廢太子
話を曹攄に戻せば、太子と賈后(及び賈謐)の対立が深まる中、曹攄は洛陽令に再任されている。彼のこれ以前の経歴については、やや恣意的なものも含め推定でしかないが、元康末、六・七年以降については確度が高いと考える。
本来であれば、太子と皇后の反目は晉に仕える身として無縁ではなく、憂慮すべき問題であるが、朝臣ではない曹攄が直接に関与するような事柄ではない。しかし、元康九年(299)十二月壬戌(三十日)に起こった事件が、彼に事態との係わりを持たせる事になる。
それは「廢皇太子遹爲庶人、及其三子幽于金墉城、殺太子母謝氏。」と記される事件、つまり、太子の廢位である。その理由は「禱神之文」によって、惠帝・賈后の排除と自らの登極を願ったというもの、言わば謀反であるが、この「文」は賈后の命で、太子を酔わせて、無理やりに書かせたものであるとされる。故に召し出された公卿(群臣)も太子への「賜死」に同意せず、司空張華・尚書左僕射裴頠の反対もあって、太子を免じて庶人と為す事で決着している。
なお、この時、朝臣の首座である三公は、太尉の高密王泰が同年六月に死去して空位、司徒の王戎はこの件に関して「竟無一言匡諫」とあり、司空の張華のみが太子の為に弁じている。ついでに言えば、王戎の從弟であり、曹攄を「器」とした王衍は、
庶人とされた太子遹の身柄は翌月、年が明けて改元された永康元年(300)正月に許昌へ移される。その際、太子の「故臣」、太子の官屬は「不得辭送」、見送る事を禁じられたが、少なからぬ者が「不勝憤歎、皆冒禁拜辭」する事となる。
これは太子に輿望があった事を示しているが、詔に違う事であり、京畿の犯法者を察舉する司隷校尉滿奮は「拜者」達を收縛させ、二ヶ所の「獄」、「河南・洛陽獄」に送らせる。
「河南獄」は「付郡」ともあり、河南郡に屬する獄、「洛陽獄」は「繫洛陽」とあり、洛陽縣に屬する獄である。送致された獄の違いが、何に由来するのかは不明だが、或いは管轄地の違いなどであろうか。江統傳では江統等は「冒禁至伊水」と洛陽南方の伊水にまで至っている。これが、洛陽縣の管轄外であれば、そこまで至った者が、「郡に付」され、他が「洛陽に繫」がれた、或いは逆に、伊水までが洛陽に、それ以遠が河南にという事であろうか。
なお、この「拜者」達の主だったものは名が知れており、王敦傳に太子舍人たる王敦「及洗馬江統・潘滔、舍人杜蕤・魯瑤等」という名が見える。
ともあれ、河南獄を管掌するのは、河南尹樂廣であり、彼は収縛者達を「悉散」じ、釈放してしまう。一方で、洛陽獄を管掌していたのが、洛陽令である曹攄である。こちらは「猶未釋」ずと云うから、曹攄は樂廣に倣って収縛者達を釈放するという事をしていない。
これは樂廣が賈后等を憚らず、収縛者達を解き放ったのに対して、曹攄は
また、樂廣は魏末以来、夏侯玄・裴楷・王戎・衛瓘・王衍といった「識者」とされる人々に「歎美」され、「天下言風流者、謂王・樂爲稱首焉。」と、王衍と並び称される声譽の高い人物である。彼の行為を非とする事はその声譽を非とする事になり、衆望に抗する事である。樂廣が釈放した者達は彼の声望によって庇護されるとも言える。
一方で、曹攄の場合は、「聖君」としての輿望はあるであろうが、おそらく楽廣のそれに及ばないであろう。また、賈氏との悪縁は逆効果になりかねない。従って、収縛者達に対して曹攄は何かしようとも為しえなかったと思われる。
結局、都官從事孫琰なる人物が賈謐に対し、「所以廢徙太子、以爲惡故耳。東宮故臣冒罪拜辭、涕泣路次、不顧重辟、乃更彰太子之德、不如釋之(江統傳)」、「前以太子罪惡、有斯廢黜、其臣不懼嚴詔、冒罪而送。今若繫之、是彰太子之善、不如釋去(樂廣傳)」と、故臣達を罰する事は、「太子之德(太子之善)」を
