石崇と歐陽建(石崇①)
ここで曹攄の為人を窺い知る為に、「二十四友」の中で曹攄との係わりが深い石崇及び、その甥の歐陽建、主に史料が豊富な石崇について、もう少し触れてみたい。
石崇は渤海南皮の人、晉の「佐命功臣」石苞の末子(第六子)である。彼の
因みに、彼の五人の兄は「統字弘緒」・「越字弘倫」・「喬字弘祖」・「浚字景倫」・「儁字彥倫」であり、統・越・喬が「弘」、統・喬以外が「倫」を共通する。石崇は兄達に肖って、名と連関する「倫」に、末子であり、「倫」としては四番目でもあるので、それを意味する「季」を添えたのであろう。この字の付け方は連関する文字に「子」を冠するのみの、魏代の曹氏の風潮と同様である。
なお、先に石崇と「酒を爭」った高誕の「放率不倫」について、その「倫」を「たぐひ」と解したが、「のり・すぢ」がないとすれば、道理がない、といった語感になり、二人の争いには高誕の側に、より非があったとも解釈できる。
石苞の子として石崇は「生於青州、故小名齊奴。」と、青州に生まれた故に、幼少時には「齊奴」と呼ばれたと云う。石苞は二度、青州に関与しており、一度目は景初年間(237~239)以降の時期不詳だが、「歷東萊・琅邪太守、所在皆有威惠。」と為った時期。二度目は嘉平四年(252)十二月の「文帝之敗於東關」から甘露二年(257)五月の「諸葛誕舉兵淮南」の間に奮武將軍・假節・監青州諸軍事と為った時期である。
石崇は永康元年(300)に「年五十二」で死去するので、嘉平元年(249)生まれであるから、同年前後に石苞が東萊太守(屬青州)であったのだろう。
石苞は東萊太守から琅邪太守、次いで徐州刺史を経て監青州諸軍事と為っており、徐州は青州の南隣であるから、石崇は広義の青州、「齊」の周辺で育った事になる。彼と曹攄との交遊の切っ掛けには、自身が生まれ育った地との所縁も影響していたかも知れない。
上記の「諸葛誕舉兵」が平定された後、石苞は先にも触れた様に都督揚州諸軍事と為り、魏晉革命、晉の成立後に吳への通敵の疑いから官を免じられ、後に許されて司徒として、おそらくは洛陽にて薨じている。
石苞はその死に際し、「苞臨終、分財物與諸子、獨不及崇。」と、子等に財物を分け与えながら、唯一人、石崇には与えず、それを
「後に自ら能く得」るとは、石崇の能力を高く評価した言であるが、何故自分だけが、という思いを抱くのは避けられない。石崇は父の信頼を誇らしく思うと同時に、疎外された事への不満を抱いたであろう。
実際、彼は後に「豐積」とされる程の財を築き、その豪奢を以て知られる様になるので、石苞の見立ては正しかったとは言える。或いは、石崇の過度に贅を尽くす行為の根底には、周囲や亡き父に彼が「得」たものを知らしめようという意識があったのかも知れない。
ところで、石苞の「臨終」、その死は傳では「泰始八年薨」とあるが、武帝紀では泰始九年(273)二月に「癸巳、司徒・樂陵公石苞薨。」とある。だが、石崇は嘉平元年(249)生まれであるから、九年には二十五であり、弱年ではあるにせよ、「此の兒 小と雖も」という程の年齢ではない。この逸話自体が創作というのでなければ、「臨終」が死の直前ではなく、いま少し早い時期であったのだろう。
さて、石崇の贅を尽くす様はその傳で詳述されているが、その中でも王愷との贅比べとでも言うべき競い合いは、『世說新語』にも載録され、よく知られている。「愷以𥹋澳釜、崇以蠟代薪。愷作紫絲布步障四十里、崇作錦步障五十里以敵之。崇塗屋以椒、愷用赤石脂。」がそれである。
何れも浪費を以てその財を示すという類いで、「步障」(目隠し・幔幕)を四十里・五十里というのは当にその典型であり、材質の違いはあれ、両者の行為に違いはない。だが、残る二つには些か趣が異なるところがある様に思われる。
