「趙王倫篡位」

 淮南王允や石崇・歐陽建の死から約半年、年が明けた永康二年(301)正月乙丑(九日)、「禪讓之詔(趙王倫傳)」により、趙王倫が帝位に即く。


 趙王に帝位を「ゆず」った惠帝は「太上皇」と号され、金墉城改め永昌宮に送られる。同時に、前年に皇太孫に立てられていた愍懷太子の遺児臧も廢され、癸酉(十七日)に殺害される。もはや、「太子報讎」などというのは口実に過ぎなかった事が明らかである。

 なお、「太上皇」の称は漢初、高祖劉邦の父(太公)に与えられており、後年、唐の高祖李淵などが退位後に称しているが、現に帝位に在った人物の称号としては初出である。同姓間での譲位が如何に異例であったかの証左と言える。

 廢位ではなく譲位とされたのは、惠帝が帝位に不適格であるならば、替わるべきはまず、惠帝の諸弟達、次いで齊王冏など武帝の弟(文帝子孫)の系統であり、從祖である趙王倫(司馬懿子/文帝弟)が擁立される事に正統性が得られないからであろう。

 しかし、譲位であれば、問題とされるのは、それに見合うかは別にして、「禪位」に値する德の有無であり、系譜上の親疎は無関係となる。


 さて、この譲位劇に係わった人物として、「腹心」孫秀など趙王の党与以外では、「宣帝(司馬懿)」の「詔命」を「納」めたという散騎常侍・義陽王威、「禪讓之詔」を趙王に齎した尚書令滿奮、僕射崔隨、帝城を出て金墉城に向かう惠帝に従った尚書和郁、兼侍中・散騎常侍・琅邪王睿、中書侍郎陸機、そして、滿奮・崔隨とともに、趙王に璽綬を進呈する役割を果たした樂廣、といった名が見える。

 この内、幾人かは既に曹攄との係わりで名を挙げているが、滿奮は魏の太尉滿寵の孫で、愍懷太子への「拜者」達を收縛させた司隷校尉であり、樂廣はその「拜者」達を解き放った河南尹である。

 ついでに言えば、滿奮の祖父滿寵は、曹休の死後、都督揚州諸軍事、ついで征東將軍となり、魏の東方(揚州方面)を管轄していた曹休の後任となった人物である。また、滿奮のおば、乃ち滿寵の女は平原王榦に嫁いでいる。

 義陽王威は司馬懿の次弟司馬孚の曾孫で、司馬懿の長兄司馬朗の継嗣となった司馬望の孫である。彼は曹攄との縁はないが、父(洪)の從兄弟が「八王」の一、河間王顒である。

 和郁も曹攄との係わりはないが、魏の尚書令和洽の孫、おじは曹氏の縁戚でもある夏侯玄で、彼自身は賈謐の「二十四友」の一人でもある。また、愍懐太子を廢する際にも、使者として東宮に赴いている。

 琅邪王睿も夏侯氏の甥であり、おじは「二十四友」の一である潘岳と「連璧」と称えられた夏侯湛である。但し、同じ夏侯氏の外孫といっても、夏侯玄の父夏侯尚と、夏侯湛の祖父夏侯威が從兄弟という関係であり、和郁と琅邪王睿の関係は疎遠である。

 陸機も「二十四友」の一人であり、吳の丞相、陸遜の孫である。曹攄からすれば、曾祖父の死の原因を作った帥將の孫という事になる。

 崔隨は魏の司空崔林の子だが、この「趙王倫篡位」に関する事以外の事跡が不明な人物である。諸書を勘案すると、彼の兄弟に当たるであろう崔參には三人の女婿、劉琨・盧志・溫憺があり、劉琨・盧志は「八王の乱」に、劉琨と溫憺の子溫嶠や、盧志の子盧諶は、「八王の乱」後の永嘉の争乱や東晉にかけて重要な役割を果たしていく事になる。

 なお、崔參の孫と推定される崔悅は、後世、河北の大姓とされる「清河崔氏」の祖である。また、「二十四友」の一人、「清河崔基」も近親と思われるが、関係は不明である。


 これ等の中で、滿奮・崔隨・樂廣などは、その名望が趙王の即位を正当付ける為に利用されたと言える。彼等自身が積極的に参与したかについては不明だが、後に「廢錮而卒」した崔隨は別として、その後も生存し、官界にある事から、少なくとも客観的には積極的な党与とは見做されなかったと思われる。

 和郁・琅邪王睿は関与の度合いが不明であり、起用の理由も判然としないが、滿奮・樂廣と同様、その後の活動から、党与とは見做されていない。

 一方で、義陽王威は黃門郎駱休とともに惠帝から璽綬を「奪」う役割を担っており、後に「阿皮捩吾指、奪吾璽綬、不可不殺」と惠帝の恨みを受け、誅殺されている。因みに、この言は惠帝の心情が知れる稀有な発言である。

 陸機は「九錫文及禪詔(陸機傳)」がその手になるともされており、この二人は「禪(篡)」への積極的な参与者であったと言える。


 何れにせよ、曹攄とこれ等の人物との間には接点がなく、歐陽建や石崇を介した趙王や孫秀との関係を考えても、彼がこの譲位劇に係わっていないのは間違いない。

 趙王倫は一種の人気取りであろうが、即位の恩典の一つとして、「郡縣二千石令長赦日在職者、皆封侯。」としている。曹攄が洛陽令に留まっていれば、「郡縣二千石令長」に当たり、「侯」に封じられている筈である。本傳に曹攄の爵位は見えないので、この恩典に与っていない、つまり、洛陽令を退いているとも考えられる。但し、趙王倫の即位は「篡」であり、認められていないので、記されていないだけとも言える。

 なお、曹休は潁川郡の長平(縣)に封じられており、その爵位は曹攄の祖父である曹肇、その子である曹興と受け継がれている。曹攄が曹興の嫡子であれば、この長平侯を嗣いでいる筈であるが、それは確認できない。曹興の子ではない、或いは嫡子ではないのであろう。


 ところで、和郁・陸機は「二十四友」に名を連ねていたが、この時点では積極的か否かは兎も角、趙王の党として活動しており、賈謐の党として連座した形跡はない。

 実のところ、「二十四友」の中で、賈謐の党とされ、殺されたのは、事績が不明な人物や、既に故人であった郭彰等を除けば、杜斌のみであり、多くはこの時点で存命であり、以後の「八王」の乱に様々に関与していく。

 なお、同じく「二十四友」である劉輿・劉琨兄弟は姉妹(輿妹・琨姊)が趙王の世子で、皇太子となった荂に嫁いでおり、劉琨は荂の太子詹事となっている。

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