齊王冏起義(前夜)

 史上初と言える同族間での禪譲劇によって帝位に即いた趙王倫であったが、それによって、地位が磐石となるという事は無く、むしろ、反趙王派に口実を与えている。


 その反趙王の筆頭と目されたのは、東方の許昌に鎮した齊王冏である。当時、彼の他に、惠帝の弟である成都王穎が征北大將軍として北方の鄴に、惠帝等の族父に当たる河間王顒が征西大將軍として西方の長安に出鎮している。この他、南中郎將に任じられた武帝の從弟(扶風王駿の次子)新野公歆が南方、恐らくは宛方面にある筈である。筈、と言うのは、この時点の荊州方面の軍事状況が不分明な故である。


 この時期に、荊州方面の軍権を握っていた人物として、先ず、孫旂がいる。彼の傳には「坐武庫火、免官。歲餘、出爲兗州刺史、遷平南將軍・假節。」とある。この「武庫火」とあるのは、元康五年(295)十月に「武庫火、焚累代之寶。」とある事件であり、従って、孫旂が兗州刺史と為ったのは同年以降、「平南將軍・假節」と為ったのは、更にそれ以降、つまり、元康末と言える時期であろうと推定される。

 ここでは、「遷平南將軍」とあるのみで、引き続き「兗州刺史」であるかに見えるが、西晉代の平南將軍は主として荊州方面を任とし、兗州刺史が帯びている例は確認できない。また、この後の「齊王冏起義」時に兗州刺史は王彥である事が惠帝紀に見える。

 後に孫旂は「襄陽太守宗岱」によって斬られており、彼が襄陽附近、つまり、荊州にいた事が確認できる。従って、「遷平南將軍」時に、引き続き刺史であったならば、荊州に遷っていると思われる。そして、宗岱との関連から言えば、襄陽に屯していたと推定される。


 いま一人、同方面にあったと見られる人物として、孟觀がいる。彼は齊萬年鎮圧の功により、東羌校尉・右將軍と為っていたが、「趙王倫篡位」時に「以觀所在著績、署爲安南將軍・監河北諸軍事・假節、屯宛。」とされている。ここに「河北」とあるが、『通鑑』や校勘に依れば、これは「沔北」であると云う。

 確かに、「河北」では河水(黄河)の北、且つ洛陽の「北」であり、「安南將軍」に相応しくない。一方、「屯宛」であれば、沔水(漢水)の北であり、洛陽の「南」であるから、「安南將軍」に対応している。

 そして、孟觀が「監沔北諸軍事」であれば、沔水の南である襄陽に屯していると思われる孫旂の管轄は「沔南」となり、両者の管轄が重ならない。但し、この場合、南中郎將・新野公歆の任地が不明となる。


 これについては、「(孫)旂子弼及弟子髦・輔・琰四人」が「趙王倫起事」に参与し、孫旂の外孫女(羊氏)が廢された賈后に代わる、新たな皇后として立てられた事で、孫旂が「車騎將軍・開府」とされた事に伴う人事と考えられる。

 つまり、本来であれば、孫旂は車騎將軍として召還され、新野公歆がこれに代わる予定であったのだろう。しかし、情勢の変化が先んじ、孫旂は洛陽に戻ることなく斬られる事になる。

 なお、孫旂は樂安の人であるが、琅邪の孫秀と「合族」しており、その事や孫弼等が趙王の官を受けた(「受署偽朝」)事を以て、孫旂は趙王の党と見做されている。


 余談だが、孫旂の樂安孫氏は『新唐書』宰相世系では、吳郡孫氏、すなわち、孫堅・孫權等「吳」の孫氏と同族とされている。その系譜は「(耽)二子:鍾・旃。鍾、吳先主權即其裔也。旃字子之、太原太守。二子:炎・歷。炎字叔然、魏祕書監。…(略)…歷幽州刺史・右將軍。生旂、字伯旗、平南將軍、坐與孫秀合謀、夷三族。」とされているが、これには明らな誤りがある。

 孫權は鍾の「裔」とされているが、『異苑』・『幽明録』等では孫鍾は孫堅の父とされている。従って、孫權は孫鍾の孫という事になる。ところが、ここで孫鍾の兄弟である孫旃の子とある孫炎は「魏祕書監」であり、『三國志』では「樂安孫叔然」として、王肅傳に見える。

 王肅は武帝の外祖父であり、孫炎には晉代の劉宣(匈奴劉淵從祖)が「師事」している様に、魏末の人である。従って、孫堅(156~192)と從兄弟でありながら、五十年程年代が隔たっている。そして、孫炎の從子に当たる孫旂は孫權(182~252)と同排(從祖兄弟)となるが、やはり、五十年以上年代が異なる。

