に
齊王の功績を賞しながら、僅か「百錢」というのは、無論、吝嗇なのではなく、彼を戒める意があるのであろう。また、他者に迎合しない心性の表れとも言える。
そして、「大勢は居るに難く」というのは、曹攄の「道は隆まる
齊王冏が輔政の座に就いた後も、平原王榦が会いに行けば、齊王は彼を出迎えて拝し、踞(膝を立てて坐)する平原王に、齊王は坐する事無く、つまり立ったまま応対している。
その齊王に平原王は「汝勿效白女兒」と言い聞かせていたと云う。「白女兒に
次いで、いま一人、齊王冏に重んじられていたのが嵇紹、かつて、「驕暴」ともされた石崇が「甚だ親敬」した人物である。彼は趙王の下で侍中とされたが、惠帝の復辟後もその地位に留められている。
元康年間に賈謐に交際を申し込まれても無視するなど、権貴に
彼もまた、齊王冏を諌めた一人で、齊王が「大興第舍、驕奢滋甚。」であったのに対し、書を以て「宜省起造之煩、深思謙損之理」、「起造之煩」、無用の造営を止め、「謙損之理」を深く思うべきである、としている。
「謙損」とは謙遜、「へりくだる」ことで、「謙」も「損」も「へりくだる」の意だが、損には「(身を)そこなう、おとす」といった意味もあるので、より強く「たかぶらない」という語感がある。これに対しても、齊王冏は「謙順」であっても従う事はなかった。
齊王冏は嵇紹に禮容を示し、当初、彼を迎えるにあたっては階を下って、つまり、堂下に降りて応対していた。これに対して、異を唱えたのが劉喬という人物である。
劉喬は「裴・張之誅、朝臣畏憚孫秀、故不敢不受財物。嵇紹今何所逼忌、故畜裴家車牛・張家奴婢邪。樂彥輔來、公未嘗下床、何獨加敬於紹」と説き、嵇紹への禮遇を止めさせている。
「裴・張之誅」、つまり、賈后等が殺された際、朝臣達は、孫秀を畏れ憚り、その財物を「敢えて受けざらず」、進んで受けようとはなかった。しかし、今、嵇紹は何を「逼忌」する所があって、「裴家車牛・張家奴婢」を蓄えているのか。樂彥輔(樂廣)が来ても、牀(こしかけ)を下りて迎えた事もないのに、何故、独り嵇紹のみを敬うのか。
実際に嵇紹に「裴家の車牛・張家の奴婢を畜え」という行為があったのかは不明である。この当時、裴頠・張華の名誉回復、官爵を復するという議があったが、嵇紹はそれに反対していたから、或いは、それに関連して、裴・張両家から「車牛・奴婢」が贈られるという様な事があったのかもしれない。逆に両家の財を横領する為に、復爵に反対したのだとしたら、彼の人格が疑われるが、他の人物像から見て考え難い。
ともあれ、劉喬は嵇紹に瑕疵がある事を以て、樂廣に対してさえ示した事のない「加敬」を止める様に言っている。樂廣は既に幾度か述べたが、「海內重名」ある人物である。
なお、樂廣は年齢不詳だが、父が「參魏征西將軍夏侯玄軍事」と為り、「時年八歲」とある。夏侯玄が征西將軍であった正確な年次は不明だが、正始年間後半(245~249)であるので、樂廣は景初年間(237~239)の生まれで六十代前半と思われる。
対して、嵇紹の生年も不確定だが、嘉平五年(253)前後の生まれであるので、四十代後半(四十八前後)である。この点をみても、嵇紹への禮遇が、格別である事が知れる。
但し、樂廣は先に触れた様に、趙王の即位に関与しているので、その点が彼の評価を下げているのかもしれない。
さて、齊王冏の待遇の変化を見た嵇紹は、当然ながら疑念を抱き、恐らくは、原因が劉喬にあるとは知らずに、彼に対してその故を訊ねている。
対する劉喬の答えは、「似有正人言、以卿不足迎者」、「正人」の言が有って、貴方を迎えるに足らざる者と思召したのでしょう、というものであった。そして、「正人」とは誰かという嵇紹の当然の疑問に対して、「其則不遠」、と嘯いている。
遠からず、つまり、近くにいるというのが彼自身を指している事には嵇紹も気付いたであろうから、彼は「默然」としたと云う。恐らくは、その白々しさに唖然として言葉を失ったのであろう。
確かに、劉喬の言葉の通り、嵇紹に瑕疵があるのならば、彼を樂廣以上に禮遇する事は誤りであったかもしれない。しかし、そこで劉喬が主張すべきは、嵇紹への禮遇を止める事ではなく、樂廣等へも同等、或いはそれ以上の禮遇を示すべきと勧める事である。
「隗より始めよ」ではないが、齊王冏が身を低くして、禮容を示す様を見せれば、彼の運命は異なっていたかもしれない。しかし、劉喬が勧めたのは、齊王を高みに居らしめる事であり、「驕奢」を甚だしくさせる事であった。自らを「正人」と嘯くに至っては、独善も甚だしいと言える。
こうした倨傲ならしめる言葉を納れ、謙譲を勧める言葉を無視した事が、齊王冏を破滅に追いやる事になる。
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