「齊萬年の乱」

 齊萬年討伐に派遣されたのは「安西將軍夏侯駿・建威將軍周處等」であるが、夏侯駿が起用された理由は彼の経歴が不詳であり、明らかでない。強いて言えば、彼の祖父夏侯淵や伯父夏侯霸、親族である夏侯玄が、關中にて將となった事があるという所縁からであろうか。判然としない。一方で、周處についてはその傳に明記されている。

 なお、「等」については、梁王肜傳に「振威將軍盧播」の名が見えるが、彼はこの件以外では惠帝紀と梁王肜傳で各一ヶ所に見えるのみで詳細は不明である。因みに、『藝文類聚』卷五十三(薦舉)に陳留尉氏の人たる阮籍が「晉文王」(司馬昭)に推薦した「鄙州別駕盧播字景宣」なる人物が見える。

 だが、阮籍は景元四年(263)に、司馬昭も咸熙二年(265)に死去しているので、三十年以上前の事で、同一人物であるかには留保が必要である。


 さて、周處はその傳に依れば、朝臣一同の「處、吳之名將子也、忠烈果毅」なる言により、討伐に起用されている。「忠烈果毅」については兎も角、「吳之名將」については、彼の父周魴の功績は鄱陽太守として同郡、或いは周辺も含めた寇難を武断を以て治めたというもので、曹休への偽降を以て「名將」としたものではないと思われる。仮に太和二年の戦績を以て「名將」とされたならば、曹攄としては愉快ではなかったであろう。

 但し、「名將」については、実際の用例を見ると、「優れた將」といった語感ではなく、「名だたる將」、つまり、名を知られた將軍といった意味合いである。無論、名を知られているのは、優秀なる故という例も多いであろうが、周魴については偽降を以て名を知られているという意味合いが強い様に思われる。


 一方で、周處当人は雍州新平郡の太守と為った事があり、その際、「撫和戎狄、叛羌歸附、雍土美之。」という治績を挙げており、この「叛羌 歸附す」が起用の一因となったのではないか。周魴も寇賊の頻発する鄱陽郡で「賞善罰惡、威恩並行。」という治績を挙げており、その意味では確かに、周處は「名將子」と言える。

 しかし、「名將」云々は建て前であり、実際の起用の理由は御史中丞として周處が「凡所糾劾、不避寵戚」であり、朝臣が周處の強直を疎んじていた故であると云う。己を「改勵」し得た人物の糾劾は、単なる粗捜しではなく、真実の重みを持つと言うべきだろう。故に、より疎まれたと考えられる。軍を総覧する梁王肜自身も、周處に弾劾された一人であり、悪意の人事であったと言える。


 この件に関して中書令陳準が「駿及梁王皆是貴戚、非將率之才、進不求名、退不畏咎。周處吳人、忠勇果勁、有怨無援、將必喪身。宜詔孟觀以精兵萬人、爲處前鋒、必能殄寇。不然、肜當使處先驅、其敗必也」という言を残している。貴戚である夏侯駿や梁王肜は「將率之才」に非ず、進んで名を求める事も、退いて咎めを畏れる事もない。つまり、積極的に討伐に当たる事はない。一方の周處は「忠勇果勁」なれど、「怨有りて援無く」、必ずその身を喪うだろう。怨みから援けを得られず身を滅ぼす事になる。一種の予言である。

 むしろ、周處を評価していたのは、討伐を受けるべき齊萬年であり、彼は周處の起用を聞き、「周府君昔臨新平、我知其爲人、才兼文武、若專斷而來、不可當也。如受制於人、此成擒耳」と語ったと云う。

 「府君」(太守の尊称)という言い方だけでも、彼の周處への敬意が知れるが、才文武を兼ねる周處が専断を許されて来るならば、対抗する事はできないと云うのだから、最大級の警戒と言える。ただ、人に制せられる立場でしかないならば、とりこと成るのみ、というのは、或いは、周處の討伐軍に於ける立場を知っていたのかも知れない。


 そして、陳準の予言は的中し、年が明けた翌元康七年(297)正月、周處は齊萬年と戦い、戦死する。その様を周處傳から引用すれば、以下の如くである。


 時賊屯梁山、有眾七萬、而駿逼處以五千兵擊之。處曰:「軍無後繼、必至覆敗、雖在亡身、爲國取恥。」肜復命處進討、乃與振威將軍盧播・雍州刺史解系攻萬年於六陌。將戰、處軍人未食、肜促令速進、而絕其後繼。處知必敗、賦詩曰:「去去世事已、策馬觀西戎。藜藿甘粱黍、期之克令終。」言畢而戰、自旦及暮、斬首萬計。弦絕矢盡、播・系不救。左右勸退、處按劍曰:「此是吾效節授命之日、何退之爲。且古者良將受命、鑿凶門以出、蓋有進無退也。今諸軍負信、勢必不振。我爲大臣、以身徇國、不亦可乎。」遂力戰而沒。


 朝まだき、食事すら済ませていない周處の軍に下されたのは、「速やかに進め」、簡潔というより、簡素な命令である。齊萬年は「眾七萬」、孟觀傳では「數十萬」ともされる。「數十萬」には誇張もあるであろうが、或いは兵だけではなく、家屬や部衆など、非戦闘員も含めればその程度になるやもしれない。

 対して周處は僅か「五千兵」を以てこれに当たらされている。十倍になんなんとする自分たちに向けて、他と連携するでもなく前進してくる軍に、齊萬年等は奇異の目を向けたであろう。

 策でもない限り、勝敗の帰趨は言うまでもなく、その軍は早々に大軍の中に埋没していく、そう思うのが当然である。だが、旦に始まった戦いは、日が中天を過ぎ、傾いてもなお続き、斬首は萬に及び、弦が絶え、矢が尽きても、その奮戦は已む事が無かった。

 或いは、他軍がここで、周處に連動して動いていれば、この乱は終熄していたやも知れぬ。しかし、その勇戦は報われる事無く、梁王以下、盧播・解系等「後繼」(後続軍)の諸將は拱手傍観するだけであった。周處は左右に撤退を勧められるが、それを拒絶してなおも戦い続け、暮に至り、遂に戦場に没している。当に、陳準の言う「怨有りて援無し」である。


 私怨から好機を棄てたとも言える諸將がその後、どう齊萬年等に対したのかは記されていない。意気揚がる彼等に、為す術なく撤退したとも想像される。結局、この乱はなお二年に亘って続き、元康九年(299)正月、左積弩將軍孟觀が齊萬年を大破、捕獲した事で漸く乱は終熄する。孟觀の名は陳準が挙げており、この点でも、彼の言は予言となっている。


 この「齊萬年の乱」と曹攄に直接の係わりはないが、「良友」である歐陽建、そして、曾祖曹休を介した因縁がある周處が関与したこの乱に、無関心だったとは考え難い。彼がこの乱をどう見ていたかを窺い知る事は出来ないが、単なる小事と捨て置いた事だけはないと思われる。

 この争乱で流動化した民が、各地で騒擾を巻き起こし、それがまた別の争乱を引き起こすという連鎖を生んでいく事になる。そうした地方の争乱と、中央の「八王の乱」が相俟って、晉(西晉)は崩壊していくが、曹攄はその幾つかと係わりを持つ事になる。

 また、周處の死に見られるような、「公」より「私」を優先する風潮は、「八王の乱」を始めとする当時の特質とも言え、曹攄も影響を受ける事になる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る