「八王の乱」の始まり

 太子の廢替で幕を開けた永康元年(300)であるが、この年が元康元年に続く「八王の乱」の後半、と言うより、その本格的な開始の年となる。なお、この年、曹攄は推定に従えば、三十代半ばという事になる。


 ところで、太子の「廢替」と言ったが、実際は「廢」のみで、司馬遹(愍懷太子)に代わる太子は立てられていない。この年、惠帝は四十二であり、老齢とはいえないが、儲君たる太子を長く不在にしておくとは考え難い。従って、早期に新たな太子が立てられる筈であったが、その点で賈后等の意図がどこにあったのか不明である。

 惠帝の子としては、司馬遹が唯一(女子除く)であり、司馬遹には三子があるが、その子等を皇太子(孫)として立てるとは考え難い。となれば、候補となるのは、後に実現した様に、惠帝の弟達、或いはその子等である。

 惠帝は武帝の第二子であるが、兄は二歳にして夭折しているので、事実上長子であり、「二十六男」いた弟達も、永康元年の時点では多くは故人となっている。存命なのは六名、淮南王允・吳王晏・清河王遐・常山王(元長沙王)乂・成都王穎・豫章王熾のみである。

 最年長の淮南王が二十九歳、その同母弟吳王は九歳年下の二十、以下、清河王二十八、常山王二十五、成都王二十二、豫章王十七となる。その中で、少なくとも年長の四王(淮南・清河・常山・成都)には既に子があり、この時点では故人である楚王瑋に遺児達がいる。但し、楚王瑋は、元康元年に賈后の命で殺されており、常山王乂はその同母弟であるから、賈后の意中にはないであろう。残る五王と、その子等が新たな太子の候補となる。

 五王の内、淮南王允と吳王晏の母は李夫人であり、「夫人」は貴嬪・貴人とともに、「三夫人」とされ皇后に次ぎ、「位視三公」とされる。他の三王の母は、清河王遐は陳美人、成都王穎は程才人、豫章王熾は王才人と、「美人」・「才人」である。「三夫人」に次ぎ「位視九卿」とされる「九嬪(淑妃・淑媛・淑儀・修華・修容・修儀・婕妤・容華・充華)」以下の、「爵視千石以下」とされるのが「美人・才人・中才人」である。従って、淮南王允と吳王晏の二人は皇后所生の惠帝を除けば、母親が最も尊貴という事になる。


 因みに、この李夫人は武元楊皇后傳に「司徒李胤・鎮軍大將軍胡奮・廷尉諸葛沖・太僕臧權・侍中馮蓀・秘書郎左思及世族子女並充三夫人九嬪之列。」とある「司徒李胤」の女であるかもしれない。胡奮女(貴嬪)、諸葛沖女(夫人)、左思妹(貴嬪)は同傳に附して名が見えるので、当然、李胤女も彼女等と同格の「三夫人」とされていると推定できる。

 ついでに言えば、『世說新語』(賞譽第八)には「(馮)蓀與邢喬俱司徒李胤外孫」と見えるので、武帝は馮蓀の從母おば(母の姉妹)とむすめを後宮に納れた事になるが、左貴嬪が左思の妹である様に、これも馮蓀の姉妹であるか、馮蓀ではなく同じく「侍中」で終わった祖父の馮紞の女、乃ち馮蓀のおば(父の姉妹)の誤りなのだろう。世代を考えれば後者の蓋然性が高い。

 また、『太平御覧』皇親部十に王隱『晉書』を引いて「武帝臨軒、拜諸葛婉爲夫人、李曄爲貴人。」とあり、この「李曄」が「李夫人」であるかもしれない。「貴人」とあるが、胡奮傳には「大採擇公卿女以充六宮、奮女選入爲貴人」とあり、「胡貴嬪」も「貴人」とされており、混同、或いは遷位があったのだろう。


 そして、後に賈后の党与として囚われた人物の中に「吳太妃」がいる。これは姓が吳、名が太妃という人物ではなく、吳國の太妃、すなわち、吳の先王の妃、或いは現吳王の母という事であろう。「吳の先王」に当る人物はいないが、「吳王の母」と言えば、吳王晏の母、つまり、李夫人という事になる。

