友の死

 石崇・歐陽建等の刑死に際して、曹攄がどの様に関与していたかも不明である。友人・知己であった歐陽建や石崇の刑死に無関心であったとは思えない。だが、彼等を救うべく尽力したといった記述はない。これは、何もしなかったと言うより、何も出来なかったというのが事実に近いのだろう。


 石崇傳の記述を見ると、捕吏の至るを見た石崇が綠珠に、おそらくは半ば戯れに「我今爲爾得罪」、おまえの為に罪を得る事になったわ、と声を掛けると、彼女は「當效死於官前」、あなたさまの前で死んで見せましょうと応え、樓下に身を投げている。孫秀への嫌悪があるにせよ、彼女にとって石崇は何者にも代えがたい主であり、それに殉ずる事を厭わない関係が二人にはあったと言える。

 ただ、石崇は「吾不過流徙交・廣耳」と、交州或いは廣州に徙されるのみであろうと、楽観的とも言える認識を持っており、綠珠の悲愴な想いとはやや齟齬がある。例え、石崇が流刑であったとしても、今生の別れとなる事に変わりなく、なればこそ、綠珠は彼の前で果てる事を選んだのだろう。

 一方で、石崇としては綠珠の死を悼みつつ、彼女が自分だけのもので終わった、彼女の想いがただ己だけにあった事に安堵、満足する気持ちもあったのではないか。それが、楽観へと繋がったとも思われる。しかし、車が東市に向かうに及んで石崇は死を悟る事になる。

 この間に、審理・糾明などが行われた形跡は無く、石崇等の刑が即時執行された事が窺える。従って、曹攄が歐陽建等を救おうとしても、その猶予は殆ど無かったであろう。


 また、当時、曹攄は官職にあったとしても洛陽令であり、趙王・孫秀等との接点もなく、執行を止めるだけの権限、実行力を有していない。なればこそ、曹攄には心情面はともかく、行動としては拱手している外はなかったであろう。或いは、刑が執行される段になって、漸くその報を知り得たという可能性もある。

 想像を逞しくすれば、彼にできたのは、捕吏の手を辛うじて逃れた、まだ幼かったであろう歐陽質(建兄子)を匿い、落ち延びさせる事だけであった、といったところだが、その程度の暇しかなかった様に想われる。

 歐陽建の友として知られていた曹攄が連座していないのも、彼が何もしていない(し得なかった)故であろう。一方で、石崇等の刑死が「亂を爲した」故ではなく、趙王・孫秀等の私怨である事の証左とも言える。


 ところで、刑場で石崇は「奴輩利吾家財」と歎じており、それに対して「收者」が「知財致害、何不早散之」と述べ、石崇は「不能答」であったと云う。「財が害を致す」事に思い至らなかった石崇を揶揄する逸話かに見えるが、よく考えると、この二人の会話はかみ合っていない。

 石崇は「奴輩 吾が家の財を利するか」、「奴輩」(孫秀)が自身の財を「利」する、この場合は「むさぼる」のを嘆いているのに対して、「收者」は財が害を招くのを知り、早く散じておくべきだった、と云っている。

 石崇は財が害を招いたのを悔いているのではなく、財が人手に渡るのを惜しんでいる。石崇は「奢靡」で知られ、むしろ財を「散」ずる事にも熱心だった人物である。言わば、石崇は自ら散じる事ができないのを悔いているのである。石崇が答えなかったのは、話のかみ合わなさに閉口したのではないか。

 尤も、石崇の財が彼を守るものにならなかったのは、その散じ方が誤っていた、いざという時に身を守る様な散じ方をすれば良かったのだと言っているなら、「收者」の言にも理はある。しかし、これは穿ち過ぎであろう。

 『資治通鑑』では「奴輩利吾財爾」と「のみ」を加えており、「奴輩が吾が財を利(せんと)するのみ」と自身が冤罪である事を主張しているかに見える。だから、早くに散じてしまえば良かったのだ、という事で筋は通っている。だが、「收者」がそれを言ってしまっては、石崇の罪とされる謀叛についてが冤罪である事を認める事になってしまう。

