「二十四友」

 「齊萬年の乱」終熄の頃までには、曹攄の病は癒え、再び洛陽令に登用されている。その正確な時期はこれまで通り不明であるが、後に見る様に、元康九年(299)末に洛陽令である事は確実なので、遅くとも同年中には復帰している事になる。


 この洛陽令への復帰には如何なる意味があるのだろうか。基本的に「以病去官」或いは「以病免」の後、同官に再び任じられた例は確認できない。

 強いて類似した例を挙げれば、司馬朗(司馬懿兄)が縣令(成皋令)から縣長(堂陽長)となった一例のみが確認できる。無論、例が確認できないからといって、例が無いという事は意味しないが、稀有な例ではある。であれば、多少なりとも何らかの意味はあるのだろう。

 当時は、元康七年(297)七月に「雍・梁州疫。大旱、隕霜、殺秋稼。關中饑、米斛萬錢。詔骨肉相賣者不禁。」と見える様に、關中が「齊萬年の乱」の混乱に加えて、疫病・飢饉によって荒廃し、同八年(298)九月の「荊・豫・揚・徐・冀等五州大水」という広範な「大水」(洪水)によって、各地の世情が不穏になりつつあったと見られる。そんな中、百姓の「懷」く曹攄を再任する事で、多少なりとも都下の安定を図ろうという意図があったのではないか。


 一方で、曹攄は推定に従えば、太康年間後半から十年以上に亘って、六品(臨淄令・尚書郎・洛陽令)のままである。「以病去官」があり、洛陽令は一般の縣令より格上とは言え、これが通常なのか否かは類例が少なく判断し難い。ただ、例えば、既に郡太守(馮翊太守;五品)に至り、歴任(頓丘太守)している可能性もある歐陽建と比べると、少なくとも官品では遅れをとっているのは間違いない。

 因みに、劉毅傳に附された程衛という人物は「遂辟公府掾、遷尚書郎・侍御史、在職皆以事幹顯。補洛陽令、歷安定・頓丘太守、所蒞著績。卒于官。」と、公府掾から尚書郎を経て洛陽令、その後、頓丘太守と為っており、洛陽令より頓丘太守が上位である事が知れる。

 少なくとも、曹攄の昇任は早いとは言えないのではないか。但し、歐陽建の場合は、功臣である石苞の外孫という事情も影響しているかと思われる。また、曹攄と歐陽建では交遊関係にもやや違いがある。


 そこで歐陽建の交遊関係を確認してみたい。先ず、歐陽建自身について言えば、渤海、『太平寰宇記』卷六十五に依れば勃海重合の人で、その家系は「冀方右族」であると云う。

 渤海歐陽氏に著名な人物はいないが、東漢初期に大司徒となった歐陽歙を生んだ、隣郡(当時)の青州千乘歐陽氏と同族であるかもしれない。この千乘歐陽氏は歐陽尚書と呼ばれる尚書を家伝とする家系であるが、歐陽歙が下獄死した後、やはり著名な人物は出ていない。

 当時に於いては、歐陽建が渤海歐陽氏で最も著名な人物であり、後世からすれば彼が名祖ともいうべき位置にある。だが、当時としては歐陽建は渤海歐陽氏の族員と言うよりも、渤海石氏の外孫と見做されたかもしれない。外祖父石苞は「佐命功臣」として、廟庭に「配享」された一人であり、この点でも、前王朝の宗室出身の曹攄より権貴に近いと言える。

 ただ、その家系のみではなく、歐陽建自身が「雅有理思、才藻美贍」として「渤海赫赫、歐陽堅石」と評されており、曹攄と同様の官途を経ている事から郷品は三品と推定される。この点では曹攄と歐陽建に大きな違いは無く、その昇任の速度差は才覚の差でなければ、やはり、互いの知己の差という事になる。そうした歐陽建の知己に、賈謐という人物がいる。


 賈謐は、晉にとって最大の功臣の一人と言ってもいい賈充の世孫、と言うより、元康年間に於いては皇后賈氏の外甥(妹の子)である。実父は曹攄と詩文の贈答があった韓壽であるが、嗣子の無かった賈充の養孫となっている。

 本来、異姓養子は忌避されるが、賈氏の権勢の前では問題とされなかったのだろう。また、異姓養子自体も、曹操の父曹嵩(夏侯氏)、吳將朱然(施氏)、石苞と並ぶ功臣である陳騫の父陳矯(劉氏)などの例に見られる様に、実際はしばしば行われていたようでもある。

 賈謐は「好學、有才思」とされ、祕書監(三品)として、「國史」を掌るなど、「文」に関心が高い人物で、周囲に当時の著名な文人二十四名を集め、「(魯公)二十四友」(魯公は賈謐の爵)と号したと云う。その二十四名を記せば以下の如くなる。


 渤海石崇・歐陽建 滎陽潘岳 吳國陸機・陸雲 蘭陵繆徴 京兆杜斌・摯虞 琅邪諸葛詮 弘農王粹 襄城杜育 南陽鄒捷 齊國左思 清河崔基 沛國劉瑰 汝南和郁・周恢 安平牽秀 潁川陳眕 太原郭彰 高陽許猛 彭城劉訥 中山劉輿・劉琨


 この二十四人が当時最高の文人と言えるかは文章の残欠もあり、言い難いが、殆どが当時高名な文人であったのは間違いないようである。

 『詩品』では陸機・潘岳・左思が上品に、陸雲・石崇・劉琨が中品、歐陽建が下品に入っている。『詩品』では、他にも当時の文人は多いが、例えば中品に名が見える張華は、当時司空という高位にあり、推輓を必要とせず、賈謐の祖父である賈充との「平吳」をめぐる諍いなどの故に「二十四友」には入っていない。

 他にも様々な理由で選ばれていない人物は多いだろう。そして、同じく『詩品』中品にある曹攄の場合も文才以外の面が影響していると思われる。

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