余話 陳壽(『三國志』)

 吳出身の周處が關中に戦没した元康七年(297)に、彼と同じ異朝の出身、吳に先立つ事十五年前に滅亡した蜀漢の遺臣が死去している。尤も、当時としては、単に一人の治書侍御史(六品)が亡くなったに過ぎない。その侍御史の名を陳壽と言い、字は承祚、巴西安漢の人、と言うより、『三國志』の撰者と言った方が通りがいいだろう。


 言うまでもなく、『三國志』は「三國」(魏・蜀・吳)について記した史書で、当時から、「善敘事」である「良史」と評されている。陳壽の死後、梁州大中正・尚書郎范頵等が「辭多勸誡、明乎得失、有益風化。」であるとして、「採錄」すべしと上表している。これを受けて、「河南尹・洛陽令」に詔が下り、「就家寫其書」す事となる。

 范頵等の上表が何時の事であったかが不明だが、陳壽の死から程無くであれば、書写の命は元康八・九年頃に下ったと思われる。『北堂書鈔』に引く王隱『晉書』には「陳壽卒、詔河南尹華澹、下洛陽令張泓、遺吏賚紙筆、就壽門下寫取三國志。」と見える。従って、陳壽が卒し、『三國志』の「寫」が命じられたのは、華澹が河南尹、張泓が洛陽令であった時期となるが、その時期も不明である。

 曹攄は書写の命を受けた「洛陽令」ではないが、書写にはそれなりの年月が必要であろう事を思えば、元康九年以前に洛陽令となった曹攄が全くの無関係であったとは思われない。無論、洛陽令自ら書写を行ったとは思えないが、内容を目にする事はあったであろう。曾祖父等の事績が記された書について、どのような感慨を抱いたであろうか。


 なお、范頵については、ここ以外に名が見えず、何者であるか不明である。但し、「梁州大中正」とあり、大中正はその役柄(郷品を査定する)上、その州を知悉した者、つまりその州の出身者が任じられるので、梁州の出身という事になる。

 『華陽國志』巴志には陳壽の郷里である安漢縣について、「大姓陳・范・閻・趙。」とあり、或いはこの「大姓」である范氏の出であろうか。また、同じ「大姓」には陳氏もあり、陳壽の家系がそれであれば、范頵との間に何らかの係わりがあるのかもしれない。


 ところで、陳壽の死について、『晉書』では「由是授御史治書。以母憂去職。母遺言令葬洛陽、壽遵其志。又坐不以母歸葬、竟被貶議。…(略)…後數歲、起爲太子中庶子、未拜。元康七年、病卒、時年六十五。」とする。

 ここに「由是」と言うのは、太康五年(284)に卒した杜預が陳壽を「黃散」に補任すべきと武帝に薦めた事を指す。「黃散」とは黄門侍郎と散騎侍郎(五品)の事で、共に「尚書奏事」を管る。対して治書侍御史は六品であり、「律令」を掌ると職掌も一致していないが、ともに「書」を掌るという事であろうか。

 ともあれ、太康年間(280~289)に治書侍御史となり、母の死で職を辞したが、その母を故郷に「歸葬」せず、洛陽に葬った事で「貶議」を被っている。これは本来は故郷に葬るべきを異郷(洛陽)に葬った事が不孝とされ、郷品を貶められたという事である。

 そして、「數歲」後に、太子中庶子(五品)に任命されたが、「未拜」、つまり拝受する事無く、元康七年(297)に病死している。「母憂」、母の死が、元康初年であれば、「數歲」で七年となる事はあり得、特段問題はない。


 ところが、『華陽國志』では、陳壽の死について「數歲、除太子中庶子。太子傳從後、再兼散騎常侍。惠帝謂司空張華曰:壽才宜真、不足久兼也。華表欲登〔兼?〕九卿、會受誅、忠賢排擯。壽遂卒洛下、位望不充其才、當時冤之。」とする。

 太子の「傳從」は注に依れば「轉徙」の誤りとされ、「轉」も「徙」も「うつる」であり、「太子轉徙」とは以下に述べる、元康九年末の事件を指す。つまり、陳壽は元康七年に死去しておらず、「太子轉徙」の後に散騎常侍(三品)を兼ね、司空張華によって「九卿」(太僕・衛尉など;三品)とされんとしたが、張華が誅された事で果たされず、遂に死去したと云う。

