齊王冏輔政
大司馬として「輔政」する事になった齊王冏は亡き父・齊王攸の「故宮」に入り、「掾屬四十人」を置いて政務を執る。曹攄はその大司馬齊王冏の「記室督」となり、広い意味ではこの「掾屬」の一人となっている。
「記室督」は「諸公及開府位從公加兵者」・「諸公及開府位從公爲持節都督」の屬官として各一人置かれる。その品秩は不明だが、「諸府記室」が魏品で七品であり、職官志に「秩比千石」として、記室督の上に記される「從事中郎」が魏・晉官品では六品であるから、同じ六品に相当するだろう。洛陽令として第六品であった曹攄としては、相応の地位という事になる。
なお、この「記室督」について本傳では「左思と倶に爲る」と記されているが、本来、記室督は一人である。これは「輔政」を行う大司馬の記室督故に二人置かれたのか、或いは、左思は「辭疾、不就。」とある様に、実際には就任していないので、「倶」には誤りで、左思が「辭」した後任として曹攄が選ばれたかと思われる。
「記室」とは、『續漢書』百官志に三公の「記室令史」が「主上章表報書記」、郡の「主記室史」が「主錄記書、催期會」とある様に、文章・記録を掌る、言わば書記官である。「督」はその長であるから、記室督曹攄は大司馬齊王冏の文章出納を統括する、書記官長とでも言うべき役割を担った事になる。
当然、文才も必要とされた筈であり、『三都賦』で「洛陽爲之紙貴」とされる文才の持ち主で、「二十四友」の一人である左思が選ばれたのもその故である。曹攄がその左思と同じ地位に選ばれたのも、彼の文才が左思と同等、或いは準ずるものと評価されていたが故であろう。なお、左思は『詩品』では上品に列されている。
但し、左思・曹攄の選任は両者の文才のみに依るものではないと思われる。と言うのも、左思は齊國臨淄の人、その祖先は「齊之公族」であり、『三都賦』に先立ち『齊都賦』を作している様に「齊」に縁のある人物である。
そして、曹攄も臨淄令の「聖君」として知られている。つまり、齊王は自身の「齊」に縁があり、文名のある左思・曹攄を選んだと言える。ただ、それによって両者の才が否定されるものではない。
曹攄がこの齊王冏の記室督という地位、或いは、齊王自身をどう見ていたか、その傳からは窺い知れない。
記室督については、自身の才藻に自負を持っていれば、栄誉と見做したと思われるが、左思と倶に、であれば兎も角、その次点としての起用であった場合は、多少複雑な思いがあったかもしれない。ただ、それ以上に、齊王冏に対する思いは複雑であっただろう。
彼を司馬昭の孫、賈充の外孫と見た場合、曹氏、魏の裔としては、曹髦(高貴鄉公)の一件を頂点として、反感を禁じ得ないであろう。
一方で、祖母李氏が司馬師を排せんとして殺された李豐の女で、母がそれに連座して、晉代に至るまで流謫され、また、曹休と因縁のある賈氏と不和であるという点では、言わば司馬氏の被害者の裔として、同調する部分もあったと思われる。愛憎半ばするとも言うべき、それだけに無視し得ない王であったのではないか。
ところで、大司馬齊王冏は「輔政」を行う故に、膨大な事務処理を行う必要があり、それが「掾屬四十人」を置く必要に繋がっている。この「掾屬」には、樂凱(樂廣子;「大司馬齊王掾」)、江統(「參大司馬・齊王冏軍事」)、周札(周處子;「大司馬齊王冏參軍」)、祖逖(「齊王冏大司馬掾」)、荀闓(荀藩子;「大司馬齊王冏辟爲掾」)、苟晞(「參冏軍事」)、孫惠(「辟大司馬戶曹掾、轉東曹屬」)といった名が見える。以後の局面の中で重要な役割を果たす人物も多く、齊王がただ縁故だけで屬僚を選んだわけではない事が窺える。
さて、朝廷の第一人者として「輔政」を行う事になった齊王であるが、程なく、彼の声輿は急速に低下していく。これは趙王を討つ際の「功臣」で、共に公に封じられた故に「五公」と呼ばれる葛旟・路季(路秀)・衛毅・劉真・韓泰といった、齊王が「委以心膂」る人物達の振る舞いによるものもあったが、「驕恣日甚、終無悛志」とされる彼自身の態度にも原因がある。
「大築第館、北取五穀市、南開諸署、毀壞廬舍以百數、使大匠營制、與西宮等。鑿千秋門牆以通西閣、後房施鍾懸、前庭舞八佾、沈于酒色、不入朝見。坐拜百官、符敕三臺、選舉不均、惟寵親昵。」というのが、「海内失望」させた齊王の行為である。
これ等は確かに、「擅權驕恣」とされても已むを得ないものだが、敵対者の悪意による喧伝も含まれていると思われる。
「飲食車服、擬於乘輿;尚方珍玩、充牣其家;妻妾盈後庭、又私取先帝才人七八人、及將吏・師工・鼓吹・良家子女三十三人、皆以爲伎樂。詐作詔書、發才人五十七人送鄴臺、使先帝婕妤教習爲伎。擅取太樂樂器、武庫禁兵。作窟室、綺疏四周、數與晏等會其中、飲酒作樂。」・「背棄顧命、敗亂國典、內則僭擬、外專威權;破壞諸營、盡據禁兵、群官要職、皆置所親;殿中宿衛、歷世舊人皆復斥出、欲置新人以樹私計;根據槃互、縱恣日甚。」というのは、魏代に「無君之心」有りを理由として、司馬懿によって大將軍を免じられ、殺された曹爽に対する非難である。
個々の語彙は異なるが、自らを天子に擬し、贅沢をして酒色に耽り、「親」を寵用したという点は軸を一にしている。専制者への批判が類似になる一例である。
ただ、これ等の批判は全くの誹謗ではなく、南陽處士鄭方・主簿王豹・前賊曹屬孫惠・參大司馬軍事江統といった人々が齊王を諌めた事が記されている。しかし、それが齊王に納れられる事はなかった。
なお、「五公」は葛旟が齊王冏の從事中郎或いは長史とあるのみで、他の四名は公に封じられた以外は見えず、葛旟も含めその経歴・事績は不明である。彼等が趙王打倒に於いて如何なる功を挙げたのか、齊王の輔政下での行いも記されていない。
葛旟についてのみ、後に齊王冏の罪を問う上表の中で「葛旟小豎、維持國命。操弄王爵、貨賂公行。」と、賄賂により王爵を弄んだ、売爵を行った事が挙げられている。続けて、「群姦聚黨、擅斷殺生。」、殺傷を擅にしたとあるのが、他の四公等も含めた行いであるのかも知れない。
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