齊王冏
賈氏排除の決起に際し、実働を担ったのは、翊軍校尉の齊王冏である。齊王冏は武帝(司馬炎)の弟・齊王攸の子、つまり、惠帝の從弟であり、曹攄が臨淄令として、名目上仕えた「齊王」であったと思われる。彼が起用されたのは、「(賈)后與冏母有隙」であった故、と云うが、これには説明を必要とするであろう。
賈后の父である賈充は馮翊の李氏を妻としていたが、その父である李豐は魏の嘉平六年(254)年正月、当時の大將軍である司馬師を排せんと謀り、発覚して殺されている。この陰謀は、時の皇帝(齊王芳)の廢位に繋がるのだが、李豐に連座して、その女、つまり賈充の妻、及びその所生である
こうして、賈充には二人の妻が存在する事になったが、特詔によって、左・右夫人を置く事が許されている。しかし、賈充は李氏の為に永年里に「室」を築いたものの「不往來」であり、二女が「號泣請」てもついに行く事は無かったと云う。
この二女のうち、姉であろう「荃」が齊王攸の王妃となり、おそらくこれが、「冏母」である。なお、賈充傳では荃は賈充の母に対する態度に「恚憤而薨」ずとあるが、賈充の死後、「李氏二女」が母を賈充に「祔葬」せんとするも賈后が許さなかったという事が見えるので、おそらく「恚憤而薨」じたのは李氏自身であろう。李氏所生の二女は「褒一名荃、裕一名濬」と異名が見え、赦免時などに名を改めた可能性もあるが、伝承に何らかの混乱があると思われる。
ともあれ、賈后と「冏母」の「隙」とは、直接的にはこの「祔葬」に係わる事と見て間違いないだろう。従って、「冏母」は齊王妃「荃」であり、齊王冏は異母とは言え、賈謐と同様、賈后の外甥である。
だが、齊王にとって、彼が生まれる遙か以前の事とは言え、祖母・母を庇護しなかった祖父賈充や、母等の配流後に生まれた賈后への親しみは殆ど無いであろう。
因みに、賈后の母郭槐の伯父である郭淮の妻は、反司馬氏(司馬懿)の陰謀が発覚して自殺に追い込まれた王淩の妹である。
王淩の陰謀は実質的には司馬氏排除の企てであったが、形式的には謀反であり、当然ながら、その妹である郭淮の妻も連座する事になる。郭淮は一旦は妻王氏を捕吏(「御史」)の手に委ねるが、その「五子哀母」を理由に連れ戻し、司馬懿の宥赦を得ている。
妹と女、或いは、司馬懿と司馬師の為人にも理由はあるだろうが、同じ謀反人の縁者である妻を守り通したと言える郭淮と、配流されるに任せ、その後も顧みる事が無かった賈充の違いは、両者が縁戚となった事でより際立って見えたであろう。
なお、冏は齊王攸の長子ではないが、彼が王位を嗣ぐに当たって、「齊王歸藩」とされる一件が係わっている。齊國への歸藩を命じられた齊王攸は病を理由に留まる事を請うが、武帝が遣わした御醫達によって「無疾」、つまり佯病であるとされ、出立を強いられる。しかし、程なく「歐血而薨」じてしまう。その葬儀に際して、冏は醫達が父を誣したとして、その誅を武帝に請うた事を称せられ、「得爲嗣」たと云う。
この逸話に従えば、冏が齊王を嗣いだのは、父の「冤」を訴えた事が孝とされた為、そして、おそらくは、実弟を死に至らしめた事を後悔する武帝の心情が影響した結果という事になる。
但し、既に見た様に冏の母は「齊王妃」であり、元より嫡子であったとも思われる。齊王攸傳には冏の「兄」とされる蕤、惠帝紀に「冏弟」とされるが、廣漢王廣德傳に攸の「第二子」とされる寔が見える。
寔は冏を第一子としての「第二子」、つまり同母の二番目ともとれるが、彼は攸の「第五子」、つまり、弟である贊の後を紹いでおり、これは寔と贊が異母であり、贊の母の身分が高い事が推定される。
この場合、贊の母は冏の母と同じく「齊王妃」であるとする妥当性が高い。すると寔は冏と異母であり、「第二子」であれば、蕤に次いで冏の「兄」という事になる。蕤については冏との不仲が齊王攸傳の附傳に見え、或いは蕤が庶長子であり、冏の継承に不満であったという事が想像される。
また、冏の字は景治で「冏」(あきらか、ひかる)」が、「景」(ひかり、あきらか)と通じる字である。一方、蕤の字は景回、寔は景深、贊は景期と「景」を共通するが、「贊」に「あきらかにする(明)」という義がある以外は「景」との連関が窺い難い。これは嫡子の冏に肖った字であり、冏と贊が同母である事に由来しているのかもしれない。
ともあれ、ここでは齊王冏が父方では惠帝の從弟であり、母方では賈充の外孫、賈后の外甥で、賈謐の從母兄弟という関係にあり、曹攄にとって、過去に形式上の「主君」であっただけでなく、彼にとって因縁の深い賈氏に係わる王である事を確認しておきたい。
さて、この政変に曹攄の関与は認められない。寸前まで洛陽令であった曹攄が、渦中の洛陽に在ったのは間違いない。しかし、これまでと同じく、枢要の官に在ったわけではない曹攄は、積極的な関与をしなければその記録は残らないであろう。従って、曹攄は少なくとも能動的に政変に係わる事は無かったと思われる。
また、政変前、曹攄は「拜者」達に関連して、賈后寄りともとれる態度をとっていたが、それを以て賈后の党与と見做されたという事も無いようである。政変の結果、「文武官封侯者數千人」という「大開封賞」が再び行われたが、曹攄がこれに与った形跡も見られない。
一方で、洛陽令という地位は、実権は兎も角、栄誉という点では顕官とも言え、その地位に曹攄が引き続き留まったかは不明である。例えば、趙王の党与、陳壽に関してで触れた張泓などに譲る為に、地位を退いている事も考えられる。但し、張泓が曹攄の後任の洛陽令であると、陳壽の卒年に関する問題が再燃するが、ここでは措く事とする。
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