淮南王允と石崇・歐陽建

 政変により政柄は趙王の手に帰し、彼は自ら「(使持節・大都督・)相國・都督中外諸軍」となり、「如宣文輔魏故事」とされる。「宣」(司馬懿)・「文」(司馬昭)の故事に倣ったというが、この「故事」が晉王朝の成立、つまり、革命に繋がった事を思えば、同族とは言え、新王朝の成立を予想させるものであり、嘉き先蹤とは言えない。


 故に、と言うべきか、これに反発したのが、変後、驃騎將軍となった淮南王允である。淮南王は惠帝の群弟で最年長、且つ最も尊貴であり、太子の廢位後、彼を「太弟」にという議もあったと云う。従って、彼が趙王ではなく、自らが政柄を担うべきと目しても不遜とは言えない。

 なお、相國趙王倫以外には、梁王肜が太宰に、左光祿大夫何劭が司徒、右光祿大夫劉寔が司空とされ、太尉は空位のままとされている。何劭・劉寔は共に博学で知られ、愍懷太子の師傅(太師・太保)であった人物である。


 さて、淮南王は趙王の「篡逆志」を知り、疾と称して引き篭もる。対して、趙王は淮南王を空位の太尉に任じようとするが、一方で、それは淮南王が「領中護軍」などとして有する兵権を奪おうというものであった。

 故に淮南王がやはり疾を理由に拒絶すると、一転して御史を派遣して、「大逆」を以て弾劾する。御史によって齎された詔を視た淮南王はそれが孫秀の手になるのを知り、激怒して兵を挙げる。

 当初、淮南王等は宮城に赴くが、尚書左丞王輿が東掖門を閉ざした為、入るを得ず、趙王の相國府を囲む。宮門を攻撃して、無理に皇帝の身柄を掌中にするよりも、趙王を排除すれば事足りると見做した故であろう。だが、結果的にはそれは誤りとなる。

 相國府を包囲した淮南王に味方する者は多く、趙王の身辺にも弓箭が及んだが、「自辰至未」(午前八時頃から午後二時頃)も決着がつかず、事態は膠着する。この時、中書令陳淮(陳準)が相國府の門を開門させるべく勅使を派遣するが、その使者となった司馬督護伏胤が趙王に通じており、詔を受ける為に下車し、無防備となった淮南王を殺害している。

 淮南王は時に二十九。その子、秦王郁・漢王迪等も殺され、同母弟の吳王晏(郡王)も賓徒縣王に下される。これが永康元年八月の事である。斯くして、自身に対抗し得る有力な王を排除した趙王は、以降、「宣文輔魏故事」に倣うべく専心していく。


 この一件に関しても曹攄の関与は不明である。これまで淮南王との接点がない事から考えても、無関係であった事は間違いない。ただ、この都下で起こった事変に対して、彼が洛陽令であれば、何らかの対応を迫られた事が予想される。しかし、それに関しても何の記述もない。一方で、この事件の余波が彼の周囲に降りかかる事になる。


 それが「謀奉淮南王允・齊王冏爲亂」を理由とした潘岳・石崇等の刑死である。これによって殺害されたのは、「(石)崇母兄妻子無少長……十五人(石崇傳)」・「(潘)岳母及兄侍御史釋・弟燕令豹・司徒掾據・據弟詵、兄弟之子、己出之女、無長幼(潘岳傳)」であり、石崇の縁者として、その外甥である歐陽建も含まれる。

 免れる事ができたのは、逃亡した石崇の兄喬の二子超・煕や、潘岳の兄釋の子伯武、詔によって赦された潘岳の弟豹の妻女など僅かな者だけであった。なお、『新唐書』宰相世系に依れば、歐陽建の兄子である質も免れ、南北朝末から唐・宋代に著名な歐陽氏(欧陽詢など)の祖となったと伝えられる。


 この事件は「淮南王允・齊王冏を奉じて亂を爲すを謀る」、つまり謀叛が理由であるが、石氏・潘氏以外には累が及んだ形跡は無い。一方で、石崇・潘岳には趙王の側近孫秀との確執があり、歐陽建には既に述べた様に關中での趙王・孫秀の恣行を糾弾していた過去がある。

 因みに、石崇と孫秀の確執は、石崇の寵妓である綠珠を孫秀が無理に求めた事であり、潘岳とのそれは、潘岳の父が琅邪内史であった頃に、小史であった孫秀を、その「狡黠自喜」という為人を憎み「數撻辱」した事に起因している。

 何れも孫秀等の私怨であり、歐陽建こそ關中の統治に係わるものであるが、政争に関連したものではない。実際に「爲亂」したならば、関与したのが石氏・潘氏の係累だけというのも不自然であり、これは淮南王に事寄せて私怨を晴らし、恣望を遂げたというものであろう。

 従って、「亂を爲す」は牽強であり、石崇等を処罰する為に淮南王の件が利用されたという事であろう。なお、石崇の「水碓三十餘區、蒼頭八百餘人、他珍寶貨賄田宅稱是不可稱數。」とされる財は孫秀等の手に帰したであろうが、肝心の綠珠は石崇刑死に先立って、「自投于樓下而死」している。


 ところで、淮南王の挙兵は、惠帝紀では永康元年八月とされるが、石崇等に関しては期日が見えない。「謀奉淮南王允・齊王冏爲亂」が理由とされている以上、近接した時期であるはずで、『資治通鑑』は淮南王の記事とともに八月条に置いている。「八月」であった事は間違いないが、事の先後は不明である。

 石崇傳では綠珠を巡る諍いの後、「秀怒、乃勸倫誅崇・建。崇・建亦潛知其計、乃與黃門郎潘岳陰勸淮南王允・齊王冏以圖倫・秀。秀覺之、遂矯詔收崇及潘岳・歐陽建等。」とあり、石崇・歐陽建等が「淮南王允・齊王冏に勸め以て倫・秀に圖」った事が覚られて矯詔を以て「收」められたとする。従って、石崇等の陰謀が在り、それが事前に察知されて、未遂に終わったという事になる。

 これが淮南王が兵を挙げる以前であったとすると、淮南王は石崇等が自身とともに「圖(謀)」った事によって刑死した後に、詔が孫秀の手になる事に激怒して兵を挙げた事になり、その認識が奇妙な事になる。

 従って、石崇等の「謀」が発「覺」したのは、淮南王の敗死後であった筈である。この場合も、淮南王が実際に兵を挙げているにも拘らず、石崇等は傍観していた事になり、その死後も就縛されるまで安閑としている。

 これは石崇等が発覚を想定していなかった可能性もあるが、やはり、「謀」の実態が無かったという事ではないか。何れにせよ、同年八月には「曲赦洛陽」とされているので、石崇等の刑死は「赦」以前、つまり、八月中である。

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