 孫堅が孫鍾の子でなく、孫權が孫よりも遠い「裔」であれば、このずれはさらに大きくなる。これは鍾・旃兄弟に親子以上の年齢差があればあり得ないわけではないが、同時代史料に関係が記されていない事を考えても、虚構とすべきである。


 孫旂と同時代は、孫權の孫世代或いは、曾孫の世代に当たり、当時健在な孫氏の一人に、孫權の弟である孫匡の孫、孫秀がいる。なお、彼の祖母は曹操の「弟女」に当たる。この孫秀は琅邪の孫秀と同名だが、当然別人で、嘗て周處が齊萬年の討伐に起用された際、彼に老母が有る事を以て辞する事を勧めている。

 ともあれ、この吳郡孫秀と琅邪孫秀の同名が、吳郡孫氏と樂安孫氏を同族とする伝承を生んだのではないか。樂安・琅邪両孫氏の「合族」が如何なる形式を採ったのか不明だが、「孫秀」の祖排が孫旂であるとされれば、吳郡孫秀との誤認から、「孫秀」の祖排孫權と孫旂が同排という事になり得る。

 なお、孫旂の外孫女羊獻容は既に述べた様に惠帝の皇后に立てられているが、この時、孫秀(琅邪)の子會は惠帝の女・河東公主に尚している。従って、孫會と河東公主を同世代と見做せば、孫秀は惠帝と同世代、つまり、その妻である羊獻容とも同世代となり、孫旂の孫排と見做す事もできる。

 閑話休題。


 新野公歆は兎も角、齊王冏・河間王顒・成都王穎の三王が強兵を擁して地方に拠っているのは、趙王等にとって、思わしいものではなく、「親黨及倫故吏」を三王の「參佐及郡守」として派遣している。言わば、監視役であるが、齊王冏の許には趙王の「腹心」とされる張烏が遣わされる。

 その監視を欺くためであろうが、齊王は当初、「離狐王盛・潁川王處穆」と共に、「起兵誅倫」を謀っていたが、その處穆を襲殺し、その首を趙王の許に送る事で「異志」無き証としている。

 「兵を起して倫を誅す」という大事をなす為であろうが、言わば同志である「潁川王處穆」を犠牲、と言うより、囮とする行為は誇るべきものではなく、後の齊王の世評に影響したのではないかと思われる。


 ところで、この「離狐王盛・潁川王處穆」であるが、順当に解釈するならば、これは「離狐王の司馬盛・潁川王の司馬處穆」であろう。しかし、司馬盛・司馬處穆共に、他に見えず、司馬一族の中で系譜が不明である。

 或いは、「離狐の王盛・潁川の王處穆」である可能性もあるが、離狐及び潁川に著名な王氏はなく、王盛・王處穆も確認できない。『資治通鑑』は「王」を脱し、「處穆」としているが、不明であるのは同様である。無名の人物で、齊王の「異志無き」証となるかには疑問も残る。

 『晉書』にはこの後、趙王の党与として、倶に誅殺される「九門侯質」なる人物の如く、系譜不明の司馬氏はいないわけではない。しかし、新野公歆の様に、武帝の從兄弟(司馬懿の孫)であっても、正嫡以外の王子は、例えば西陽公羕(汝南王亮子)・東武公漼(琅邪王伷子)・東安公繇(同)の如く、「公」に封じられている。その中で、「王」に封じられている盛・處穆の系譜が不明であるのは不審である。

 更に、離狐は縣(屬濟陰郡)であり、縣王は吳王晏が淮南王允の事件の後、賓徒縣王に貶められた様に、郡王に比べ一段劣ると言えるが、潁川は郡である。しかも、潁川郡は都洛陽のある河南郡(尹)に接し、「戶二萬八千三百」とされる比較的大郡である。

 この当時、「郡國一百七十三」の内、三万戸を超える郡は河南を除き、二十五あるが、王が封じられているのは、趙・中山・淮南・長沙・豫章の五つに、蜀(成都)、陳留(曹氏)を加えても七つしかない。

 郡の全戸を以て王が封じられるわけではないが、近畿の大郡であり、司馬懿の祖父である司馬儁が太守であったという司馬氏に縁のある郡を以て封じられた王が疎族であるとは考え難い。或いは潁川は潁陰(縣)の誤りで、縣王であるかもしれないが、何れにせよ該当者はいない。

 盛・處穆の系譜・経歴が不明である以上、考察しても無意味だが、齊王との関連で何らかの明記し難い事情があった可能性がある。

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