なお、都官從事は司隸校尉の下で、百官の犯法者を察舉するのを主り、拜者達を收縛させた当事者である。司隷校尉滿奮の命とは言え、孫琰自身は釈然としていなかったのであろう。この孫琰という人物については何者であるか不明だが、当時、平南將軍として襄陽に在った孫旂の「弟子」として名が見える「琰」である可能性がある。
一先ず、拜者達についてはこれで落着したが、(元)太子の身柄については以後の火種となる。一方で、曹攄については、以降、この件について関与した形跡は見られない。また、曹攄自身についても、世評がどう変化したかは不明である。以後の経過からして、賈后・賈謐の党与と見られたという事もないようである。従って、この件に関しては関与しただけ、という事になる。本傳に記述が見えないのも、そうした意味しか、この一件にはないという事であろう。
なお、拜者達の内、王敦、江統、潘滔の三者、特に王敦は後に東晉の元勲となる様に、それぞれに、時時の情勢に係わっていく。彼等が処罰されていれば、後の歴史に影響を与えたかもしれない。
また、江統は「齊萬年の乱」の後、「徙戎論」を作り、匈奴などの「戎」を「還其本域」、つまり「本域」である漠北の「塞外」に徙すよう主張した事で知られている。彼が憂えた「夷狄亂華」は後に実現するが、その論自体は実現不可能なものであったと言えるだろう。
以後の経緯を見る前に、いま一つ、時期不詳だが、曹攄の関与が見える逸話を王尼傳に見ておく。
王尼については「城陽人也、或云河內人。本兵家子、寓居洛陽。」と見える。「兵家」とは三國時代以降、兵である事を世襲する、させられる家系の事である。彼は「護軍府軍士」であったが、「卓犖不羈」という為人を慕われて、泰山の胡毋輔之を始め、琅邪王澄・北地傅暢・中山劉輿・潁川荀邃・河東裴遐といった「名士」達が、河南功曹甄述及び洛陽令曹攄に「解」く事、つまり王尼の「兵家」を解除する事を請うたと云う。
これに対し、曹攄等は「以制旨所及、不敢。」であったと云う。つまり、「兵家」の身分を変更するには、「制旨」が必要であり、それ無き故に曹攄は何もしなかったという事であろう。
結局、「名士」達は「羊酒」を持って護軍府に王尼を訪ね、彼と飲酒するのみで、府主たる護軍(中護軍或いは護軍將軍)には
この逸話は曹攄が「制旨」無き故に何もしなかったという事で、賈謐に言われるまで「拜者」達を釈放しなかった事と同じく、権威に従順、或いは弱いという面があるかに見える。
ただ、「制旨」が必要であるものを恣意によって枉げて「解」く事がないというのは、法や公理といったものを遵奉しているという事でもある。「拜者」達に関しても、「冒禁」しているという点では收縛自体は不当なものではない。その罪の有る無しすら問わず、ただ釈放するというのは、一種の責任放棄でもある。
その点では、この二つの逸話は曹攄が恣意(私)を「公」に優先させていないという面を示しているとも言える。一方で、臨淄時代の「寡婦」と「死囚」の逸話は、「寡婦」については正当な審理を命じたものであり、「死囚」については一時の帰宅を赦したのみで、死罪そのものを変更したわけではない。従って、こちらの場合も、法を恣意によって枉げたわけではなく、曹攄の態度は一貫している。
また、王尼自身も含め、彼を評価した「名士」達は、先に触れた胡毋輔之や王澄の如く、「高名」ではあるが、実際の業績に薄い人物が多い。それが曹攄の態度に影響したかは不明だが、太子への「拜者」達への対応も考え合わせると、その為人が推測できる。
と言うのも、太子への「拜者」達の行為は、太子に輿望があり、賈后等への反対の輿論がある事を示したのみで、実益という点では無意味であり、以下で見る様に、むしろ太子にとっては有害となる。従って、曹攄は名利のみで実益のない行為には積極的でなかったと考える。
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