王愷の「𥹋」とは「飴」で、『說文解字』に「米糱煎」とあり、「糱」は「牙米(芽米)」であり、それを「煎」(いる)と云うのだから、乾燥させた米、麹の類いであろうか。「澳」は水の奥深い所であるので、釜に水を深くするで「洗う・濯ぐ」となるのかも知れないが、石崇の「蠟」(みつろう)を「薪」(たきぎ)の代わりにしたと対置されている事からすれば、「燠」で「あたたむ」ではないか。「𥹋」を「水あめ」として、それで濯ぐとも解せるが、どう考えてもそれで洗えるとは思えない。
「蠟」は他の用途もあるにせよ、蝋燭の如く燃やすものであるが、「𥹋」の本来の用途は「燠」・「澳」何れであっても無関係と思われる。つまり、王愷は、より無意味な事をしており、同じ「むだ」であっても「贅」(無用)と言うより、「徒」(から・むなし)という感がある。
石崇が屋を塗ったという「椒」は山椒であり、薬としても使われる高価なものであるが、それを塗った「椒屋(椒房)」と言えば、皇后の殿舎であり、應劭『漢官儀』に「取溫暖除惡氣」、『三輔黃圖』に西漢代に長安未央宮に在った椒房殿について「取其溫而芬芳也」と、暖かく、香りよく、「惡氣」を除く効果があるとされる。
一方で、赤石脂は赤い光澤のある土で、薬として止血・止瀉の効能があると云うが、それを壁に用いても意味がないであろう。であれば、その色艶にだけしか価値はないと言える。
ただ、『漢官儀』には上記に続けて、「猶天子朱泥殿上曰丹墀也。」、天子(皇帝)は殿上に朱泥を施すとあり、赤石脂を用いるとは、それに模したとも思われる。すると、石崇はその妻妾を「椒房」、皇后に、王愷は自らを天子に擬したともとれ、或いは、この逸話は両者の不遜を云うとも考えらる。
ともあれ、石崇と王愷を比べた場合、王愷の方がより無益な事をしており、安直に、外面だけを飾っているかに感じられる。
この王愷の外面だけを取り繕うという気質を表していると思われるのが、以下の逸話である。
武帝每助愷、嘗以珊瑚樹賜之、高二尺許、枝柯扶疏、世所罕比。愷以示崇、崇便以鐵如意擊之、應手而碎。愷既惋惜、又以爲嫉己之寶、聲色方厲。崇曰:「不足多恨、今還卿。」乃命左右悉取珊瑚樹、有高三四尺者六七株、條榦絕俗、光彩曜日、如愷比者甚眾。愷怳然自失矣。(石崇傳)
石崇と王愷の「爭豪」、贅比べに際し、武帝(司馬炎)は王愷を贔屓しており、彼に「高二尺許」の珊瑚樹を下賜している。それを見せられた石崇は、手にしていた鉄如意で打ち砕いてしまう。当然ながら、王愷は激しく怒り、石崇を嫉妬に駆られたのだろうと責め立てるが、石崇はおそらくは悠然と、「怒るほどのことではない、今、卿に還すよ」と応えている。そして、石崇が取り寄せた珊瑚樹は「高三四尺」なるもの六、七株、石崇が打ち砕いた程度のものは甚だ大量にあり、王愷は茫然自失する他なかったと云う。
石崇が王愷の珊瑚樹を打ち砕いたのは、それが武帝から下賜されたもの、王愷が自ら手に入れたものではなかったからではないか。上で触れた様に、石崇の富力は父から受け継いだものではなく、王愷に見せ付けた珊瑚樹は、彼自らが得たものであった筈である。対して、王愷の珊瑚樹は分け与えられたもの、しかも、与えた武帝は皇帝であるばかりでなく、彼の
他者から得たものをしたり顔で自慢する王愷に、石崇は怒りを覚えたのではないか。一方で、王愷としては石崇に勝る、彼が持ち得ないものを掌中にしている、そうした外形的事実があれば満足であり、それを手にした経緯、内実は顧慮するに値しなかったものであったと想像される。
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