 石崇の財は彼自らが成したものである。自ら築き上げたものを他者に「利」される、その無念が先の「奴輩利吾家財」という言葉に込められている。


 石崇と共に刑死した歐陽建は、当に文字通り、倶に洛陽にて殺害されたのか、或いは、頓丘太守として任所で処刑されたのかは不明である。石崇の兄喬は「以有穢行、徙頓丘、與弟崇同被害。」と、頓丘に在り、石崇に連座して殺害されているので、歐陽建も同様であった可能性はある。

 その傳には「臨命作詩、文甚哀楚。」と、死に臨んで詩(臨終詩)を遺しており、甚だ哀惜されたと云い、『文選』(卷二十三)にも収録されている。詩を賦す余裕があったという事は、洛陽で倉卒にではなく、頓丘で時を置いて処刑されたとも考えられる。その場合、洛陽に在った曹攄は友の死に目にすら遭えなかった事になる。また、他者が歐陽建に託けて作した詩であれば、その死を「莫不悼惜」という彼に相応しいとも言える。

 なお、「臨終詩」で歐陽建は「慈母」・「所憐女」・「二子」について詠っており、先行する詩賦などを典拠としている可能性もあるが、これが彼自身の事を云っているならば、彼には存命の母と一女・二子があった事になる。「年三十餘」という年齢を考えれば、妥当なところである。

 一方、曹攄には『文選』に収録された「思友人詩」があり、その中で彼は「自我別旬朔」なる「懷我歐陽子」について詠っている。これは歐陽建の生前、彼が馮翊や頓丘の太守として赴任していた時期に作られたと考えられるが、彼の死によって、当時の胸懐が思い起こされたのではないか。


 友人・知己を殺された事で、曹攄の立場は少なくとも、その心情面においては反趙王に傾いたであろう。実際の行動は記録にないが、約一年後、曹攄は趙王を打倒した齊王冏の下に在る。

 その齊王冏だが、彼の名は石崇傳・潘岳傳で「奉」・「陰勸」する対象として、淮南王允と共に挙げられている。従って、彼は反趙王の筆頭と目されていたと言える。その理由として、彼が「廢賈后」の功により、游擊將軍とされた事に「以位不滿意、有恨色。」と、満足していなかった事が挙げられる。

 游擊將軍は四品に過ぎず、権貴の官とは言い難い。また、彼は司馬昭の孫であり、淮南王を筆頭とした惠帝の諸弟程ではなくとも、傍流(司馬昭の弟)である趙王倫が政柄を握る事に不満を抱いていても不思議はない。

 齊王冏は母が泰始元年(265)の晉王朝の成立で赦に遭い、その後、齊王攸に嫁いだのだから、最も年長であっても三十五歳、恐らくはいま少し年少である。なお、攸の「第五子」である贊は「年六歲、太康元年薨。」とあるので、咸寧元年(275)生まれ、存命であれば、永康元年(300)には二十六歳となる。

 齊王冏は贊の兄であろうから、これよりは年長という事になる。従って、冏は二十代後半から三十代前半、二十九であった淮南王允と同年輩である。武帝の直系でない事を差し引いたとしても、二品の驃騎將軍である淮南王に比して地位が低く、不満を持つ事が不当とは言えないだろう。


 その不満が自明であるが故に、反趙王の領袖として期待されたのであろうが、八月、つまり、淮南王允の挙兵や石崇等の刑死があった時点では、外形上、齊王冏が反趙王であるとは見做されていない。

 惠帝紀同月条には「以齊王冏爲平東將軍、鎮許昌。」とあり、三品の平東將軍として、許昌に出鎮している。これは孫秀が「憚其在內」った故であると云うが、一方で、軍権も与えており、一種の懐柔策でもあったのだろう。

 許昌は漢最末期の都であり、魏代以降は西の長安、北の鄴、南の宛とともに副都的な位置付けにある。その地の鎮守を委ねられた事は信任の証であるとも言える。

 淮南王允の挙兵との先後関係は不明だが、ともに「奉」じる対象とされている事を思うと、要地に軍権を与えて赴かせるのは奇妙にも思える。齊王冏には、淮南王とは一線を隔するものがあり、懐柔が可能であると見做された、或いは、そもそも石崇等の「謀」自体に実態が無かったという事なのだろう。


 ともあれ、尚暫くは、齊王冏の反趙王の動きは公然化せずに事態が推移していく事になる。

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