 張華の死は「太子轉徙」の翌年、永康元年(300)の事であり、陳壽は同年以降に死去したという事になる。『華陽國志』と現行『晉書』では『華陽國志』の方が成立が古く、基本的にはそちらに従うべきであり、これを支持する論もある。


 陳壽が永康元年以降に死去したのであれば、当然ながら、范頵等の上表もそれ以降となる。しかし、追々述べていく様に、同年以降洛陽は、「八王の乱」の只中となり、基本的には混乱が続き、『三國志』の書写を安閑と行う暇はない様に思われる。無論、束の間の平穏とでも言うべき期間はあるので、不可能であるとは言えないが、事業の継続は困難であるかに見える。

 また、先の王隱『晉書』に見える「河南尹華澹」・「洛陽令張泓」について言えば、華澹は卷四十四に傳がある華表の子で、同じく卷六十一に傳がある華軼の父である。華軼傳に「父澹、河南尹。」とあり、河南尹と為っている事が確認でき、それが極官であったと推定される。

 また、『三國志』には華澹の祖父である華歆の傳もあり、同傳に引く『晉諸公贊』には「澹字玄駿、最知名、爲河南尹。」とある。「最も名を知らる」とあるが、華表傳・華軼傳に附傳は無く、他に名も見えず、華澹の経歴は不明である。

 傅咸傳に「咸奏免河南尹澹・左將軍倩・廷尉高光・兼河南尹何攀等、京都肅然、貴戚懾伏。」として見える「河南尹澹」は、他に河南尹となった「澹」が確認できない事から華澹であると思われる。

 しかし、傅咸はその傳では元康四年(294)に卒している。『資治通鑑考異』では『三十國晉春秋』を引いて「元康四年七月、傅咸爲司隸、五年五月、始親職、十月卒。」とあり、その卒年は翌五年(295)となるが、何れにしても陳壽卒の元康七年以前である。従って、華澹は少なくとも元康五年以前に河南尹となり、免じられている事になる。尤も、「奏免」のみで、実際には免じられておらず、元康七年頃まで河南尹であった、或いは再任されたという可能性はある。

 張泓については傳がなく不明だが、後の永康二年(301)に「征虜(將軍)」(三品)として齊王冏と戦う張泓と同一人物であれば、官品やその後の経緯を鑑みても、洛陽令と為ったのは同年以前と思われる。従って、この点でも、陳壽の死は永康元年(300)以前とする方が妥当性がある。


 更に、長年六品に留められていた陳壽が五品(太子中庶子)を経ているとは言え、一足飛びに三品(散騎常侍・「九卿」)に昇任するというのも唐突である。但し、「兼」は自身の官品より高い職を兼ねる事を言うので、陳壽が三品とされたとは限らず、太子中庶子から散騎常侍という例は他にも見えるので、異例とは言えない。

 ただ、『晉書』に「元康七年」と明記されている事への考慮が必要であろう。この記述が何に依拠したのか、逆に言えば、何の根拠もないところから出てきたのではない事を説明せねばならない。

 考えられるのは筆写の誤り、例えば、「七」が「十」や「十一」の誤りといったものだが、「十年」という紀年は五十年以上先の永和十年(354)まで存在せず、「七年」ですら十年以上先で僅か三ヶ月余りの永嘉七年(312)、次いで三十年以上先の咸和七年(332)まで存在しない。

 「元康」と誤りかねない年号としては、元康十年正月(朔)を以て改められた「永康」(300~301)があるが、僅か二年に過ぎず、「永康」を「元康」と、「元年」又は「二年」を「七年」と、二重の誤りを犯している事になる。

 強いて言えば、正月朔に改元されているが永康元年は元康十年に相当するので、永康元年が元康十年と伝承された可能性はある。これならば、同年の張華死後に陳壽が死去した事になり、『華陽國志』の記述に合致し、『晉書』編纂時に、十年を七年の誤りとして改めた可能性もある。ただ、上記に関する疑問は残る。

 これ等を考え合わせると、陳壽の元康七年卒は否定し難い。

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