齊王冏起義
潁川王處穆を犠牲に時を稼いだ齊王冏は永康二年(301)、趙王の建始元年三月に「起兵以討倫」、趙王打倒の兵を挙げる。厳密に諸王の争覇という意味では、狭義の「八王の乱」はこの時に幕を開けたとも言える。
また、これまでの事件は、楊駿の誅殺にせよ、汝南王亮・衛瓘の殺害、或いは、賈后等の排撃、更には淮南王允の挙兵にしても、基本的には都内、洛陽城の内部で終始し、政変・兵亂と言える規模で終わっている。
しかし、ここで、齊王が都外の許昌で兵を挙げた事で、事変は地方に波及し、各地を捲き込む内亂とも言える段階に至った事になる。
齊王冏は州郡に檄を飛ばし、自らは豫州(潁川郡)と司州(河南郡)の界、陽翟(屬河南)に進出する。その檄に応えたのは征北大將軍・成都王穎、征西大將軍・河間王顒、常山王乂、冀州刺史李毅、兗州刺史王彥、南中郎將・新野公歆等であり、これに齊王の下にある豫州刺史何勖を加え「眾數十萬」、洛陽を包囲する態勢が形成される。
これは恰も、百十年前の反董卓諸將の決起を思わせる。但し、反董卓に際しては、東の兗州(陳留郡)・司州(河南郡)の界である酸棗(屬陳留)に集った諸將が主力であり、北の河内(袁紹・韓馥等)や、南の南陽(袁術・孫堅等)が当初は輔翼的な位置に在ったのと異なり、南の齊王や北の成都王が主力である。
いま一つ異なる点として、董卓にとって西の關中は後背、或いは本拠とも言える地であった事が挙げられる。実際、董卓は洛陽を放棄し、長安に撤退する事で諸將の攻勢を避けている。一方で、趙王倫にとって長安(關中)は嘗ての任地ではあるが、叛乱を惹起した地であり、關中の都督である河間王顒は反趙王の側に立っている。
但し、河間王の反趙王の立場は最初からではなく、当初、彼は齊王に呼応しようとした前安西參軍夏侯奭を斬り、齊王の使者を捕らえて趙王の許へと送っている。そして、趙王を援けるべく、麾下の張方を派遣してさえいる。しかし、張方が雍州(京兆郡)と司州(弘農郡)の界、華陰(屬弘農)に至ったところで、「二王兵盛」を聞き、一転して二王(齊・成都)に応じている。
ともあれ、ほぼ四方を反趙王の勢力に囲まれ、援軍の当てもない趙王方に勝ち目はなく、幾度かの勝利はあったものの、頽勢を回らすには至らず、ついに四月辛酉(七日)、左衛將軍王輿、尚書・廣陵公漼等が兵を挙げ、孫秀等「倫黨」を斬った事で戦いは終結する。
因みに、この年は三月に閏月が入るので、「自兵興六十餘日」であったと云う。従って、齊王が兵を挙げた日時は記載されていないが、三月初旬であった事が判る。また、「倫黨」と目された孫旂・孟觀等もそれぞれの任所で殺されている。
即日、惠帝が復位し、趙王倫は一旦邸第に帰された後、数日後に誅殺されている。この時、惠帝は「頓首謝罪」する群臣達に、「非諸卿之過也」と応じたと云うが、これは彼の寛恕と言うより、言わざるを得ないといったところであっただろう。ここで群臣の罪を言いたてられる程、彼の立場は安泰ではなく、「蒙蔽」とされる彼であっても、その程度は弁えていただろう。
但し、唯独り、彼が怒りを向けたのが、趙王倫の即位に際して、直接に璽綬を奪いとった義陽王威であり、「阿皮は吾が指を捩り、吾が璽綬を奪ふ、殺さざる可からず」として、趙王と倶に誅殺されている。
なお、洛陽で兵を挙げ「倫黨」を斬った王輿は嘗て淮南王允に対して、宮城の門を閉ざした尚書左丞であり、その時は趙王に味方したが、ここで見限った事になる。後に、彼は齊王冏の兄東萊王蕤と共に、齊王の排除を図り、誅殺されている。
廣陵公漼は琅邪王伷の子で、琅邪王睿の叔父であり、この功により淮陵王に封じられたが、嗣王の融ともども、程無く死去したようで、齊王冏の子超が淮陵王に封じられている。但し、この超は淮南王允の継嗣となっているので、これは「淮南王」の誤りである可能性もある。
この戦いで殊勲とされたのは、最初に兵を挙げた齊王冏であり、彼は大司馬・都督中外諸軍事とされ、これに次ぐ成都王穎が大將軍・錄尚書事、河間王顒は太尉と為っている。
更に、齊王には「加九錫之命、備物典策、如宣・景・文・武輔魏故事」という栄典も与えられている。この「九錫」・「輔魏故事」というのは、趙王と同様であるから、類似の事態が再来する事を憂えた者もあったであろう。
なお、成都王に合流した常山王乂は以前の封長沙王に復され、驃騎將軍・開府に、齊王に与力した新野公歆は王に進封され、使持節・都督荊州諸軍事・鎮南大將軍・開府儀同三司とされている。
実質的に、この五王が当時の最高実力者と言え、長安に在る河間王は別として、洛陽にて並び立つ齊王と成都王の対立が危惧されている。大司馬と大將軍は共に軍事を掌り、形式上は大司馬が上位だが、実質的には同格である。魏文帝の死後、曹休が大司馬、曹眞が大將軍であったのに似るが、両者の関係は曹休・曹眞に比べ、かなり険悪であっただろう。
長沙王乂は成都王穎と共に陵(武帝峻陽陵?)に詣でた際、成都王に「天下者、先帝之業也、王宜維之」、成都王が「先帝之業」を受け継ぐべき、彼が主宰者となるべきと述べたと云う。
一方、新野王歆は鎮(荊州)に赴くに際し、齊王と同乗して陵(同前?)に詣で、「成都至親、同建大勳、今宜留之與輔政。若不能爾、當奪其兵權」、成都王と共に輔政する事が適わないならば、その兵権を奪うべきと述べたとしている。
「時聞其言者皆憚之」と、新たな対立の勃発が危惧されたが、この時は、成都王が左長史盧志の「兩雄不俱處、功名不並立、今宜因太妃微疾、求還定省、推崇齊王、徐結四海之心、此計之上也」という提言を容れて、鄴に帰還した事で未発に終わっている。
ただ、新野王が奪うべきとした成都王の兵権はその儘であり、対立が避けられたのではなく、先延ばしにされただけでもある。尤も、先に淮南王允が兵権を奪われる事を拒否し、挙兵に至った様に、新野王の提言は、何らかの実効策がなければ、むしろ、対立を煽るだけのものであったと言える。
鄴へ戻った成都王に対して発せられたのが、先の「大將軍・錄尚書事」という人事で、この他、「九錫殊禮」を加え、「都督中外諸軍事・假節・加黃鉞」・「入朝不趨、劍履上殿」という栄典が与えられている。なお、成都王は「殊禮九錫」については辞退している。
ともあれ、新たな対立を孕みつつも、「八王の乱」は新たな局面、「齊王冏輔政」とされる時期に至る。そして、これ以降が、曹攄が史上に本格的に登場する時期に当たる。
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