石崇と歐陽建(石崇②・歐陽建)

 引き続き、石崇と王愷の関係を見てみたい。


 崇爲客作豆粥、咄嗟便辦。每冬、得韮蓱韲。嘗與愷出游、爭入洛城、崇牛迅若飛禽、愷絕不能及。愷每以此三事爲恨、乃密貨崇帳下問其所以。答云:「豆至難煮、豫作熟末、客來、但作白粥以投之耳。韮蓱韲是擣韮根雜以麥苗耳。牛奔不遲、良由馭者逐不及反制之、可聽蹁轅則駃矣。」於是悉從之、遂爭長焉。崇後知之、因殺所告者。(石崇傳)


 王愷には常々、石崇に対して「恨」、嫉んでいる三つの事があったと云う。石崇がいつでも直ぐに豆粥を作って客に振舞える事、冬でも「韮蓱韲」、「韮」(にら)と「蓱」(うきくさ)の和え物を出せる事、そして、車を牽く牛を飛ぶが如く進ませられる事の三つである。王愷はその秘訣を解き明かすのではなく、石崇の「帳下」に賄いして、聞き出している。

 その秘訣とは、豆は煮え難いので予め茹でて置いて、客が来たら白粥に混ぜ合わせる。韮は冬でも根が枯れる事はないので、それを搗いて風味を出し、麦の苗と和える。牛については難解だが、馭者が不必要に制御しなければ、牛は元より速く走るという事であろう。

 牛については兎も角、何れも秘密と言う程もない、ちょっとした工夫であるが、一応、石崇の創意の表れとも言える。対する王愷は、自らも工夫するのではなく、石崇の成果を金で聞き出すという方法で剽窃しただけである。表面だけ、並び、凌げば良いという彼の為人が窺える。


 ところで、後に石崇は王愷に買収された者、「帳下」を殺したとあり、これは彼の残酷さ、苛烈を示していると言える。ただ、「帳下」は『世說新語』(汰侈第三十)では「帳下都督」とあり、將軍などの隷下にありその身辺警護などを担う。

 この場合は石崇の身近な雑務を行う役割であるかも知れないが、内容は兎も角、主の秘を売り渡す様な行為は、軍法に照らせば死罪に当たるだろう。石苞、そして、石崇自身も將としての閲歴を有しており、その下で「帳下」という役割にある以上、軍事的な処断を受けるのも已むを得ないと言える。


 話はやや逸れるが王愷の為人が窺え、石崇が関与する逸話に、「二十四友」の劉輿・劉琨に係わるものがある。


 劉輿兄弟少時爲王愷所嫉、愷召之宿、因欲坑之。崇素與輿等善、聞當有變、夜馳詣愷、問二劉所在、愷迫卒不得隱。崇徑進於後齋索出、同車而去。語曰:「年少何以輕就人宿。」輿深德之。(石崇傳)


 如何なる理由からか、劉輿兄弟は王愷の嫉視を受けており、王愷は彼等を招き寄せ、密かに「坑」、穴埋めにして殺害せんとしたと云う。それを察知した石崇は、既に夜であったが、王愷の元へ颯爽と現れると、兄弟の所在を問い、狼狽うろたえる王愷を前に、二人を見つけ出すと車に乗せて去っている。

 如何に皇帝のおじとは言え、良家の子弟を殺害するという非法が許されるかには疑問があるが、王愷の、気に食わぬなら消してしまう、外形的に両者が居なくなりさえすればいい、という安直、無思慮な思考が窺える。


 以上から、石崇は「而任俠無行檢」、「俠」(おとこぎ)にして、「行檢」(節度)無き、という評が言い得ているが、その行動に問題がありつつも、人を惹き付ける何かがある為人であったと考える。それ故にこそ、先に触れた様に、執拗に弾劾を受けた考えられる。


 そんな為人である石崇だが、「廣城君每出、崇降車路左、望塵而拜、其卑佞如此。」、潘岳傳では「與石崇等諂事賈謐、每候其出、與崇輒望塵而拜。」と、廣城君(賈充夫人・賈謐祖母)や賈謐が外出する度に塵を被るのも意に介せず拝したとある。

 その態度は「卑佞」とされているが、これは或いは、幾度もの弾劾、疎外に辟易し、それを避ける為の一種の方便であったとも考えられる。石崇としては外見上の「卑佞」には拘らなかったとも想われる。

 また、これは時代の違いとも言え、上記の石崇と王愷の逸話は武帝が登場する様に、多くは武帝期、太康年間以前のものであろう。石崇は王愷の珊瑚樹を打ち砕いているが、それは非公式の可能性もあるが、武帝からの下賜品を破壊したとも言え、本来であれば問題とされる行為である。しかし、それが許される寛厚が武帝の時代にはあったと言える。

 一方で、惠帝期はその治世当初の事変など殺伐とした風潮があり、天下に専制する賈后は「性酷虐、嘗手殺數人。」とされ、後に「虐后」と称されている。そうした中で石崇はむだな諍いを避ける為に、敢えて賈謐に卑屈な態度を見せたと想像したい。


 さて、その外甥たる歐陽建であるが、石氏と同郷の勃海重合の人で、「右族」とされる家系の出である。「理思」(思弁)有りて、「才藻」(文藻)に優れるという点は、曹攄にも通じるものがあり、それが二人の交誼の理由の一つであろう。『詩品』で歐陽建は「元瑜・堅石七言詩、並平典、不失古體。大檢似。而二嵇微優矣。」と魏代の阮瑀と並び、「二嵇」(嵇含・嵇紹)がやや優れると評されている。

 「平典、古體を失せず」という事は、進取の気風に富んでいるといった類ではなく、前例を踏み、常識に沿った思考を得意とするのだろう。その意味でも、応変の才を必要とされる軍事には向かないと言え、「齊萬年の乱」において度元に敗れたのはその故であるかも知れない。

 彼の本領は思索にあり、その内容は難解であるので措くが、「言不尽意」、「ことばこころを尽せず」に対する「言尽意論」、「言は意を尽くす」という論陣を張っている。


 また、彼の字は「堅石」であるが、この「石」は石文・碑の意で、それを「堅」(かためる)、「建」(たてる)という連関があると思われる。ただ、「堅石」と言えば、諸子百家の一、名家の公孫龍の「堅白論」から生じた「堅石非石」、「堅石は石に非ず」という論法を踏まえているとも思われる。

 「堅」と「石」は別の概念であるから、「堅石」は「石」ではないという詭弁だが、歐陽建の場合の「石」は彼の外家である石氏で、「堅石」たる自分はそれとは別個の存在であるとの意識があるかに想われる。

 尤も、逆に「石」を「堅」める、「建」てると云うのだから、それを支える意識があるとも取れる。何れにせよ、敢えて「建」てるものとして「石」を選んだ事に、歐陽建の外家、石氏への意識があったと想像したい。

 この字の付け方は、曹攄等曹休の家系の付け方に通じるものがあり、他者が付けた、与えられた字という可能性もあるが、両者の気質が似通っていた証左と言える。

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