 その「吳太妃」が何ゆえ、賈后の党与とされたのか、その理由と惠帝の後継についてが、何らかの係わりがあったのではないだろうか。吳王晏は、為人「恭愿」(つつしみて誠實なり)とされるが、才は中人に及ばず、武帝諸子中最劣とも評される。少いころから風疾があり、目も悪く、朝覲に堪えずと云われていた。

 年齢的には、愍懷太子よりも下で、このある意味では最も惠帝に似た皇子を、或いは、その子を太子にというのが賈后の思惑にあったのかもしれない。「吳太妃」李夫人の側でも、何らかの目論見があって賈后に近づいていたのだろう。

 また、賈謐の実父韓壽の弟である韓鑒は吳王の属官である王友であり、「二十四友」石崇の姻戚である蘇紹は「吳王師」とあり、吳王は賈后・賈謐に近しい位置にある。従って、候補の一人として、吳王晏があったのは間違いないだろう。

 一方で、可能性は低いが、賈氏を以て司馬氏に代えんという考えがあれば、その継嗣となるのは賈謐が候補となる。しかし、賈后及び賈氏にそこまでの輿望、権威があったとも考え難い。


 結局のところ、賈后等にどのような目算があったのかは不明のまま、三月癸未(二十二日)に元太子、「庶人遹」が許昌で死去する。無論、病没などではなく、殺害である。愍懷太子傳に依ればその死は、「因如廁、慮以藥杵椎殺之、太子大呼、聲聞于外。」というものであった。皇帝の子、元太子が殺害されるという異常事が、半ば公然と行われたのである。

 これは元太子に輿望があり、「殿中人欲廢賈后、迎太子。」となるのを恐れて、「絕眾望」が為に行われたと云う。しかし、この「迎太子」の企ては賈后に太子を害させ、その「報讎」の口実にするという孫秀・趙王倫の策謀であり、実行される事なく、太子の殺害が行われている。

 太子の殺害が公然と行われたと言ったが、死そのものは兎も角、殺害は次期太子も未確定である段階では秘されるべきであろう。その殺害の様子が伝わっているのは、後日に判明した可能性もあるが、この策謀に利する為に流布されたと見る事もできる。


 そして、この孫秀等の目論見通り、四月癸巳(三日)丙夜(三更≒子の刻)一籌を以て、反賈后一派が鼓聲を合図に決起し、賈謐を殺害、賈后を金墉城に幽閉し、後に「金屑酒」を以て殺害する。この際、「黨與數十人」が連座して殺されている。

 「黨與」とされたのは、「韓壽少弟蔚……及壽兄鞏令保・弟散騎侍郎預・吳王友鑒・謐母賈午(賈謐傳)」・「趙粲・賈午・韓壽・董猛(惠賈皇后傳)」・「張華・裴頠・解結・杜斌(趙王倫傳)」、解結の兄である解系等であるが、司空張華・尚書僕射裴頠という朝廷の高官も含まれ、解系・解結兄弟(及び三弟の解育)の如く、賈后の「黨與」というより、趙王等の「宿憾(解系傳)」によって殺された者もいる。「韓壽」が含まれているが、先に述べた様に、何らかの誤りであろう。また、上に述べた如く、「吳太妃」が「趙粲及韓壽妻賈午」等とともに「暴室」に収監されている。


 この決起の首謀者は「梁・趙」とされた様に、梁王肜・趙王倫であるが、主導したのは趙王倫の党与である。梁王肜は齊萬年平定の功により、征西大將軍から大將軍(「在三司上」:一品)・錄尚書事として召還され、名目上、朝廷の首座にあった。また、皇族としても、彼は司馬懿の子で、趙王倫とは異母だが、恐らくは兄に当たる。惠帝の祖輩として存命であるのは、二人の他に平原王榦のみである。

 その平原王は司馬懿の正室張氏の子(司馬師・司馬昭母弟)であるが、「有篤疾、性理不恒」とされ、奇行がある人物であれば、梁王は実質、皇族の最長老であった。故に、梁王肜は朝廷及び皇族の長老として推し立てられたと言うべきであろう。

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