元康六年の叛乱
元康六年(296)五月に起こった叛乱は「齊萬年反」と、齊萬年の名を冠して呼ばれるが、その端緒を為したのは、「齊萬年」ではなく、「匈奴郝散弟度元」とされる人物である。
「匈奴郝散」というのは、先に少し触れた、元康四年(294)五月に「匈奴郝散反、攻上黨、殺長吏。」と記される、上黨郡で反乱を起こした人物である。匈奴は嘗て漢の敵國として漠北に勢威を振るった遊牧騎馬の民であるが、東漢以降、漢に内附し、上黨郡を含む并州一帯に居留している。
その匈奴の郝散が何ゆえ、上黨郡を攻め、長吏を殺す事になったのかは不明であるが、その後、西へ逃亡したらしい。上黨郡から、司州の平陽郡などを経て、南流する黄河を渉って雍州の馮翊郡に入り、三ヵ月後の八月、郝散は降り、馮翊都尉によって殺されている。
郝散の弟、度元は赦されたのか、逃亡を続けたのかは不明だが、二年後の元康六年五月に「馮翊・北地馬蘭羌・盧水胡」を率いて北地郡を攻め、太守の張損を殺害している。それが、乱の始まりである。
この度元を討伐せんと戦ったのが、馮翊太守であった歐陽建であるが、彼は敗績し、同年八月に雍州刺史解系も度元に破れた事で、關中は「秦雍氐・羌悉叛」すという事態に陥る事になる。
この乱の原因について、趙王倫傳は「倫刑賞失中、氐羌反叛」とし、趙王倫の刑罰賞賜が適宜でなかった事を挙げている。これだけでは抽象的だが、解系傳に彼が趙王倫の信用するところの「佞人孫秀」を殺して、「以謝氐羌」せん事を請うた記事がある。
同様の言、「趙王貪昧、信用孫秀、所在爲亂、而秀變詐、姦人之雄。今可遣梁王斬秀、刈趙之半、以謝關右、不亦可乎」が「或」者の言として張華傳にも見え、これ等は孫秀が「氐羌」に害を為した、少なくとも、彼を殺す事で、一部なりともその怒りを宥める事ができるという事を示している。
従って、「刑賞失中」とは、刑すべきでなき者を刑し、賞すべきでなき者を賞す、といった類であった事が想像される。つまり、刑(つみ)とされたのは「氐羌」等であり、賞されたのは孫秀等趙王倫に「信用」された者達という事になる。
そして、孫秀は「佞人」とされ、「貪淫昧利」ともされる様に、趙王の側近として権勢を握り、恣欲を遂げんとする為人であれば、同じく「貪昧」とされる趙王倫とともに、その行為が關中に「亂を爲」すものであったのは想像に難くない。
趙王倫はその任を解かれ、代わりに梁王肜が征西大將軍・都督雍梁二州諸軍事として、關中に出征する事となる。但し、趙王倫の責は問われず、車騎將軍として召還されたのみである。
趙王倫・孫秀等の恣行に異議を唱えていたのが、馮翊太守の歐陽建である。『文選』歐陽建「臨終詩」注に引かれた王隱『晉書』には「趙王倫之爲征西、撓亂關中、建每匡正、不從私欲、由是有隙。」とある。この「隙」が歐陽建を死の淵に突き落す事になるが、ひとまず措く。
本来であれば、度元に敗績した歐陽建や解系の責も問われる筈であるが、その形跡は見られない。都督である趙王倫の罪が問われていない以上、その下にあった歐陽建等の罪も問われなかったと思われる。
なお、傳の記述では歐陽建は馮翊太守で終わったかに見えるが、『隋書』經籍志には「晉頓丘太守歐陽建集二卷」とあり、『新唐書』宰相世系(歐陽氏)にも「晉頓丘太守建」とあり、歐陽建は「頓丘太守」となっている。
こうした場合の官号は通常、最終官位であるから、歐陽建は元康六年以降に頓丘太守と為っており、『晉書』ではそれが脱落している事になる。そして、歐陽建の死は永康元年(300)八月であるから、頓丘太守への任用は元康六年から程無くであったと推測される。これが正しければ、やはり歐陽建の敗績の責は問われていない事になる。この理由については後にいま一度考えたい。
さて、「秦雍氐・羌悉叛」となった關中の動乱であるが、度元の名は雍州刺史解系を破った後、史書に見えなくなる。死亡したのか、他の理由があるのかは不明だが、代わって浮上してくるのが、「氐帥」とされ、推されて帝号を称した「齊萬年」の名である。
この齊萬年を討つべく、征西大將軍梁王肜の下に安西將軍夏侯駿・建威將軍周處等が派遣される。
この二者は家系的に曹攄とやや係わりがある。先ず、夏侯駿は司徒魏舒に附随して少し触れたが、嘗て豫州大中正であり、同州譙郡の夏侯氏で、祖父は曹操の挙兵に従った夏侯淵、その四男の夏侯威が父である。
夏侯氏は曹操の父曹嵩が夏侯氏の出であると云われる様に、同郡の曹氏と縁が深く、夏侯淵の妻は曹操の內妹(母方のいとこ)であり、夏侯淵の長子(夏侯駿の伯父)衡の妻は曹操の姪(弟女)である。
一方で、夏侯威の家系は晉室の司馬氏にも近く、夏侯駿の姪(弟女)は司馬懿の孫である琅邪王覲に嫁ぎ、元康六年当時の琅邪王睿、後に東晉の元帝となる人物はその子である。
また、夏侯駿の字は長容であるが、傅咸傳(傅玄傳附)に「長容則公之姻」と見え、ここで「公」と呼ばれているのは汝南王亮(司馬懿子;「八王」の一)である。既に述べた様に、「姻」は「婿之父」であるので、汝南王亮の女が夏侯駿の子に嫁いでいる事になる。
『通典』(禮二十嘉禮五)に「夏侯俊有弟子喪、爲息恒納婦、恒無服」という一文があり、この「夏侯俊」は夏侯駿であり、「息恒」というのが、汝南王の婿であったかもしれない。
因みに、汝南王は元康元年六月に殺され、先の「長容則公之姻」云々という言は、それ以前に述べられたものである。『文選』潘岳「夏侯常侍誄」に依れば、同年五月に夏侯駿の「弟子」である夏侯湛が死去しているので、時間的余裕が少ないが、「有弟子喪、爲息恒納婦」によって、夏侯駿が「公(汝南王)之姻」となる事ができる。
これ等は曹攄と直接の関係はないが、同じ魏の皇族に準ずる家系でありながら、曹攄の家系(曹休子孫)とは異なる在り方を示してきたものとして興味深い。
いま一人の周處は旧吳(吳郡吳興)の出身であるが、彼の父周魴は曹攄の家系と直接に係わりがある。
魏の太和二年(228)、曹攄の曾祖父である大司馬曹休は吳領である廬江郡に進攻するが、孤立し吳軍に大敗する。この時、偽降によって当初の予定より深く、曹休を誘い込んだのが吳の鄱陽太守周魴である。曹休は敗北を気に病んで死去しているので、曹攄からすれば、周魴は間接的ながら曾祖の仇という事になる。但し、直接に曹休を破ったのは陸遜等であるから、怨みがどちらに深かったかは不明である。
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